溜息の恋情

 

 

 

 

 

 この心は今、誰のものだろう。

 僕が今、本当に望んでいることは何だろう。

 そして、彼の人は。

 

 双黒の大賢者、と彼は呼んだ。彼が自分を呼ぶときはいつだって彼の人の魂が大前提だった。そんなことはもちろんはじめから知っている。彼が必要としているのは自分ではなく、この魂の源の人物だと。

 

 分かっていた。

 

 村田はモルギフの向こうで、ただひたすらに自分を見つめる眞王を見つめ返していた。魔王、という称号に似つかわしく、近寄りがたい、なんて言葉では到底足りない雰囲気を満遍なく撒き散らしている男を、それでも村田は恐ろしいとは思わない。懐かしいとは感じても、村田にとって彼は恐怖の対象にはなり得なかった。

 少年はほとんど無意識のうちに一歩を踏み出す。

 

「猊下!」

「賢者!」

 

前後から声が飛んできて、なぜだか少し笑ってしまった。彼らの声には答えずに村田はそのままモルギフの横を通り過ぎた。呻き声のようなものが背後から聞こえるが、村田は冷静だった。

 実のところ、この時、この場にいる誰よりも村田は冷静に自体を把握していた。

 

「賢者よ」

 

おそろしく美しい微笑を魔王は賢者に向ける。村田は伸ばされた手をとろうとして、ふと思いついたように投げかける。

 

「なぜそんなに彼にこだわるの?」

「……なんだと?」

「眞王、君にとって彼は何?」

 

自分の言葉に王の瞳が見開かれるのが分かる。どんなときにも揺らぎない姿勢を保ってきた王の双眸が僅かながらふらついたのを村田は確かに感じた。

 

 事実、それは村田がずっと思っていたことだった。

 眞王や賢者の記憶に触れるその前から、もしかしたら、村田が自分の使命を理解したそのときから、長年に渡って抱いてきた謎だったかもしれない。

 

 眞王と賢者の関係。

 それは王と臣下と呼ぶにはあまりにも。

 

「………」

 

あまりにも、なんだと言うのだろう。そう自分でも村田は思うが、どうしても眞魔国の二大始祖の間に流れる濃密な空気にあてはめるべき言葉が村田にはいつだって思い浮かばないのだ。

 

 けれどそこで村田はふと、唐突な質問に自分を凝視したままの王の姿に気づく。

 

(あ)

 

それは胸の中で何かが弾けるような感覚だった。

 

パチン

 

と、まるで体の中から音が聞こえてくるようだった。

 

(………)

 

 王がこちらを見てくるその視線。その、彼だけの青。

 ―――懐かしく、息苦しく、切なく、そして途方もないほどに愛おしい、その。

 

(ああ)

 

 心臓の更に奥にある神経の、底から湧き上がってくるあたたかく窮屈でそれでいてやわらかな何かがじわじわと村田の身体に浸透する。じわりじわりと麻痺していく。そして広がるにつれ速度を増してあっという間に全身に廻りきる。

 

(………君なのか)

 

 黒い髪と黒い瞳を併せ持つ、この世にただひとりの少年は、このとき全てを理解した。

 

 賢者は村田であり、村田は賢者だった。

 

 他人は今までもそうだったじゃないかと言うかもしれない。でも村田は違うと断言できる。

 今まで村田にとって賢者とは、魂の祖先だった。ひとりの個人にとって祖先が自分とは別物であるように、村田にとって「双黒の大賢者」は村田自身ではなかった。

 

 魔王の作為によって彼と、そして王があずかり知らぬところで彼の賢者の記憶に村田が触れた時、村田は遠き人に自分自身を侵食されるような感覚を味わった。

 村田健の中に彼が入り込み、意識もろとも「双黒の大賢者」に自分が成り変わってしまうような感覚だった。覚悟をしていてもひどく恐ろしい体験だった。

 

 今は違う。

 彼と村田はひとつだった。

 

 それは魂の共有と言えば一番近いだろうか。村田は自分自身という認識を手放すことなくかの大賢者を身の内に内包していた。

 

 これが、モルギフのいう「融合」なのだろうかと村田は思う。彼曰く、グリエが運んだという大賢者の最後の思念。それによって、こんなにも不思議な感覚が自分を包み込んでいるのだろうかと。

 

 そしてその感覚が、全身全霊を込めて眞王へと向かっているのが今はっきりと彼には分かった。

 

(君って本当に…)

 

思わずくすりと笑みが漏れた。

 

「ねえ眞王、質問を変えようか」

「……?」

 

じっと、驚き持って村田を見ていたその視線が一転して訝しげなものに変わる。少年の変化にさすがに男は気づいたのかもしれなかった。

 王の慄きをそ知らぬふりで村田は言葉を続ける。

 

「彼が君を死ぬほど想っていたことを知っていた?」

「なんだと?」

「本当に文字通り、死ぬほど、だよ」

 

村田の衝撃的な言葉に眞王は、普段の彼からは想像もつかないような表情を見せる。

 けれどもちろん、そんな彼を尻目に頭をひとふりして更に言い募る。

 

「愛情なんかよりもっと強い、もしかしたら呪いにより近いかもしれないほどに彼が君を想っていたことを知っていた?」

 

化け物でも見るような、畏怖すら伺えるかもしれない男の視線をやわらかく受け流して村田は告げる。

 

「そして、君も同じように彼に執着していることに、気づいていた?」

「……気でも触れたか?」

「まさか、僕は正気だよ。君らしくないね。目の前の真実から逃げようとするなんて」

 

ぴくぴくと王のこめかみが小刻みに動く。

 

「やめろ、あれは俺を愛してなどいない」

「それは君が決めるべきことじゃない」

 

吐き捨てるような男の言葉を村田は冷静に処理する。それにきっと愛じゃない、と心の中で呟いた。

 

「君は彼を憎んでいる。君を置いていってしまったからだ」

 

賢者の少年は確認するように注意深くけれどきっぱりと断言した。

 

「でも君はなぜ彼が君を置いて先に逝ったのか、考えたことがあるかい?」

 

じわりじわりと真綿で首を締めるように彼は魔王を追い詰める。

 

「あのひとがどれだけ追い詰められていたか、君に想像できる?彼はね、知っていたよ。自分の想いも、君の気持ちも」

 

村田はもはや主導権が完全に自分に傾いたことを理解した。

 

「孤高で傲慢な眞王陛下。だけど君は決して認めようとしなかった。己の気持ちを、だから彼の想いにも気づかなかった。君は彼と向き合うことではなく、付き従えて彼を一生側に置くことを望んだ」

「………」

「そして彼は、君の望みをもちろん受け入れた」

 

でもね、と村田は哀れみすらこもった眼差しで恐ろしい形相でこちらを睨み付けてくる相手の瞳を見つめ返す。彼の碧い瞬きの美しさはいつだってどんな感情を浮かべていたって変わらなかった。

 

「感情は、理性で縛りきれるものじゃない。抑圧された想いに自分が潰れてしまう前に、彼は国に全てを捧げたんだ」

 

ひとつ、呼吸をした。

 

「ひいては眞王、君に。身を賭して」

 

だから僕がいる。村田は胸の内だけで呟く。

 彼のひとは起爆剤だった。

 彼は自分自身の立ち位置を悲しいほどよく理解していた。制御しきれなくなった邪な――と彼が考えていた――想いが招くだろう破滅を恐れた。

 

 王の国を未来永劫守るために、彼はあのとき彼が持ち得る全てをかけてこの残酷なシステムを作り出したのだ。自分以外の誰にも影響が及ばない方法で。

 いくら要素に愛されているとはいえ、それは自然の摂理に反することだった。彼は自分の運命を知っていた。それでも尚、実行した。全ては今、目の前にいる男のためだと今の村田には分かっていた。

 

 唯一の犠牲は、彼の魂がめぐる器。けれどそれは彼にとっては自分自身も同然だったのだろう。

 

「君も本当は気づいていたんじゃないのかな。だから君は君の方法で魂を残した。違う?彼は国と君のためにあんな、地獄に堕ちるより酷い道を選んだけど、君はそうじゃない。君はもはや賢者の魂を追うことしか考えていなかった。……違うかい?」

 

先ほどから沈黙したままの王に溜息混じりに村田は聞く。彼の双眸の強い光、鋭い視線、既に隠し切れない動揺に彩られている。

 

「もう一度聞くよ。こんなに面倒な茶番をしいてまで、彼を取り戻したい本当の理由は何?」

 

まっすぐに見つめる賢者の瞳に、王の眼光が注がれる。それはまるで何かを中和するように混ざり合って、やがて男の眉間に深く刻まれていた皺をも薄くする。

 

「必要だからだ」

 

しばらくの間をおいて発された王の答えは簡潔だった。

 

「何度も言ったはずだ。お前が必要だと」

「………それは誰に言っているの」

「お前だ。双黒の大賢者」

 

村田は呆れたように彼を見る。なんだ、と思う。

 

(とっくに気づいていたんだ)

 

彼は村田の中で賢者と彼が融合したことに気づいていたのだと村田は思う。いつからだろう、と考えた。だから彼は、強引に事に及ぶことなく自分の言葉を黙って聴いていたのだろうか。

 

(そんなこと、どうでもいいか)

 

馬鹿みたいだと思った。王も賢者もそして自分も。どうやったって、彼ら自身が逃げたって、とうの昔にふたりは向き合っていたのだ。そしてそれを自分はもちろん知っていたのだ。

 

(馬鹿みたいだ)

 

もう一度胸の奥で呟いて、村田はきりりと痛んだ何かをはぐらかした。彼は自身の中で決着をつけた。これまでだ、と思った。

 

「モルギフ」

 

自分を殺めるために使われそうになり、そして結果的には助けてくれた相手の名を呼ぶ。彼はすぐに側に現れた。斜め後ろの形なきものを振り返って村田は言う。

 

「彼の手元に戻ってくれないか」

「ですが、賢者…」

「大丈夫だよ。もう大丈夫だから、以前の誓いを全うして欲しい」

 

モルギフは躊躇を見せるが、村田が頷くと彼もまた深々と頭を下げた。王の手に持たれた痩身の剣に輝きが戻るのを見届けて、村田はちらりと後ろを確認する。

 グリエはその場を動くことなく、黙ってこちらを見ている。元気とは言えないけれど無事そうだ。それに安堵して再び王に向き直った。

 

「さて」

 

村田は口を開く。言うべきことは決まっていた。 

 

 

 

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