水面と細波

 

 

 

 

 

 グリエが隣で頭を下げる気配を感じたけれど、村田は振り向かなかった。この頼りになる美丈夫は普段はおちゃらけた面を前面に押し出そうとするが人一倍立場をよくわきまえていることを村田は知っている。もしかしたら、眞魔国主要陣の誰よりも彼は、地位というものに重きを置いているのかもしれない。

 そう感じるときがあった。

 村田は、前を向いたまま隣の相手を伺ってみた。顔を上げた彼は隣で同じように海を見ているのだろう。

 

 彼と自分の身に起こったあの一件以来、グリエを身近に感じていることを村田自身否定しようがなかった。それ以前にまったく関わりがなかったわけではないけれど、便宜的なものがほとんどで個人として会話をしたことなど幾度あっただろう。無論それは彼に限ったことではなかったけれど。

 

 しばし村田は追憶する。

 自分がこの国を離れようとしていたこと。眞魔国を離れ地球に戻り、そして2度と村田健の体でこの地の土を踏むまいと決意して眞王廟を訪れたあの日のことを。

 

 その途中でグリエに会った。

 

 グリエがあのとき現れたのは彼がたまたま、村田の護衛の任についていたからだ。彼は当然ながら村田の思惑を知らなかった。それでも道中でかけられた言葉にどれだけ胸を揺さぶられたことか。

 

 興味がある、とグリエは言った。

 

 眞王廟であのとき彼は、身を挺して自分を引きとめた。

 

 そして共に流された過去ではいつも村田の一番近くにいた。

 村田が、かつてないほどに村田健と双黒の大賢者との狭間でがんじがらめになっていた間、ずっとグリエは、その傍らに在ったのだった。

 

 あの出来事を通して彼と自分が気の置けない関係になったことを村田は自覚している。頭がよくて経験豊富な彼と話すのは楽しいし、抱え込むには大きすぎるのあの事件も共有するものがいると思えば心は軽くなる。

 

 けれどそんなことで村田とグリエの生来の関係は変わらない。

 村田は大賢者で、グリエは一平卒だ。

 

 グリエはそれをよく心得ていて決して一定以上の距離を踏み込んできたりはしない。

 

(君は本当に優秀な従者だよ)

 

思いながら、手すりに預けていた体を正す。それに習って隣のグリエも身を引いた。

 

 こんなときにも、グリエは村田の行動を待つ。

 村田は一度、きゅっと手すりを握り締めて彼を見た。

 

「そろそろ行こうか」

「そうですね」

 

彼の意識は歓迎すべきものだと村田は思う。気が置けないとしても、馴れ合う気はない。

 

 身分の差。

 

 近代国家に生を受けた村田健にとっては馬鹿みたいなしがらみだ。くだらない概念。強者によって創られた傲慢の証。

 

 それでも。

 彼の中の旧き魂はそれを笑い飛ばすことを許さない。

 

 暗く、黒い夜を肌身に感じる。昼とは違った趣を見せる空も夜も、美しいとひとは言うだろう。汚染のない水面は月の光を受けて時折瞬き、空にはあちらではそうそう見られないまばゆいばかりの満天の星たちが地上を見下ろしている。

 

 友になれたらと思わないわけではない。あるいはせめて、対等な関係にと。

 けれど、それが絵空事だと自分も彼も分かっている。

 

 村田は、寄せては返す自然の美しさを醒めた目で一瞥して容赦なく踵を返した。

 

「そろそろ宴会終わってると思う?」

「宴会って…。身も蓋もない言い方しないでくださいよ」

「食べて飲んで歌って踊るものは場所が豪華客船だろうが場末の居酒屋だろうが宴会に変わりないよ」

「仰るとおりでございます」

 

大袈裟に腰を折るグリエの前に一歩を踏み出して村田はそのまま歩き出す。一拍して後ろに付き従う気配を感じた。

 

「渋谷はまだモテモテ中かなぁ」

「どうでしょうね。部屋に戻られてるかもしれませんよ」

「やけになってジュースで酔っ払ってたらどうしようか」

「坊ちゃんならありえますねえ」

 

オレンジジュース片手に呂律のまわらなくなっている有利を想像して村田がプッと噴き出すとグリエも同じようなものを思い描いていたのか、背後から忍び笑いが漏れるのが聞こえてくる。後ろを見遣ると、予想以上にツボだったのか思いのほか彼の顔は崩れていた。その顔がまた妙に村田のツボに入って、ケタケタと品のない笑い声が夜の甲板に広がった。

 

「嫌だわ坊ちゃん、貴人とも思えないような笑い方」

 

デカイ図体を無駄にくねらせてグリ江ちゃんモードに入っている彼だってお世辞にも品があるとは言い難い。

 

「何言ってるんだいグリ江ちゃん、金持ちの放蕩息子に品なんてあるわけないじゃないか」

 

悪戯っ子の顔で村田がグリエを上目遣いに見返すと、一瞬、何とも言えない微妙な視線を返された。

 

「?なに?」

「いえね、あんまり良いお顔で笑うもんですから」

「はあ?」

「貴方は本当に坊ちゃんがお好きなんですね」

 

言われた言葉をすぐには理解できなくて、村田はポカンと間の抜けた顔をグリエに向けてしまう。暗がりで相手の表情を判別することが出来なかった村田は、だからこの時、グリエがどんな顔を自分に向けていたかを知ることはなかった。ただ一歩、距離が詰められた。

 

「口開いてますよ、猊下」

「!」

 

耳元で囁くように指摘されて反射的に口を閉じる。言われた内容よりも告げられた名前に反応して村田は眉根を訝しげに少し寄せる。けれど、海原を行く船の甲板を行き来する風や波音がその名残すらも消し去ってしまった。

 

「行きましょう。きっと坊ちゃんはお部屋であなたを待っていますよ」

 

すぐさま一定の距離を隔たって聞こえた声に村田はそうだねと頷いた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 「村田!どこ行ってたんだよ!」

 

船室の扉を開けるとベッドの上で寝転んでいたらしい有利はがばりと体を起こした。ドアを閉めて施錠しながら村田は顔だけで後ろを振り向いて、こちらに向かってこようとする相手を笑顔で制する。

 

「ちょっと甲板にね」

「おっまえホント、毎度毎度抜け出すの上手すぎ。俺もつれてけー!」

「いやぁだって渋谷お嬢さん方にモテモテだったから、お邪魔かなーって」

「嘘をつけ!」

 

間髪入れないツッコミに「ほんとなのに〜」と心外そうに肩を竦めてみせるがどうやら信じてはもらえなかったようだ。有利はベッドからぴょんと飛び降りてそのまま真っ直ぐ、ツカツカと村田の方へと歩み寄ってきた。さすがの村田の笑顔の静止も彼には通じない。

 

「あんまり1人で行動すんなって言ったの村田の方だろ。お前も勝手に1人になるなよ、危ないだろ」

「グリエが来てくれたから心配ないよ」

「今日はそうかもしんねーけど。そういうことじゃなくて!」

 

言葉巧みに逃げようとする目の前の相手を、有利は決して逃さない。しかもそれが意識してやっていることではないから手に負えない、と村田は胸のうちだけで嘆息する。いや、嘆息と言うよりは、感嘆により近いかもしれない。

 

 しばらく言うべき言葉を探していた有利だが、残念ながらまとまらなかったらしい。村田とは対称的なストレートの、今は黒ではない色の髪を苛立たしげにくしゃくしゃと片手で掻きまわした。

 

「だぁっ、もう!」

 

まとまらない感情を吐き出すように声を出した彼のもう片方の手が村田の方へと伸びてきて、

 

「とにかく今度は俺も連れてけ!」

 

容易く手首を取られてしまう。寝るぞ!と宣言してそのまま反転した有利の、ちょうど自分の目の前に来た後ろ頭を村田は、つかの間、呆けたように眺めた。すぐに、くん、と有利が前に進むと同時に体が動いて我に返ったけれど。

 

 掴まれた手首にかかる遠慮のない、けれど温かな相手の力。

 それは否応なしに先ほどのグリエの言葉を思い起こさせた。

 

 『貴方は本当に坊ちゃんがお好きなんですね』

 

 けれど村田は首を振る。

 

 違うよ、グリエ。

 

 彼は相手の居ない場所でひそやかに応えを返す。

 

 手首に触れる王の指の拘束は決してきつくはない。捕らえる有利に村田を引っ張ること以外の他意はない。それはもちろん村田だって分かっている。けれどもそれが彼の手である以上、彼にとってそれは、どうしたって逃げられない拘束だった。

 されたいのか、されたくないのか、それすら分からない柔らかな。

 

「村田?」

 

黙ってしまった村田を不審に思って有利が後ろを振り返る。手首への力が更に弱まった。それを良いことに一度彼のてのひらから逃れて、逆に相手の手を手で掴んだ。

 

「寝るのはいいんだけどさ、渋谷。先に着替えさせてよ」

 

部屋着に着替えていた有利と違って、村田は未だフリルびらびらシャツのままだ。そのフリルの端を指で引っ張りながらさも嫌そうに言う相手に手を繋いだまま有利は声を上げて笑った。

 

 その笑顔が好きだと思う。

 彼には笑っていて欲しいと心から願っている。

 

 しかしそれは、甲板でグリエが村田に告げた言葉のような想いとは同じようで同じじゃない。だから、違う、と。今この場にはいない従者に胸のうちだけで打ち明ける。

 

 有利に対する感情が、否、賢者が魔王に対する感情が、そんな生易しいものではないことを村田だけは知っていた。

 

 

 

NEXT