臣下の役割

 

 

 

 

 

 目の前で、本当に文字通り今、目の前で起こっていることを、俄かには信じ難かった。

 闇色に支配された空間でキラリと光る一筋の光はグリエにとっては絶望への道筋のようだ。すらりと伸びた美しいフォルムがチャキ、と音を立ててゆっくりと暗闇の中で下から上に移動をする。その切っ先が向かう先は明らかで、グリエは未だ思うように動かない体に叱咤し続ける。

 

「やめておけ」

 

そんなグリエを冷静な声が覆う。変わらず腕を地に押し付けて、必死に立ち上がろうとする男を見下ろす偉大な存在は抑揚のない声音で言う。

 

「立ち上がったところで、お前に出来ることは何もない」

 

ギリッと奥歯をかみ締めてグリエは相手の顔を見上げる。王は静かに臣下を見つめていた。

 

「無駄な傷を負うことはない。帰る場所があるのならば、無事で帰れ」

 

淡々と言葉を紡ぐ眞王の姿が意味もなく大きく見えてグリエは一瞬目を伏せそうになるが、辛うじて持ち堪えた。

 相手の言がわからないわけではない。グリエの力では眞王相手に太刀打ちなど出来ないことは、彼自身が一番よくわかっていることだ。

 

 だが、それが何だと言うのだ。

 

 一度目は離れようとする彼を捕まえた。けれどあまりに強大な影を前に、グリエは捕まえたはずの存在を容易く手放した。思い出しても憤りでどうにかなってしまいそうになる間近の記憶だ。

 悔やむ余裕もないほどにグリエは自分に対して怒りを感じた。去り際の村田の顔を思い出すたび心臓が軋んだ。

 

 グリエは一度、王から視線をはずして彼を見遣る。

 背を向けた主の顔は見えないため、彼の瞳が何を映しているのかも、何を考えているのかも分からない。もしかしたらさっきのように薄く笑みさえ浮かべているのかもしれない。

 その憶測にグリエはひどく嫌悪を感じる。彼の自由にならない魂が、そしてそれを平然と受け入れようとする彼自身が、歯がゆくて歯がゆくて仕方がない。

 ままならないあらゆるものに対する、ある意味純粋な怒りとも言うべきものが、今のグリエを占めるすべてと言って良かった。

 

 眞魔国の祖の大いなる力は、自分を焼き尽くすだろうか。

 あるいは例えそうだとしても、引けない、とグリエは強く思う。

 

「猊下を守るのは俺の役目だ」

 

胸のうちで口にした言葉は、押さえきれずに零れ出た。主の背中が揺れた気がしたのはきっとグリエの希望がみせた錯覚に違いない。

 眞王の、幾度絵画の向こうに見たか知れないブルーの双眸を再びひたと見据える。

 思えば回廊の2大始祖の前で、とうに腹など決めていた。

 

 グリエは瞳で眞王を捉えたまま、彼に向けて発信する。

 

「猊下には猊下の役目があるように、俺には俺が決めた役割がある」

 

ぐっ、と拳に力を入れる。今後使いものにならない体になっても構わない、と男は思う。ただ今は、目の前の少年を庇うことのできる盾が欲しかった。

 

「眞王陛下」

 

みしりと体が軋むのが分かる。感覚が麻痺して、痛いのかそうでないのかも判断がつかない。じんじんと体に走るしびれを感じるけれど痛みがない分ましのような気もした。体の重さが、本能が立ち上がることを拒否しているのだと心に伝える。

 

 それでもグリエは立ち上がる。

 

「もう一度言います。猊下はお渡し出来ません」

「おもしろい」

 

間髪入れずに吐き出されたいらえによって、村田の反応を知る機会は失われる。構うものかとグリエは思う。彼はもちろん、グリエを無事に眞魔国に帰したいだろう。そして彼が誰よりも大切に思っている少年の側にいて欲しいと願っているのだろう。

 

 ――――知るものか。

 

ひゅんと勢いよく空が切られて細身の刀が振り上げられる。準備万端整った王からは余裕の声が聞こえた。

 

「止めてみるがいい、間に合うのならな」

 

片手肩膝を地面から離すことすら出来ていないグリエを笑うかのようにひゅんひゅんと金の髪の頭上で光が舞う。それ自身がもつ恐るべき殺傷力からは想像もつかないくらいに、そのさまは美しかった。

 そうしてその美しさを強さごと手にした男は、まさしくそれの主たるに相応しい相貌であると言えた。彼の手の中に在ることが至上の幸福であるかのように剣は王の両手にぴたりと吸い付いて離れない。

 

 それは優美でもあり勇ましくもあり、そして何よりも恐ろしい光景だった。

 

 しかし、それでも。

 対峙するグリエの瞳は決して揺らがない。

 その様子をあるいは王は、満足げに目を細めて眺めていたかもしれなかった。

 

 目の前の男を十二分に威嚇したあとで、光の舞はピタリと止む。

 

 王の視線がグリエから離れて、ゆらりと村田へと向けられた。途端に柄を握った手がきつく締まって、ひくりと片目がひそめられる。彼らの視線が交差したのがグリエの位置からも分かった。

 

 その一瞬。

 ぼそりと零れ出た王のささやきは、なぜかグリエの耳には届いてしまった。

 

 許せ。

 

 それが誰への謝罪か考える暇など無論ない。謝罪にしてはあまりにもきっぱりと味気ないようでもあったし、逆にこれ以上ないほど哀情がこもっているようにも感じ取れた。

 

 ただ確かなのは、王の決意に揺らぎがないということだった。王は自身が、今、目の前に存在する賢者にどのような感情を抱いているかに関わらず、間違いなく彼をその手にかけようとしていた。

 

 ただし、それでもその一瞬の間はグリエにとって奇跡にも等しい時間を与えた。

 

 ――――――ヒュッ

 

 かくして絶望は振り下ろされた。

 

 精鋭の武人であるグリエですら太刀筋を見切れぬほどの見事な剣さばきで、一筋の光が向かってくるのを認識する。それと同時に確かに背後に隠れた人の熱を感じて、場違いにもグリエは土壇場、安堵した。

 

 剣がうなり風が起こる。

 

 後ろから彼の声が聞こえた気がしたが、認識する前にすべてが何かに飲み込まれて、グリエの五感は奪われた。 

 

 

 

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