不意の焦燥

 

 

 

 

 

 

 活気あふれる、とまでは言えないがそれなりの喧騒が街を包み込んでいた。初夏と言えど太陽が真上にある今は襟に汗が滲むほどには暑い。職業柄暑さにも寒さにも慣れているので自身は辛くないが、目前の人物のためにそろそろ体を休めるべきではないかとグリエは思う。

 すたすたと、まるで知った場所のように雑踏を進む己の主に目を向ける。と、計ったかのようなタイミングで相手が振り向いた。

 

「疲れた?」

「いえ、でも猊下はお疲れでは、」

「ちょっと、こんなところでその呼び方はないだろう」

「………失礼しました。俺は大丈夫です。でも坊ちゃんは少し休んだほうがいいですよ」

「僕のことはロビンとでも呼んでくれ」

「御意」

 

グリエの選択は彼のお気に召さなかったらしい。同じ双黒の魔王陛下は快く受け入れてくれているのに…と思いながら、それでも主人の命にはおとなしく従うのが正しい従者のススメである。すぐさまにっこりと快諾したオレンジ頭に村田もにこりと笑う。

 

「じゃあグリエ、休もうか」

「はい」

 

そう言って村田が入った場所は小奇麗な食堂、とでも言えばいいだろうか、決して広くはない空間に雑然と机と椅子が並べてある。そこにあるのはどれも血盟城にあるものとは比べ物にならないほど粗末だが、店の中の雰囲気は悪くない。狭い室内はきちんと清掃がされているし、申し訳程度に空いたいくつかの窓から入る風は心地よく、昼時にも関わらず込み合ってもいないのでゆっくりと時間が流れているかのような印象を受けた。

 その、規則性なく置かれた家具の間をするするとぬって、村田は一番扉から遠い席にすとんと腰かける。あまり照明の明るくない店の中のさらに奥まった位置にあるその席は、隠れ家的雰囲気のある店内でも自分たちが座るには格好の場所だとグリエも思う。

 

それでもあまりにも迷いのない、慣れた様子を見せる村田に少しの疑問がわくがすぐに、自分の居るべき場所を瞬時に把握することなど彼にはたやすいのだろうという結論に落ち着いた。

 既に店の雰囲気に馴染んでいる村田の前に、他の者から彼を隠すかのようにグリエは座る。

 

「それ、少しばかり目立ちますね」

「大丈夫、ここは変人しか来ないから」

 

村田の頭を見てグリエは少し心配するが、そっけないほど淡々とした返事が返ってきた。

 血盟城を抜け出すにあたり、村田は黒目を隠すための青いコンタクトと、黒髪を隠すため頭に布を巻いている。これはいつも城下に下りるときの村田のスタイルだ。

 布は側仕えをうまく言いくるめてグリエが入手したが、それを届けに来たときには村田の目は真っ青に変わっていた。どこに隠し持っていたのか謎だが、猊下ならそのくらいのことはできそうだと思わせてしまうのが彼の彼たる所以だとグリエは少々呆れながら思ったものだ。

 何を考えているか分からない。

 底が知れない。

 以前よりも強く、グリエはそう思う。

 

「………何?」

 

じっと見つめすぎたからだろうか、いつの間にか運ばれてきていたカップに口をつけながら村田は訝しげにグリエを見る。

 

「いえ、猊下、あの方と何かあったんで?」

「……」

 

見つめすぎた自覚があるグリエは少し居心地の悪い思いで、それとなく話題を変える。といっても、村田のオーラに怒りが滲んでいるというのは彼が部屋に帰ってきたときから感じていたことだった。

 案の定目の前の相手は露骨に顔をしかめて黙った。が、すぐにカップをおいてため息をついた。

 

「別に、ただ彼の身代わりになれと言われただけさ。君からも聞いたとおりにね」

「そうですか」

 

とてもそれだけとは思えないが、今の村田を刺激するのは良くないと考えて無難な相槌を選ぶ。グリエ自身からその旨を聞いたときも、随分とご立腹で眞王本人に直談判しに行ったのだ。

 しかし彼のその後の様子から見ても結果は明らかだった。

 

「君はどう思う?」

 

突然振られてグリエは少々面食らった。そんな国家の中枢に関わるような大事を一介の付き人である自分に振られても答えようがない、と彼は思うが目の前の瞳の前にそんな思惑は無意味なようだ。

 

(まったく、猊下の双眸は厄介だ)

 

かの魔王陛下の、目の醒めるような黒い瞳でさえ精神を揺るがすには至らないのに、とグリエは内心唸る。至上の双黒の、こともあろうか片方の瞳は、グリエの何にも揺るがない心の内をこれほどに掻き乱す。しかも目の前の彼は現時点、黒い瞳でさえもない。

 白旗でも揚げたいような心持ちでグリエはため息混じりに答えを返した。

 

「俺にはよく分かりません。でもまあ、国のために貴方が必要だということは確かでしょうね」

「………それで?」

「あの方の言うとおりだとは思いますよ。今、『彼の方』は必要で、厄介なことにその姿は実に特殊だ。現在代わりとなることが出来るのは、貴方しかいない。でも」

 

グリエは一度言葉を切る。真剣な表情で彼の言葉を聞いている村田をじっと見つめ、にやりと笑った。

 

「それはこっちの方々の都合です。残念ながら、俺は生まれてさえいない世界の、ね。だから俺にとっての最優先事項は、貴方の安全だ」

 

村田は一瞬、虚をつかれたような顔を見せて、

 

「だからそんな危険を伴うかもしれないこと、断ってしまえばいい。そう思いますよ、正直なところね」

 

あっけらかんと言い放ったグリエに、目の前の高貴な主人は何とも言いようのない笑みを見せた。

 

 グリエはどきりとする。

 嬉しいような、苦しいような―――自分の知っている、そして知らないさまざまな感情が混ざったような、そんな。

 笑い方だった。

 

「だから貴方がその話を受けたくないと言うならそれでいいし受けるというならそれでもいい。どちらにしろ俺は貴方の命に従います」

 

彼の笑みに動揺して早口になる自分自身に気づいていたが、一気にグリエは言い切った。照れ隠しもあっただろうし、言っておかなければいけないと無意識に思っていたのかもしれなかった。

 長いこと使っていなかった、胸の奥の奥の、そのまた奥の部分を揺さぶられたかのような感覚にグリエは心中穏やかではない。が、そんな混乱の最中でも彼の優秀な頭は冷静に働く。

 賢者が下すであろう決断を、従者はほとんど確信していた。

 

「でも」

 

混乱と冷静の間で、それでも平静を見事に装いながらグリエは言う。相手もまた、それを理解しているというように目を閉じた。

 

「貴方の答えは決まっているのでしょう?」

「さすが、察しがいいね」

 

ぱちりと開いた瞳の色は青。けれどそれはやはり、始まりの祖である彼でもなく、もちろん自分のものでもない、ただ自身の主のみが持つ、彼だけの、瞳だった。

 

「僕は彼の代わりになるよ」

「そう言うと思いました」

「その言い方、ウェラー卿みたいだよ」

 

ただ微笑う彼に、必ずお守りします、と誓った。

 

 

 

 

 

 

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