佳人の面影

 

 

 

 

 

 伸ばした手は躊躇いなく掬われた。

 それが自分を救うものなどではないことくらい村田は理解していたが、どうでもいいことだった。

 かち合う瞳に意味を見出すことを少年賢者は放棄した。その代わりに相手のどんな要求も受け入れる覚悟を持った。

 

 向けられる瞳に対する、自分の全ての感情を排除すると、ただ美しい青だけがやたらと目に付いた。ゆるゆると近づいてくる彼の顔の造形の見事さに村田は感心する。

 どれだけ近づいても青い瞳に村田の姿は映らないが、自分の黒い瞳には、彼は自分の姿を映しているのかもしれないと思う。その姿もきっと美しいのだろう。

 

 考えている間にも眞王と村田の距離はごくごく近づいていく。

 村田は彼の行為の目的に気づいていた。眼前に迫る美貌とあらわになる微かな息遣い。気づかぬ方がおかしい。けれど敢えて抵抗する気も起きなかった。

 自分と彼の距離がゼロになった先になにがあるのか興味があった。

 いや、なくとも彼は拒絶などしなかっただろうが、村田には王が自分にしようとしている行為が、例えば恋人同士がする類のものとは明らかに異なった意図があることにも気づいていた。

 

 そんな甘いものであるはずがないと、確信していた。

 

 知りたいか、と彼は聞いた。

 村田は全ての選択権を彼に委ねた。

 

 ならばこの行為の先にあるのは、理由であり、答えだ。

 

 村田は心をからっぽにする。

 何が流れ込んできても全てを受け止めきれるように、そして揺らぐことがないように。

 

 もう彼の顔を判別することも敵わない。それくらい近い距離に王の顔は迫っていた。さながら蜘蛛の巣に捕われた蝶のように、その瞬間まで村田は王の瞳から目を逸らさなかった。

 そらすことは許されなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 結果的に言えば、王は村田に答えを示した。

 

 澱みゆく渦の中で一方的に送り込まれる情報に村田は太刀打ちできない。がくがくと膝が震えてとてもひとりでは立っていられなかった。かくんと落ちる村田の体を眞王はいとも簡単に支える。

 対をなす影は重なったままだがそんなことを意識する余裕すら村田にはない。口と口が触れ合う、その特別な行為は本来の意味とは全く違った役割を果たしていた。

 

 瞼を下ろすことも敵わないまま口付けを享受する小さな賢者の体を支えながら、王は彼の空洞のような瞳を覗き見る。彼の目が視覚機能を果たせていないことは明らかだった。

 今にも崩れ落ちそうな少年の肢体を王はしっかりと包み込んで離さなかった。

 

 ぎゅっと握り締めるその腕に彼がどんな思いを込めているのか、無論村田は知る由などあるはずもなく、そして今の村田にそんなことに思いを馳せる余裕は露ほどもなかった。

 

 村田はこれまでにないほど心を掻き乱されていた。

 無心を保とうとした彼の努力は残念なことに全く功を奏さなかった。受け止めようと開いたドアは轟音と共に吹き飛ばされたも同然で、無防備とも言える彼の心を荒れ狂う風が容赦なく吹き荒らした。

 

 王の声と彼の声。

 彼らの笑顔、怒声、笑い声。

 あらゆる夜と儚い朝。

 傷ついた人々、すれ違う心、かみ合わない会話。

 様々な陰謀。

 閉ざされた退路、積み重なる嘘。

 押さえ切れない、感情…。

 

「…………」

 

そして。

 

「――――っ」

 

 村田は戸惑った。そして信じられないと思った。

 

 彼の脳を掻き乱す過去は、決して眞王だけのものではなかった。王は村田に答えを示そうとした。彼が村田を貶めた、その理由を。

 しかし村田が見たものは彼の意図したものと必ずしも同じではなかった。

 

 溢れ出て止まらない泉のように村田の脳内をずぶ濡れにしたのは魔王の記憶だけではなかった。

 

 村田には信じられない。

 なぜ今更、という思いも沸いた。

 手を伸ばしたときには届かなかったものが、こちらの意図などお構いなく現れたことが堪らなかった。

 それは村田が知りたくて仕方ないことで、けれど知らないほうがよほど幸せだったろうことだった。

 

 それは、賢者の記憶だった。

 

 

 

***

 

 

 

 賢者の記憶は衝撃と痛みを伴って村田を襲った。

 

(やっぱり君は…)

 

脳裏の奥の奥でたったひとりで佇むかの人が村田の心に迫る。背負ったものの大きさと持て余した感情と吐き出せない想いに微動だに出来ない彼の心をこんなにも近くに感じてしまうのは、やはり村田が彼の魂を受け継ぐ者だからなのだろうか。

 涙すら見せない白い頬が余計に痛々しく、艶やかな黒い髪をたなびかせて彼が何を考えているのか、憶測することは苦しい。

 

 そんなにも頼りない背中をしているくせに、王のひと声で一国を担う完璧な『軍師』となる彼をいたたまれないと感じる者が存在しないことは明らかだった。もちろん知られるわけにはいかない想いではあったのだろうけれど、その状況が賢明な彼を更に追い詰めたのかもしれないと思うと胸が痛んだ。

 

 くるしい、と思った。

 

 じわじわと胸に迫ってくる痛みを振り払う術を村田は持たなかった。伝説の賢者の痛みは彼の痛みなのに、それを自分のことのように感じてしまう現実に村田は愕然とした。

 彼の痛みを自分の痛みと認めてしまったら、村田健はどうなるのだろうという疑問が浮かんで消えた。

 

 それは言うなれば侵食に近かったのかもしれない。或いは融合とでもいった方が適切か。村田は今、今まで感じたどの瞬間よりも強く、伝説の賢者が自分の中に存在するという事実を意識していた。拒んで否定して必死に保っていた自我という名の少年の砦は崩壊寸前だった。

 

(―――いや)

 

村田はそこで否定する。そもそもはじめから、自分自身という存在などあやふやだった。村田健は賢者の魂の容れものであって、そこに意思など求められてはいなかった。必要なのはかたちだけで、心なんていうものは望まれて存在するものではなかった。仮の器に必要不可欠であったがために幸か不幸か、手に入れることの出来た産物だったのだ。

 

 その証拠に、賢者の気色が色濃く残るこの時代に来てから、自分は村田健であってそうではなかったではないか。

 

 村田は自問する。

 

 王が自分を呼んだのは何のためだ?

 民が自分を歓迎するのは何ゆえだ?

 記憶の中でしか認識したことのない人物に、途方もないほど揺さぶられたこの心をどう説明する?

 この世界で自分が揺れに揺れたその理由は?

 

 答えはひとつだ。

 自問にすべて当てはまる、納得のいく答えはたったひとつだった。

 

「――――私が、双黒の大賢者だから」

 

 声は言霊となって彼を縛った。

 そうして、見計らったように口付けが途切れた。

 

 離れたくちびるはけれどたかだか1センチほどで、ふたりの顔は至極密着していた。少年賢者は目の前の青い瞳に湖の底に沈んでいるかのような心地を味わう。深く深く沈んで、2度と上がってはこれない底なしの湖に。

 そしてそれはどうしてかとても幸せなことのように思えた。

 

「俺の大賢者」

 

低い声音が唇を掠める。耳に届く声よりも吐息の方がよほど雄弁だった。だらりと相手のなすがままに任せたまんまで、少年は瞳を一度、瞬かせた。

 

「はじめからそのつもりだったんだね」

 

距離もそのままに言う村田に王は少しも揺るぎない。

 

「ああ。お前が必要だ、少年賢者」

「そう」

「俺が憎いか?」

「いいや」

 

村田の顔には、悲しみも喜びも浮かんではいなかった。

 

「君の好きにすればいい」

 

自分の言葉が何を意味するかを解っていて、それでも村田は一瞬の迷いもみせなかった。

 今度は相手の顔がよく見えた。

 美貌の王は彼の答えにただ、美しい青を細めた。

 

 偉大なる眞王陛下の願いはこの時点でほぼ叶ったも同然だった。

 

「っっ猊下ぁ!!!!」

 

天を突き抜けるかのような怒号が、その場を切り裂くまでは。 

 

 

 

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