真実の跡先

 

 

 

 

 

 何が起こったのか、グリエ自身にも分からなかった。

 

 目の前の光景を信じられなかったわけではない。けれどそれはそのときのグリエの許容範囲を軽く超えて、彼は抑え切れない何かを塞き止めることが出来なかった。

 体中の血という血が逆流でもすれば今のこの状態を説明できるだろうかと、そのときグリエは思ったかもしれない。或いは実際には何かを考える余裕など彼にはなかったかもしれない。

 

 熱かった。

 

 彼が感じることが出来たたったひとつの感覚は言うなれば業火だ。

 ただ、体が異様なほど熱くて吐き出さなければ焦がされてしまいそうだった。

 

 瞬間、グリエの頭の中は眩しすぎる光の如く真っ白になった。

 

 

「っっ猊下ぁ!!!!」

 

そして轟いた裂けんばかりの叫声は、結果、彼に突破口を与えた。

 それまで夢の中の出来事を行き来するかのように曖昧だった彼の存在は、確かな形を伴ってその場に現れる。うねる轟音と共にグリエの脳裏に誰かの笑顔が過ぎった気がしたけれど、彼の意識はそれを認識することが出来なかった。

 

「グリエ?」

 

突然の従者の出現に驚いたのは村田だ。一瞬、目の前にいる眞王のことも忘れて自らの臣下を振り返る。どうしてここに、と呟く彼をよそに、グリエは目では到底追えないような俊敏さを見せた。

 物も言わずに眞王と村田の間に割って入ったグリエは、後ろのか細い体を気にしながら数歩、後退する。王の読み取りがたい表情に相対しつつ、以前に比べて格段骨ばった村田の体を今更ながら感じていた。

 

「何を、なさっているんです」

 

言葉を向けられたのは明らかにグリエの前方に位置する人物だった。

 

「グリエ、」

「猊下は黙っててください」

 

しかし声は真後ろから聞こえてきて、グリエはぴしゃりとその呼びかけを跳ね除ける。普段の彼にしては珍しい、苛苛とした様子に村田はおとなしく口を噤んだ。彼の中の後ろめたい何かがそうさせたのかもしれなかったが、今のグリエに村田の心境までをも推し量る余裕はない。

 

「眞王陛下、あなたにお聞きしているんです」

 

しん、と静まった空間の中で改めてグリエは眼前の偉人を問い質す。すると彼は、グリエが登場してからしばらくほとんど動かさなかった表情をくつりと崩した。

 

「お前は本当に面白い男だな、グリエ」

 

やれやれ、と王はおおげさに肩を上下した。青と金の甲冑が彼の肩に映えて暗い部屋の中でもよく見えた。赤のマントとなると、尚更だ。それは今自分の後ろにいる黒い装束の彼と並べば、非の付けようがない一対の形になることは疑いようがない。

 しかしグリエはそれでも彼を譲る気がない。

 

 あやふやな空間の中で彼が感じた大いなる恐怖は、背に庇う少年を前にしてグリエの心から嘘のように消え去っていた。背中に感じるのは彼の体温と、そしてなぜだか自分が在るべき場所にいる、仲間の存在だった。

 それはグリエの心を強くする。

 

「質問に答えてもらえますかね、眞王陛下」

「そのまえにこちらが聞きたいものだな。どうやってこの空間に立ち入った?」

「………」

 

即座に答えられなかったのは相手を欺こうと思ったからではない。グリエ自身、把握出来ているわけではないからだ。なぜと問われても、答えようがなかった。ただ、誰の力だと問われたらおそらくグリエの頭に浮かぶのはひとりしかいない。

 そして言わずとも眞王はそれを感じているように思えた。

 

「まあいい。俺だとて思い当たる節がないわけではない。正直、予想外ではあったけどな」

 

言ってちらりとグリエの後ろに視線を投げる。しかしすぐに王は目の前の臣下に向き直った。

 

「それで?何が知りたい」

「ですから、あなたが猊下になさろうとしていることを聞きたいんですよ」

 

眞王相手に傍若無人とも取れる態度を見せるグリエを、相手は咎める様子も見せずに面白そうに見ていた。

 

「それを聞いてどうする?」

「猊下に害の及ぶことならば、眞王陛下と言えど容赦はしません」

「ははっ!!」

 

グリエの返しに眞王は声を上げて笑う。

 

「容赦はしない、か。だがグリエ、我が野望を挫こうとする者は、俺だとて容赦はしない」

 

そして手を上げた。声を上げる間もなかった。

 

ダンッ

 

「グリエ!」

 

大きな音と共にグリエはその場に叩き付けられる。

 

「っく、」

 

喉の奥から痛みを吐き出すグリエに村田は、彼を自身の後ろに隠して眞王を睨みつけた。

 

「彼に危害を加えたら許さないよ」

 

先ほどの頼りない様子とは打って代わって、強い眼差しを向けてくる村田に王はぴくりと眉を吊り上げた。

 

「……相変わらずだな、双黒の大賢者よ。お前の憐れみはいつだって誰かを助け、そして誰かを傷つける」

「………」

 

嘲笑するように鼻を鳴らす相手を、村田は何も言わずに見つめている。うつ伏せた状態で全身が軋むような痛みに耐えながらグリエはその気配を見逃しはしない。彼らの間に流れる沈黙に胸がざわついた。

 グリエの思惑など知らぬ村田は、眞王の言葉を無視して沈黙を破る。

 

「確認しておくよ。彼の無事と、帰還を保証してくれるね」

「もちろんだ」

 

即座に頷く王の眼差しに嘘はないと判断したのか、村田は安堵するように息を吐いた。

 

「………?」

 

しかしそれで納得のいかないのはグリエだ。絡みつくように残る鈍い痛みに顔を歪めながらも、少しずつ体を動かして彼は立ち上がろうと試みる。

 

「ほう、もう動けるのか」

「グリエ、無理しなくていい」

 

感心する王と気遣う賢者の声が、言いつくせぬほどにグリエにとっては腹立たしい。体すら自由にならぬ己の弱さと、守るべきひとに逆に庇われている現状と、なにやら分からぬ大きな不安とがないまぜになってグリエは混沌の最中に陥っていた。

 しかしそれでも彼は今なさねばならないことを間違えない。腹を床に付けたまま、右腕を支えにして何とか顔を上げたグリエは王と賢者を睨み付ける。といっても、後ろを向いている村田の顔を目に映すことは出来なかったが。

 

「なん、の話を…している、んだ?」

「お前を無事にもとの時代に返すという確約だ。案ずるな、俺だってこれでもお前のことを気に入ってるんだ」

「グリエ、彼はそういう嘘はつかないから、安心していいよ」

「そうじゃない!!!」

 

思わず怒号をあげたせいでグリエの体に幾つもの新たな痛みが走るが、もはやそんなことに構ってはいられなかった。

 

「……猊下。何を仰っているんですか?」

「僕は君と一緒には帰れないと言ってるんだ」

 

グリエの問いに、あまりにも的確に村田は答えを返した。きっぱりと言い切るその声は何者の意見も受け付けないという決意に溢れていた。

 

「………なぜ」

 

言いたいことはもっと腐るほどあるはずなのに、グリエの口から出たのは呆然とした呟きだった。

 

「忘れたの?もともと僕は眞魔国に2度と帰らないつもりで、ウルリーケに頼んで地球へ戻ろうとしたんだ」

 

無論、グリエは忘れていなかった。あのとき感じた驚きも焦りも覚えている。けれど今胸に抱く絶望と比べようがあるだろうか。

 眞魔国に戻らないと言った彼を、グリエは一度はつかまえた。無謀ともいえる己の所業のおかげで村田とグリエは奇跡的に繋がることが出来た。それなのに彼はまたこの手から離れていくと言うのか。

 

 堪えられない、とグリエはギシリと歯を軋ませる。

 

 一度目に抱いた感情よりももっとずっと苦しい、臓腑を抉り出されるかのような衝撃を内部に感じる。自分ひとりが帰るということは、彼はこの時代に残るということだ。伝説の大賢者を失った王の隣に、彼の代わりに在るのが自分の望みだとでも言う気だろうか?

 

(冗談じゃない!)

 

そんなことは到底我慢出来ることではないと、奥歯をきつく噛み締める。酷い怒りに眩暈がしそうだ。

 

「……大賢者の代わりにでもなるおつもりですか」

 

発された声を恐ろしく冷たいと自分でも思ったけれど、グリエは構わず振り向きもしない少年を糾弾する。

 

「我らを捨てて、眞王陛下の元へ下るとでも?!猊下、俺だけじゃない、あなたは坊ちゃんをも見捨てるんだ!」

 

叫び声は掠れて相手を責めるほどの雄雄しさを持ち得なかった。しかしグリエは自分の言葉が村田をひどく傷つけることを分かっていた。彼の最も大切な者の名前を引き合いに出すなんて卑怯にも程がある。それでも何としても、彼が眞王の大賢者になることだけは我慢が出来ないとグリエは思う。

 しかし村田は相変わらず眞王に顔を向けたままで、グリエの方をちらとも見ようとしない。

 絶望的な顔つきで村田を上目に睨みつけるグリエを、じっと見ていたのは眞王そのひとだった。

 

「……何か誤解が生じているようだが」

 

今まで黙って事の成り行きを見守っていた王が口を開いた。それまで微動だにしなかった村田の体が僅かだが震える。

 

「少年賢者はここに残るわけではない」

「眞王!!!」

 

のびやかな王の声に、村田の激昂が重なる。しかし彼はあくまで威厳に満ち溢れた声で静かに言った。

 

「ここで消えるんだ、グリエ」

 

王が当然のように言い放った言葉はこれまで以上の、そしてこれ以上にはないという衝撃をグリエに与えた。

 

 

 

NEXT