無情の宣告
眞王のことばをきっかけに黙り込んだグリエの、激しい怒気がみるみる鎮火していく。その様子を背中に感じ取って村田は苦々しげに目を閉じた。 振り返るのが恐ろしかった。
しばらくして観念したように瞼を上げた村田を見据えるのは言うまでもない青の双眸で、湖面のように澄んだそれは今の村田にとっては何よりも禍々しいもののようにすら思える。 かといって別段王を責める気が村田にあるわけでもなかった。出来ることなら真実をグリエに、そしてそのことによって彼に知られることだけは避けたかったというのが紛れもない本音ではあるけれど。
握った拳に力を入れる。掌ににじむ妙な汗に笑いたくなった。 つま先を後方にずらす。そしてゆっくりと地面にへばりつく従者を振り返る。あくまで静かに行なわれる一連の動作の間、彼がどんな思いでいるかなど、無論誰にも分からない。
村田は、床に腕をついて胸から上を反らしたグリエと向き合った。
「………」
グリエの姿を見てその痛ましい様子に眉根を少し寄せる。思わず近寄ろうと身動きするが、その寸前で厳しい声が発された。
「………何笑ってんですか」
低い声音に村田の動きが止まる。ぱちりと瞳を瞬いて、村田は彼の言葉を反芻した。グリエに言われて初めて自分が微笑んでいるという事実に思い当たった。
「今、何言われたか分かってるんですか?!」
腹ばいの状態のままで体を奮わせてグリエは村田に問い詰める。その震えが体の限界なのかそれとも怒りから来るものなのか村田には分からない。 けれど村田はグリエの激昂する様子にむしろ安堵を覚えていた。突き付けられた事実に呑み込まれない彼の強さが嬉しかった。そして羨ましかった。
村田は今度は意識して笑みをつくる。再び熱気を帯び始めたグリエを取り巻くオーラのようなものが、さらに濃さを増したように思えた。それに心中で更に笑みを深めて村田は言う。
「分かっているよ」 「猊下!」
グリエの悲鳴のような叫び声を聞きながら、分かっている、と村田は自身に確認する。いや、分かっていた――と言った方が正しいだろうか、と。
(そうだ)
村田は静かに思う。
(本当はきっと、分かっていたんだ。はじめから)
眞王に呼ばれたそのときから。
村田はつい先ほど嵐のように駆け抜けて行った王と賢者の記憶を思い返す。未だ己の中に生々しく残る彼の思いが燻って少しくるしい。 はあ、とわずかでもそれを吐き出すように息を吐いた。
「僕は双黒の大賢者の魂を受け継ぐ者で、かの人はもともと魔王の為に創られた存在だよ」 「だからなんだってんですか!!」
諭すように言葉を紡ぐ村田をグリエは一刀両断する。
「猊下は猊下だ!!」
ぴしゃりと告げられたその言葉はけれど、もはや村田の心を揺さぶることは敵わなかった。グリエの必死の形相に心臓がずしりと重くなるのを感じながらそれでも村田は首を振って彼の言を否定する。
「僕は村田健である以前に、双黒の大賢者なんだよ」
噛んで言い含めるように告げる村田を、グリエはギッと睨み付けてくる。常人ならば思わず震えてしまうほどの眼差しが村田に向けられる。切れ長の目に怒りを滲ませる彼の眼光は鋭いが、彼の怒りが村田を思いやる気持ちと比例していることを村田は分かっていた。 ありがとう、とは心の中でしか言えないけれど、村田は真実グリエに紡ぎ切れない感謝の念を抱いていた。
双黒の大賢者である以前に、村田健というひとりの人間であることを肯定してくれるグリエという存在が今の村田にとってどれほど大きな意味合いを持つかは、グリエ自身にはきっと分からないだろう。
特に賢者の意識に触れた今、村田と彼との境目は村田の中でほとんどあやふやになっていると言っていい。グリエはその交わった境界に線を引いてくれでもするかのように村田には感じられた。
村田健はここで消える。 その事実が変わらないことを村田は知っている。
己が消え失せるという結果が同じだとしても、それを選んだのが村田健であるという過程が村田にとっては重要だった。自由にならない魂の代わりに、せめて決断だけは自分自身が下したいと村田は願っていた。
たとえそれが、選択肢のないものだとしても。
それはあまりにもささやかな願いではあった。けれど村田にとっては唯一の希であると言える。あるいはそれはひとりの少年にとって、自分が存在したというたったひとつの証だった。
村田はグリエに注いでいた視線を断って、その顔を、無言でその場にたたずんでいる眞王のもとへと向けた。
「魔王と眞魔国のために僕は存在するのだから、眞王が双黒の大賢者を必要とするならその手伝いをするのが僕の使命だ」
一切の迷いや思惑を跳ね除けるかのように凛とした瞳で言い切る、かの魂の持ち主を眞王はじっ、と見返す。オレンジの髪の従者を未だ庇うように背に隠して、この世で最も強力な魔力を持つ眞王に萎縮もせずに対峙するその姿が、王にとっては懐かしかった。
「……おまえは本当にあの者に似ている」
ぽつり、とそれまで黙ってふたりのやりとりを聞いていた王がささやいた。意図せずしてこぼれたのだろうその呟きに村田もグリエも驚いたように彼を見る。 一瞬にしてふたりの注目を集めた王は、我に返ってふるふると首を振った。口元には嬉しいのか悲しいのか分からない、複雑な微笑が浮かんでいる。
初めて見る顔だ、とぼんやりと村田は思う。そしてグリエは、あの不思議な空間で垣間見た眞王と賢者の面影を思い出していた。
そんなふたりの胸中など知らない眞王はいつの間にか再びいつものシニカルな微笑みを取り戻して言った。
「なるほど、あれを取り戻すためにはお前が必要だ。確信したぞ、少年賢者よ。お前の潜在能力の高さ、通り一遍ではないと思っていた。しかしそれだけではなかった。お前のその魂の質、似すぎている」
満足そうな顔に一抹の形容し難い感情を浮かべた眞王が村田を真正面から見据える。誰に、とは言わなくてもその場にいる全員が王の言葉が指す人物を分かっていた。 青の瞳に射抜かれて、村田は金縛りの術でもかけられたかのようにその場を動くことが出来ない。
村田は、その先をこの場で言って欲しくはなかった。グリエの耳に入ってしまったら、いずれ有利の知るところとなるだろうことはあまりにも想像に容易い。
今更ながらグリエをあのとき巻き込んでしまった自分を村田は張り倒してやりたい気分に駆られる。ウルリーケに、自分が地球に帰り、そしてもう戻っては来ないと言う旨を伝えてもらったところで彼はひどく憤慨するだろう。それでもそれが村田の意思で行なった事で、とりあえず元気にしていると思えば有利だって納得してくれるのではないか、というのが村田の希望的観測であり、望みでもあった。
しかし、真実を知ってしまったらそうはいかない。
正義感の人一倍強い自分の王に村田は思いを馳せる。彼の輝かんばかりの笑顔は自分のせいで曇ってしまうだろう。己の預かり知らないところで村田が世界から姿を消してしまったと知ったら、彼は不必要に自分を責め苛む。彼にそんな思いをさせてしまったら、村田はきっと自分を許すことが出来ない。 大切な人に酷い仕打ちを行なう自己への容赦も出来ないままに消えてしまうことは、何よりも惨めなことのように村田には思えた。
お願いだからその先は言わないで欲しい―――。
村田は心の中で叫ぶ。けれどどうしてか言葉として吐き出すことが出来なかった。運命とでも呼ぶべき大いなる力は限りなくたったひとりの少年に残酷だった。
カチャ、と前触れなく金属音が聞こえた。
「双黒の大賢者を再び我が手に取り戻すために、お前の魂を使わせてもらう」
それは嘆願ですらない。村田の願いも空しく、王の無慈悲な声が暗闇を切り裂く。シュッと空間を裂く音がして現れたのは、村田にとってもグリエにとっても見覚えのある代物だった。 それの用途をもちろん村田は理解している。そして反抗する気が彼にはない。
向けられたモルギフを目の前にして、村田は至極落ち着いていた。
ただ、彼が感じているものがあるとすれば、もしかしたら人はそれを懺悔と呼んだかもしれなかった。
けれどそれが誰に向けられたものなのか、知る者はない。 |