所有の証左

 

 

 

 

 

 奇妙な沈黙が空間を支配していた。

 思いがけないものの出現に誰もが呆然と彼を見た。

 黄よりももっと薄い長い髪をふわふわと宙に揺らして眞王と村田の間に立ちはだかるさまは、初めて見た時とはほんの少し様子が違うようにも見える。

 

 立ちはだかる。

 

 おや、とグリエは思う。

 そう、そのたたずまいに、グリエは「立ちはだかって」いるという印象を受けた。柔らかい微笑みもゆらりと浮かぶ様子も、あの湖畔でみたときの、見た目は美少年の面影になんら変わりないのにも関わらず。

 

「……?」

 

違和感をぬぐえないグリエだが、すぐに彼はその思考を手放した。と言うよりも、今頭の中をぐるぐるとまわっている一切の考えがはじき出されるほど強い、本能的恐怖が彼を一気に包み込んだ。

 

「…ッ!!」

 

それはグリエには覚えのある感覚だった。

 

「モルギフ」

「っ、」

 

我ながら情けないけれど、よく悲鳴を上げなかったと自分でも思う。

 覚えがあると思ったときには答えにたどり着いていた。そしてそれを裏付けるかのように向こうから発された声に、グリエは全身の筋肉が一気に固まるような気がした。

 

(………眞王陛下)

 

ぞぞぞっと背を駆け上がる悪寒をどうすることも出来ない。

 

「何の真似だ?」

 

いっそ楽しげにすら聞こえる王の声は、グリエの脳裏に不思議な空間でみた別人のような男を思い起こさせる。あの、声色だけでひとを呪い殺せそうな、恐ろしく暗い声。

 震えそうになる身体を必死に押し留める。あのとき男は何と言っていたか、思い出そうとするけれど考えがまとまらない。体中から汗がどっと噴き出したことにも気づかずグリエは没頭する。

 

(思い出さなければ)

 

取り返しがつかなくなる前に、思いださなければいけないと思えば思うほど耳を這いずる声だけがこだまして肝心なことが遠のいていく。

 グリエは焦った。ひどく焦っていた。

 

 そのとき不意に手のひらに強い力が加えられた。

 

「!」

 

思わずびくりと身体が揺れる。そうして次の瞬間、それが何であるのかを認識した。

 

(猊下……)

 

ゆっくりとぎこちない動作で首を少し傾ける。黒が飛び込んでくる。見つめているうちに徐々に筋肉が弛緩して、気づいたときには自分をじっと見る主の顔があった。

 

 彼は、グリエが彼自身を取り戻したことに頷いて握った手をそっと手放した。あ、とグリエが思ったときにはもう、目の前には彼の後姿があった。

 

「モルギフ」

 

さっき王が呼んだものとは真逆といってもいいくらいの声音で賢者は魔剣の名を口にした。

 

「はい、賢者」

「モルギフ!」

 

しかし穏やかな応えは当然の如く王の激昂に遮られる。

 

「よもや契約を破棄したなどと言うのではないだろうな?」

「まさか、魔王よ」

 

振り向きもせずにそう言って、魔族でも人間でもない彼は双黒の賢者に向かって跪いた。

 

「我は永劫双黒の賢者に仕えしもの。契約の破棄などありえない」

 

厳かに言い放つ少年に、魔王は一瞬射殺すかのような視線を向けた。グリエは言いようのない違和感を覚える。

 その正体は彼の次の言葉で明らかとなった。

 

「お忘れか、魔族の祖よ。我は賢者の僕。たとえ賢者がその身をあなたに捧げたとしても、我が未来永劫、賢者のものであることに変わりはない。あなたが賢者を害するのならそもそも誓いなど成立しないのです」

「………」

 

グリエは呆然とする。今のモルギフの言葉を吟味して吟味して、明らかな食い違いに気づかざるを得なかった。

 

 深層の湖畔で初めて目にした魔剣の正体。

 彼を目の前にして眞王は何と言っていたか。

 

 『我らの下僕』

 

 と。賢者の隣に立ち、堂々とそう宣言してはいなかったか。

 

 ――――なんてことだ。

 

「そうか」

 

愕然と目を大きく開けるグリエの目の前で、同じく黙っていた村田からひどく冷静な声が聞こえて見開いた目を思わずグリエは戻す。

 

「そうだったね。君は、賢者に仕えるものだった」

 

彼がどんな表情でそう言ったのかグリエには推し量ることが出来ない。それくらい表情のない声色だった。

 

「そうです、賢者よ。思い出していただけましたか?」

「うん」

「よかった。お礼申し上げる」

 

そう言って人ならぬものが今度は自分に頭を下げてきて、グリエは驚愕する。

 

「?!」

「あなたは、かの御方の最後の思念を連れてきてくださった」

「……?」

「先刻、あなたが身を挺して賢者を守ったあの時、あなたが運んだ思念とこの方の中にある魂がひとつになったのです」

 

グリエが双黒の大賢者の思念を連れてきたと、つまり彼は言った。

 それは告げる彼以外の者にとっては信じられないような話だっただろう。当事者であるグリエ自身、すぐに納得できるようなものでもない。

 ただ、グリエには心辺りがあった。

 言うまでもない、眞王と賢者の肖像画を睨み付けた時に自分の身に起こったあの不思議な体験だ。

 

 なるほど、と今更ながらグリエは思う。あれは賢者の記憶の断片だったのだ。

 

「それがどうしたと言うのだ」

 

合点のいったグリエの頭にその言葉はあまりにも唐突に響いた。それまで実体のない少年に向けられていた意識が移動する。透明感溢れ、清清しい光を纏う彼から、禍々しいオーラを放つ王へと。

 輝かんばかりの金の髪の男は逆に神々しいほど邪悪な気を放って悪びれもせずに、いっそにこやかに言った。

 

「お前が完全に大賢者になったのなら、なお望ましい」

 

もはやその瞳は賢者以外には一片たりとも向けられてもいない。モルギフを通して映る村田の瞳を的確に捉えているようにグリエには見えた。

 

「お止めなさい、魔族の王よ。我ら自然の要素が真に従うのは双黒を身に宿す者のみ。あなたにそれが扱えるのは、賢者がそれを望んでいるからです」

「だから、問題ないと言っている」

 

少年モルギフの言葉を一瞥もせずに一蹴して王は不遜に、そして傲慢なほど朗らかに、あくまで賢者に微笑みかける。そうして何度言ったか知れない台詞を今一度繰り返した。

 

「俺にはお前が必要だ、双黒の大賢者」

「――――分かっているよ」

 

ぶるりと、途端、恐怖よりも恐ろしい感覚にグリエは襲われる。その声も、その口調も、確かに間違いなく彼なのに。

 そのときグリエは、今、目の前にいるその背中がいったい誰のものなのか、判別できなかった。 

 

 

 

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