霊魂の帰路
「賭けをしよう」
村田の言葉に眞王は形の良い眉をピクリと跳ね上げる。グリエも驚いて彼に顔を向けた。
ふたりの様子を気にとめないで村田はゆっくりと口を開いた。
「僕は眞魔国で、村田健を全うする」
思わずグリエの目が驚きに見開かれた。あれほど頑なに大賢者の魂に拘り、国のために己を押し殺してきた少年の口から出た言葉とは思えなかった。
彼は、とうとう自分自身を受け入れたのか。
期待に激しく鼓動する胸を必死でグリエは押さえた。彼の決意を、彼の言葉を遮ることだけはしたくない。
しばし静寂した空間を賢者の声がやさしく破る。
「僕が村田健である以上、この魂は村田健のものだ。譲れないよ」
穏やかに綴る言葉を、驚きを持ってグリエは聞く。彼の劇的な変化をもたらしたのがかの大賢者の欠片なのだとしたら、この時代においての自分の全ては今報われたのだとすら思った。 グリエの知る彼らしく、村田は堂々と続けた。
「そして彼が僕の中で眠っている以上、君は僕を殺すことができない。違うかい?」
きっぱりと言い切った村田を王は無表情のまま見つめる。
「だけど眞王、賭けをしよう。僕が僕を全うして、再びこの魂が宙に浮かぶとき、君は彼を呼べばいい」 「なんだと?」 「僕の中の彼が覚醒することが出来るとしたらそのときしかない。僕も彼も、いい加減このくだらないサークルに蹴りをつけることを望んでいる」 「…お前という器を最後に、あいつの魂が消滅するとでも?」 「そうだよ」
苦々しい口調で詰問する王に村田は幼子をあやすように優しく答えた。
「ぼくらならそれが出来る。嘘じゃない」
とんでもないことを、村田はにっこりと彼らしい笑みを浮かべながら告げた。
「だからチャンスは一度だけだ。僕の死と共に器から開放される彼の魂を、君は呼べるだろうか?」 「…………」 「呼ぶことが出来たら、そのまま連れて行けばいい」
きっとあのひともそれを望んでいる、という言葉を村田は彼の中だけで呟いた。さんざん王に振り回された少年の、それはかわいい意地悪だ。
ふっ、と王の嘲笑のような吐息が聞こえた。表情のなかった顔に初めて笑みのようなものが浮かぶ。
「俺を脅しているつもりか?」
声色には自嘲を多分に含んでいるような響きがあった。
「いいや。むしろ譲歩してるって言ってもいいくらいだよ。それ以外に君がもう一度彼と会える可能性は、ない」 「……お前は」
相手の皮肉に動じる気配のない村田に、王は先ほどとは違った微笑を浮かべた。諦めのような安堵のような、それは彼には似つかわしくない、ひどく疲弊を感じさせる表情だった。
「本当にあの者に似ている。だが、やはりあいつではないんだな」 「あたりまえだよ」
王の言を一蹴して村田はかつりと靴音を響かせた。眞王の目の前にいた村田はくるりと踵を返して、真っ直ぐにグリエの元へと向かってくる。彼の動きに一瞬びくりとするその腕をすばやく取って、彼は眞王に向き直る。
「お別れだ」 「……猊下」
思わずグリエが名を呼んでしまったのは、握られた腕が不必要なほどきつく締まったからだ。けれど彼は笑顔のまま眞王から顔を逸らそうとはしなかった。 王は笑顔の賢者をじっと見つめた。彼が何かを言おうとしている雰囲気がグリエにも伝わってくる。けれど、瞬きひとつしたあとの言葉は短いものだった。
「唐突だな」 「別れなんて大抵突然訪れるものだよ」 「違いない」
村田の言葉に言われた相手が何を思ったのか、この場にいる3人みなが分かっていた。少しの間遠くを見るような風情をしていた王の深い双碧はすぐに村田の姿を捉える。村田もグリエも何も言わなかった。
「目をつぶれ」
いつもの彼の声が湿っぽく聞こえるのは気のせいではないのかもしれない。隣の村田が躊躇せず瞳を閉じるのを眺めて、グリエもそれに続く。もしかしたら今、はじめて、本当の眞王に触れたのかもしれないとふとグリエは思う。 勇敢なる孤高の魔王はきっと、彼との別れが惜しいのだ。最後にその瞳を直視するのが我慢ならないほどに。
しかし、まぶたの裏の暗さを感じてすぐ、聞こえてきた言葉がそれ以上の思考をグリエから奪う。理解できない音の羅列はおそらく呪文かなにかに違いなかった。グリエはいくつもの言葉を結局、胸にしまう。
終わるのだ、と思った。
***
それは不思議な感覚だった。 この時代に流されてきたときのような強引さは全くない。体のあらゆる先端部分から、徐々になでられるように液体のようなものに包まれる。 グリエはこんなにやさしい魔術をかけられたことがなかった。これが王の本質なのだろうかと思うとなぜだか胸が締め付けられた。真意を確かめることはもう出来なかった。
ゆらり
と、体が緩慢に揺れるのが分かる。それはゆっくりと振り幅を増しているようだった。 やがて揺れは脳の中にまで浸透する。ぐるぐると頭がまわった。
まわってまわって、もはや前後左右の感覚も覚束なくなるほどに脳内が混乱を極めたとき。
パン!
弾ける音とともに意識が飛んだ。別れの言葉は最後までなかった。
***
目を開けて飛び込んできた光景は、大方の予想を裏切らないものでグリエは大きく息を吐く。高い天井にきらきらと輝く水の気配が先ほどの眞王の魔術を思い起こさせて、現実なんだと言っているようだった。 ゆっくりと体を起こす。水に濡れた体は若干重いが、あれほど軋んだ全身のどこにもその名残は見当たらない。
「グリエ」
グリエが自分の体の確認をしていると、すぐ横から声がかかった。本当のことを言うと目が覚めたその時にグリエは彼の気配に気づいていた。
「猊下…」
何をどう言えばいいのか分からなくて、名を呼ぶと同時に彼に目を遣る。艶のある美しい髪が水に濡れてぽつり、ぽつりとしずくが滴っている。その様をしみじみ美しいと思う。跳ねた髪の人房を握って彼は少し笑った。
「ずぶ濡れだね、僕も君も」 「……お揃いですね」
ぼんやりと、彼のはかない微笑みに半ば見とれながらグリエが返すと、ほんとだね、と彼はまた笑った。そうしてふいと横をみて彼は言う。瞳の先に在るものは言うまでもない。
「かえってきたね」
その口調からも横顔からも、彼の心は読み取れなかった。喜んでいるのかそれとも後悔しているのか、グリエには分からない。数秒間逡巡して、グリエはそれでも口を開いた。
「おかえりなさい」
口元に笑みを浮かべたまま、彼はゆっくりと瞬きをした。
「おかえりなさい、猊下」 「………うん」
そして彼もまたしばらく言い淀んだ後、くるりとグリエの方を向いて目を細めた。
「ただいま、かな」
その笑顔の下の本音はやっぱりグリエには分からなかったけれど、それでもグリエは満足だった。 早く彼を血盟城に連れて帰ろう、そして地球だとか帰るだとか言いだす前にユーリ陛下に押し付けてやる、そう思った。 |