秘密の契約

 

 

 

 

 

 何が起きたのか分からなかった。

 

 王の剣が向けられて、村田の脳裏に一番に浮かんだのは、友人の笑顔だった。

 第27代魔王の賢者である村田健は、彼のためでなく、眞王のためにその身を失う。そのことだけが村田の心を重くする。けれどそれもきっと有利のためになるはずだと、自分を納得させた。

 

 これですべてが終わるのだと村田は思った。この茶番に巻き込まれたグリエも無事に眞魔国に帰れるだろう。自分は双黒の大賢者の役割を果たし、彼は帰還して渋谷有利を守り続けてくれるだろう。すべては元通りになって滞りなく流れていく。

 

 ただ、そこに自分がいないというだけだ。

 

 その事実はやさしいひとたちを少しだけ苦しくさせるかもしれない。そこで再び過ぎる有利の顔を村田は故意に打ち消す。大丈夫だと自分に言い聞かせる。

 彼はきっと悲しんでくれるだろうけれど、すぐに前を向いてくれるはずだと。あたたかなひとたちに支えられてまっすぐに歩んでいってくれる。

 そのためにも村田は、グリエをいち早く眞魔国に無事に帰す必要があった。それが今の彼が有利のために出来る、ただひとつのことだった。

 

 ―――それなのに。

 

 村田は自分の耳を疑った。

 自身の後ろで眞王の攻撃をまともに食らったはずの従者は、まだ立ち上がろうとしていた。立ち上がって村田を守ろうとしていた。

 

 何を。

 

 考えているんだ、と村田は思う。

 眞王の言うとおり、彼は無事に眞魔国に帰るべきだと村田も考えている。ここで傷を負って何になると言うのか。グリエを巻き込んだのは確かに村田だ。有利がいない今、彼に村田を守る義務が生じるという理屈だって分かってはいる。

 ただし、それは相手が敵の場合である。

 

 眞王は村田の命を奪うと言った。その魂と引き換えに、双黒の大賢者を取り戻すと。けれどそれは王の言葉だ。しかも、眞魔国を創った最初の男の言なのだ。

 そしてそれが眞魔国のためになるのならば、そうするべきだと村田だって思っている。

 

 村田のその思いはグリエにとっては都合の悪いことに違いなかった。有利が聞きでもしたら間違いなく激昂するだろうことは容易に想像できた。当人である彼以外には、本当に簡単に予想の付くことだった。

 しかし、村田はそれを察することが出来なかった。彼は、というよりも彼の魂は、長いこと自分だけのものではなさ過ぎた。魔王と眞魔国という存在が、いつだって彼の魂の成り立つ大前提だった。あまりにも長い間賢者の魂を持つ者を縛ったその事実は彼らの根底に染みついてしまっていた。

 そして言うまでもなく、その窮屈な輪廻のはじめにいるのは他でもない、眞王そのひとなのである。

 

(君は帰るべきだ)

 

彼らのやりとりを、まるで他人事のように傍観しながら村田は思う。自分がこの場所で賢者としての役目を果たすように、彼は彼の担っている役割をまっとうするべきだと村田は思う。

 

(眞魔国に無事に戻り、渋谷を守って欲しい)

 

まさしく村田が背の後ろにいる相手にそう投げかけた時だった。

 

 一際、今まで以上に凄まじい、激しいオーラのようなものを発散して彼は言い放った。口調が冷静な分、奥に秘めた激情が余計にあらわになるような声音だった。

 

「猊下を守るのは俺の役目だ」

「!」

 

何に驚いたのか、村田は自分でも分からなかった。

 

 ただ彼は、グリエの言葉にひどく動揺した。何を言っているんだ、と叱咤しようとして、けれど喉の奥でつっかえる。その声はグリエの心を如実にあらわしていたからだ。幾重にもベールに包まれた村田の心臓の奥底を抉り出そうとでもするかのように、言葉は率直に少年の一点を突いた。

 

(グリエ…)

 

 何が何でも、グリエは村田を守ろうとしていた。その理由を今の村田が知る由は無論ない。けれどそれが、グリエの心の底からの叫びであり彼が、彼という存在にかけて貫こうとしている確固たる意思であることだけは否応にも伝わってきた。

 

 そしてそれを拒否し切れない自分がいることに、村田は気づいてしまった。

 

(いけない)

 

村田は内心の焦燥を誰にも悟られないように目を伏せて冷静さを保とうとする。幸運なことに彼らは自分たちの会話に集中しているようで、村田の変化に気づいた様子はない。そのことに安堵しながら怯えにも似た感情を抱く。

 

 死にたくないと、思うことは許されない。

 

 けれどそう思った時点でその考えに縛られた自分に村田は気づかざるを得ない。それは、グリエの必死の想いが独りの少年の心に、たとえわずかでも触れたことの証と言えた。

 ただそれは村田自身にとってはむしろ、歓迎すべきことではないように思われた。

 

 そんな村田の心の声などお構いなしに、グリエの声は眞魔国の始祖を突き刺し、また村田の心を震わせる。

 

「猊下には猊下の役目があるように、俺には俺が決めた役割がある」

「………」

 

眞王陛下、と決意の声でグリエが言う。瞬間、この先を聞きたくないと村田は怯えるが、容赦なく、彼の慄きすら覚えるほどの強い気持ちが鼓膜に響いた。

 

 ああ、と村田は胸の内で嘆息する。

 

(僕の魂は)

 

いけないと思いながら、想いはこんこんと溢れ出てしまった。

 

(どうして僕だけのものではないんだろう………)

 

気づけば王の目が自分に向けられていた。青い。澄み切った湖のように美しいふたつの青が一心にふたつの黒に注がれる。

 

 ―――吸い込まれてしまう。

 

 思うが、しかしそれは一瞬だった。

 その短い間、ほとんど無防備になってしまっていた村田の瞳の揺らぎを、果たして王は感じ取っただろうか。

 判断することが出来ないまま、今、我が身に振り下ろされんとする刃をそれでも村田は冷静に受け止めようとしていた。

 

 結局。

 自分は、双黒の大賢者以外の何者でもない。

 

 それが少年が彼自身に下した、結論―――

 

「!」

 

 それはまさに、村田が自分自身をあきらめた瞬間だったのかもしれない。

 けれど男はそれを許さなかった。

 

 一瞬のうちに目の前に踊った、橙色。

 彼と王との間を隔てるかのように現れた、ひろい背中。

 それは、彼を守る、盾。

 

「?!」

 

突然飛び込んできたいくつかの情報に村田は対応できない。ただ理解できたのは振り下ろされる切っ先のさきに、自分以外のものが割り込んできたという、信じられない事実。

 

「ッッッ!!」

 

誰がとか何のためだとか、考える余地すらない一瞬間。

 

「ッッああ――――っ!!」

 

それでも無意識下で何かを恐れた村田が、混乱のままに発した叫び声に呼応するかのように、場は刹那にして、竜巻かと思うほどの豪風によってすべての闇が払拭された。

 

 それほど大きな光が彼らを飲み込んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 何が起こったのか、まったく見当もつかなかった。

 

「………グリ、エ?」

 

そんな中で村田は一番最初に頭に浮かんだ文字を言葉にした。彼が今、一番呼びたかった名前を口にした。

 

 光の渦に巻き込まれたその場所は、限りなく白に近い色に支配されていて誰かを認識するなど不可能に等しかった。自分自身すらはっきりと感じ取ることができない真っ白闇。

 ただ、その光が自分に危害を加えたという印象を村田は受けなかった。痛みがあるわけでもなく、どこかを傷つけられたという感覚もなく。

 けれど、自分の前に立ちはだかった大きな背中が傷ついていないという保障もない。

 

 何より、彼は庇ったのだ。王の刃から、逃げることなど出来ないはずの圧倒的な力から、村田を守ったのだ。あの状況でグリエが無傷でいると考えられる方がおかしかった。

 恐る恐る、小刻みに震える腕を必死の思いで村田は動かす。

 

「返事をしてくれ、グリエ」

 

村田は懇願する。彼にとっては、願う、などという感情を思い起こされたこと自体、ずいぶんと久しいことだった。

 

「グリエ!」

「猊下」

 

たまらず叫ぶと、声が返ってくる。と同時に、片方の手首がきつく締まる。彼の手だとすぐに分かった。

 

「……グリエ」

 

ほう、というため息とともに村田は彼の名を吐き出した。

 

「君は、何を考えて…」

 

安堵と同時に湧き上がってくる怒りとも困惑ともつかない感情のままにおぼつかない口調でグリエを詰問しようとする村田を、しかしグリエは、ギュッと手のひらに力をいれることで押し留めた。

 

「叱責はあとで受けます、猊下」

 

それよりも、と彼は背の後ろに庇っていた村田を自分の隣に引き寄せた。その所作と彼の体の緊張具合から察するに、一難は去ったけれど、未だ完全に安全とは言い難い状態のようだ。

 村田は彼も気を引き締めて、前にいるのだろう眞王を見つめようとして、息を呑んだ。

 

 白の空間に慣れてきた目に映ったものを見て村田は驚愕する。

 目の前にいたのは、金の髪に青の双眸の良く似合う、偉大なる男ではなかった。いや、正確には目の前にいなかったわけではない。けれど村田の目を第一に引いたのは、自分と彼との間にいる存在だった。

 

「君は………」

 

呆然と呟く村田に相手は微笑む。ごくりと鳴った喉が誰のものだったのかさえ最早誰にも分からなかった。

 

 ただ、彼だけが。

 青と緑を混ぜたような不思議な色合いの瞳をうっすらと細めて、ついさっき村田健を奪うはずだった、彼だけが、全てを見通した目で先刻向けられた切っ先と同じように、賢者である少年を見つめていた。

 

 

 

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