追憶の幻想
一面に広がる青い空に太陽の光が眩しい。 さざ波のように揺れる草原がどこまでもひろがっていて、緑の海にいるかのような錯覚を覚える。 それはこの世のものではないかのように、ひどく幻想的だった。
グリエは首を傾げる。
―――ここはどこだ?
ともすれば緑の海原でおぼれてしまいそうになる自身の思考を必死に繋ぎとめながらグリエはもがく。ざわざわ、ざわざわと彼の必死の抵抗を笑いでもするかのように草々は揺れてむせるような新緑の匂いが男の五感を狂わせる。
溺れてしまいそうだ、と彼は思う。 やらなければいけないことがあるのに、往かなければ行けない場所があるのに、何としても会いたい人がいるのに。 思いは強くなるばかりなのに彼を弄ぶ渦もまた勢いを増す。
――――猊下…!
足を取られて埋もれてしまうかと思ったそのとき、強い力がグリエを引き戻した。
***
気が付いたときには目の前の景色は全く違っていた。見覚えのあるバルコニーに、ふたつの人影が見える。肩で跳ねる金色の髪と腰まである美しい黒い髪。近づいて確認するまでもなく、それは眞魔国の創始者たちに違いなかった。
「この国は美しいな」
金髪の男が言う。既に聞きなれてしまった彼の声は、けれどグリエの知っているものとはどこかが違っているような気がした。
「皆の国ですから」
落ち着いた声には聞き覚えはないが、無論その声の主が誰かなど、問うも愚かなことだと分かっていた。黒髪をたなびかせて静かにたたずむ青年に思わずどくりとグリエの心臓が鳴った。 決して似てはいない。似てはいないけれど、そのひとは間違いなく彼の存在の源なる人物であることは疑いようもなかった。
複雑な思いで眺めるグリエの視線になど無論気づかずにふたりは穏やかに談笑していた。彼らの表情には互いへの信頼と尊敬が強くあらわれている。そして傍らからみると、その様子はまるで幸せの絶頂にいる恋人同士であるかのようにすら思えた。 眞王が何かを言い、賢者がそれに答える。そしてふたりは笑い合う。ただそれだけのことなのに、見ているこちらの胸が締め付けられるほどそれは幸せそうな光景だった。 幸福すぎていつか壊れることを暗示してでもいるような、そうしてお互いにそれを分かってでもいるかのような、切ないほど幸せな表情を彼らは浮かべていた。
そのあまりに儚い情景にグリエが耐え切れず目を逸らすと、計ったかのようなタイミングで視界が反転した。
次に目の前に現れたのは戦場だった。 先ほどと180度違う雰囲気にグリエは度肝を抜かれる。咄嗟に条件反射で腰の剣に手をかけるが、頭ではそんな必要がないとことを分かっていた。正確に言えば、グリエは戦場にいたわけではない。荒れ果て、焼き尽くされた街でなお戦う者たちを見下ろしていたと言った方が正しい。グリエは状況を薄々把握しつつあった。
生々しく所々で煙や炎に包まれている街の中で剣の音が飛び交っていた。グリエ自身が経験したことのある惨状に勝るとも劣らない地獄がそこにはあった。顔をしかめてそれを見下ろしながら、グリエは努めて冷静に頭を働かせようとしていた。
自分がさっきいたのは、確かに血盟城の廊下だった。眞王と賢者の絵画の前で自分が考えたことをグリエはもちろん鮮明に覚えていた。そして罰当たりだと言われても、その心は今も変わっていない。 決意を胸に宿して絵画に目を遣った時に感じた違和感をグリエは思い出した。
そう、賢者の双眸が。 揺れた気がしたのだった。
そう思った途端突如あの草原に自分はいたのだと、グリエは状況を整理する。そうして血盟城のバルコニーを経て、今、ここにいる。
グリエが冷静に現状を把握している間にも、彼の足の下では幾人もの兵士が血を流して倒れていっていた。 激しい戦いだ、とグリエが再び戦場に意識を戻した途端、再びぐるりと目の前が揺らいだ。砂埃と兵士の叫び声と剣が激しくぶつかり合う音がグリエの耳から遠ざかっていった。
次の場所は、判別することが出来なかった。なぜなら真っ暗だったからだ。そこに闇が広がっているのかそれとも自分が目を開けられていないのかすら、グリエには分からなかった。
「………っ!!」 「……!!」
ただ何も見えない中で誰かが諍う声だけが聞こえた気がした。しかし何かの意思がそれを悟られるのを嫌うかのように、グリエの意識はすぐにそこから遠ざけられた。
突然視界がひらけた。 グリエとしてもさっきのように真っ暗闇では何が起こっているのか判別しかねるので、視覚を駆使できることはありがたい。しかしひらけたとはいえ決して明るい場所ではないようだ。
今度はなんだ、と身構えながらグリエは腕を組む。この奇怪な状況に既に順応しているあたりが彼らしい。 そこは薄暗かった。場所を特定できるような要素は何もなかったけれど、グリエは何となくそこに無機質な空間的なものを感じ取る。おそらくどこかの建物の中だろうと彼は思う。 今までと同様にグリエの体は宙にぼんやりと浮いているので、歩いてそこを物色することは出来なかった。
少しでも現状を把握しようと、グリエは首を四方に動かす。しかし、奥に行けば行くほど暗くなっているようで広さを確認することも出来なかった。 ふと、グリエはその空間に違和感を感じた。そしてそれは身に覚えのある感覚だった。 思い出そうとしている間に答えは彼の前に現れた。
あ、と胸の中で思う。 グリエの前に現れたのは、ここ最近で随分と見慣れた人物だった。
―――眞王陛下。
彼が何もない所へすっと現れる瞬間も、グリエにとってはそう珍しくないものになっていたが今回は明らかに王の様子が違っていて、思わずギョッとする。
……陛下?
その異様なさまを、どう表現すればいいだろうか。 殺気――とでも呼べそうなひどく荒々しく、それでいて非常に冷たい張り詰めた気のようなものを彼は一身にまとっていた。
その男は、グリエが会った眞王とも、バルコニーで賢者と笑い合っていた男とも違っていた。 違っている、と言わざるを得ないほど目の前の彼は別人だった。
俯いているため彼がどんな顔をしているかは知れない。けれどグリエは彼の表情を想像できる気がした。いや、想像を超えるほどの顔をしているのだろうということを、予想できた。
「なぜだ……」
王がぽつりと呟く。グリエはごくりと唾を飲み込む。呪いでもかけられそうな声音だった。
「許さない」
カツ、と靴音が不気味に響く。至極ゆっくりと、奥の方へと歩を進める彼をグリエは金縛りにでもあったかのように微動だに出来ずに見送る。まるで一歩一歩踏みしめるたびに彼の憎しみが降り積もりでもするかのようだった。
「先に逝くなど」
どくん、とグリエの胸が不必要なほどに高鳴った。言葉の意味をグリエは瞬時に理解した。
「絶対に」
去ろうとする王の後姿をグリエは追おうとするが、向かおうとするのとは真逆の方向に引っ張る力がそれを許さなかった。どくんどくんと胸の鼓動は荒く彼を急かす。今までに感じた以上の嫌な予感に全身を貫かれてグリエは体からどっと汗を噴き出した。 王が向かおうとする先に何があるのか、予想するのは恐ろしいけれど分かる気がした。
―――許さない。
王の声が体の中に染み込むように入ってくる。瞬間、ひどい痛みに襲われてグリエは意識を手放した。
***
目を開けるのは恐ろしい気がした。 けれど開かなければもっと恐ろしいことになる気もした。
手を動かすわけでもない、足で駆ける必要もない、ただ両方の瞼を上にあげるだけでいいのにそれがどうしてか出来ない自分をグリエは到底信じられない。 開こうとする意思とは逆に、本能が彼に訴えているかのようだった。グリエは歯を食いしばる。生き延びるために、自分の本能には大抵従ってきた彼だが、今回ばかりはそういうわけにはいかない。
とてつもなく大きな影が瞼を通して見えるようだった。それはもはや予感ですらなかった。 自身が守るべき存在が大きな闇に飲み込まれんとするのをグリエは確信よりももっと強い感覚で感じ取っていた。
(くそ)
なお一層奥歯を噛み締める。 口を開けずに大きな呼吸をひとつして、息をとめた。
そして代わりに目を開けた。
一番最初にグリエの目に飛び込んで来たのは、今にも唇を奪わんとする男と、それを拒もうともしないでただ、立っているだけの彼だった。 |