賢者と従者

 

 

 

 

 

 グリエが乗り込んだのは船が眞魔国を経ってから10日は過ぎただろうかという頃だった。空の真ん中にある太陽の光が波間と船に降り注ぐ中、何度か停泊した時と同じように徐々に徐々に速度を落として陸地に近づき、やがて豪華客船は完全に停止する。波の高さもほどほどな、よく晴れた日和はまさしく絶好の停泊日と言えた。

 停泊の少し前からにわかに慌しくなった船内は降りようとする人々の熱気で溢れ返っていたが、部屋に引き返していた有利たちにはその喧騒も届かない。

 

 ただ船が泊まったのを体に感じることしか出来ないことに不満な有利は豪華客室に似合わない不景気な顔でベッドの上でストレッチをしていた。ソファに座って書物に目を通していた村田は眼鏡のフレームを人差し指の甲でくいと上げてそんな有利を見て、ふっと笑う。

 

「そんなに体の動きにあってない顔しなくても、渋谷」

 

しかめっ面でのストレッチは、どうやら見る者の笑いを誘うらしい。

 

「いいんだよ、どんな顔でやってもストレッチはストレッチなんだからさ!」

「まあ、外に出られなくて歯痒いのは分かるけど」

 

見かねた村田は立ちあがりながら本を閉じて馬鹿でかいソファの端の備え付けのテーブルに置いて有利のいるベッドへと向かう。豪華客室とは言っても船室なので、ベッドルームとリビングルームが分かれているなんてことはさすがになく、村田はすぐに有利のもとへと辿りついた。

 魔王専用部屋の超キングサイズベッドとは比べ物にならないけれど、それでも大人が3、4人はゆうに寝られるだろう大きさのベッドの真ん中で両足の裏を合わせて両手で足の指を挟み、体を前に曲げていた有利はゆっくりと上体を起こした。

 

「停泊の前後は人の入れ替わりが多いから仕方ないね」

「分かってはいるけどさ〜。運動不足になりそうだ!」

「1、2日体動かさなかったくらいで何言ってるんだい。渋谷は本当に体を動かすのが好きだよね」

「村田はインドア派だよな」

 

そうだね、と有利の言葉に頷いて、ベッドの前で村田は立ち止まる。うーんと少し考えてからポンと手を合わせた。

 

「プロレスでもやる?」

「はあ?!」

 

目の前の友人の爆弾発言に有利は思わず、座ったまま飛びのいた。

 

「あ、それは僕がプロレスのプの字も知らないと思ってる反応だね?やだなー渋谷、これでも通信でプロレス講座も取ろうかと思ってるんだよ」

「や、やめとけよ」

 

知りたくなかったカミングアウトについ本音が出てしまう有利である。

 

「えー」

「ホント村田ってときどき何考えてっかわかんねーな」

「…ホラ、ミステリアスは僕の専売特許だからさ?」

「なんだそれ」

 

ぶはっと笑い声を吐きだす有利を村田はつかの間見つめて、そうしてベッドの端に腰を下ろす。ギシリと沈んだその一角が戻るか戻らないかというとき、コンコンと部屋の扉を叩く音がした。

 

 一瞬のうちに笑みを払拭した村田と有利は互いに顔を見合わせる。僅かに首を動かして村田が頷くのを見届けた有利はベッドの上から飛び降りた。

 コンコン、とこちら側から扉を叩くと、独特なリズムでノックが返ってくる。迷うことなく有利はガチャリと鍵を開けた。

 

 有利の目に飛び込んできたのは、どこか懐かしさすら感じる鮮やかな夕日色の髪だった。

 

「スケさんっ。待ってたぜ!」

「どーもー、坊ちゃん方」

 

お馴染みの軽装に身を包んだグリエは大らかな笑みをその精悍な顔に浮かべて部屋の中に入ってきた。その後に続いたコンラートがしっかりと扉を閉めて鍵をかける。グリエを迎えに行っていた彼も、淡いクリーム色の綿素材の上着に黒いパンツという動きやすい格好をしていた。

 

「お久しぶりです」

 

グリエが有利と村田の方を向いてそれぞれに礼をする。

 

「ほんと久しぶりだなー、ヨザック。うーん、相変わらず惚れ惚れする筋肉だな!」

「あら、坊ちゃんったらお上手!」

「だからその体で女言葉は無理があるって」

 

有利とグリエが挨拶代わりの会話を交わす中、村田はベッドからソファへと移動をする。有利が座った隣に腰をかけ、コンラートはその隣側に立つ。荷物を抱えたヨザックは有利の側で立ち止まった。

 

「もうはじめますか?」

 

コンラートが村田と有利とを伺うが、村田は有利と一度目を合わせて、首を振った。

 

「いや、着いたばかりで疲れているだろうし、停泊中は人の出入りが激しいからやめておこう。出港してしばらくしてからでいいんじゃないかな。どうせここからあっちまでは5日ほどかかるんだし」

「わかりました」

「休ませてもらえてありがたいわ〜」

「ヨザック、グリ江ちゃんはもういいからさ!」

 

笑いながら隣のヨザックの腹の辺りにツッコミを入れる有利。手の甲に固い腹筋を感じてやはり素晴らしい筋肉だと彼が実感していると、グリエは抱えていた荷物の中のひとつをソファの前の大きなテーブルの上に載せた。

 

「それはそうと坊ちゃん方、夜の社交はきちんとこなしてらっしゃいますか?」

「え?ああ、パーティーのこと?まー一応、出てるよ。村田は2日にいっぺんくらいしか来ないけどな!」

 

恨めしげに隣をジト見する有利に村田はにこりと笑顔で返す。

 

「ほら僕は頭脳担当だからさ」

「優等生は嫌味も似合うからやんなちゃうよっ!」

「まあまあ、そんな坊ちゃん方に朗報ですよ〜」

 

ザザンッ!と意味不明な効果音付きでヨザックはテーブルに置いた袋の中から取り出した物を高々と両手で顔の横まで持ち上げた。

 

「………」

「………」

「へえ、社交界用の衣装なんて買ってきたのか、ヨザ」

 

まともに反応を返したのはコンラートだけである。坊ちゃん2人はグリエによって掲げられた真っ白なフリルびらびらのシャツを呆然と見つめている。

 

「そ、それを俺たちに着れと…?」

 

有利が頬をひくつかせながらおそるおそる伺うと、グリエは惚れ惚れするような男らしい笑みを見せて言い切った。

 

「もちろんです。お2人色違いの上下も用意してますから、今日は社交会のスター間違いナシですよ☆」

 

血盟城の女中が見たら百発百中、心臓をときめきで打ち抜かれるだろうウィンク付きで高々と衣装を掲げるグリエに向けられたのはしかし。

 

「……ウェラー卿、君部下の育て方間違ったんじゃない」

 

賢者の氷点下よりも低い声だった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 夜の甲板は昼の顔とまるで違う。

 太陽の光を受けて輝いていた海は一転して今は宵闇に沈んでいる。あんなにきらきらとまばゆい光を反射していた波間。けれど今は忍び寄る影さながらに一面に漂い揺れる濃紺がどこか妖しく見える。太陽から月へ、雲から星へと様相を変えた上空に合わせて地上までもが様変わりでもしているかのようだ。

 

 階段を上って外へと出てきたグリエは真っ暗闇となってしまった甲板の上で目を凝らす。日が出ている間は賑わっていたのだろうけれど、今は静まり返っている船の上ではザザァン、と打ち寄せては去っていく波の音がやけに大きく聞こえた。風が運んでくる潮の匂いがきつい。

 暗闇と同化するように佇んでいる目的の人物をグリエはすぐに発見した。そっと近づく。気配を消しているわけではないから恐らく彼は気づいているはずだ。

 

 案の定、グリエがあと数歩で相手の背中をとらえる、という位置まで近づいたとき目の前の人物が流れるような動作で振り向いた。彼の所作はおしなべて自然でそれでいてどこか隙がない。

 

「お久しぶりです」

 

村田の、暗すぎて色など判別出来ない瞳を見つめてグリエは堅苦しくも挨拶をした。

 

「さっき聞いたよ」

 

ふっと口元を緩めて彼が言うのでグリエも苦笑した。確かに先程部屋に入った時に同じことを言ったけれど、グリエとしては気の持ちようがいささか違う。無論、相手にそれを分かれと言うのは無理な話だ。

 

「渋谷は?」

「お嬢さんがたにひっぱりだこみたいですよ」

「モテモテだねぇ」

「あなただってそうでしょうに。だから逃げてきたんだ」

「それで君は追ってきてくれたのかい」

 

返された言葉にほんの一瞬、グリエは詰まる。

 

「俺は坊ちゃん方のお守役ですからね」

 

しかし違和感を感じるような間の空け方をしたりはしない。グリエはすぐにやれやれといったように肩を竦めて見せた。

 

「ごくろうさま。やっぱり結構、君も彼も心配性だよね」

「ヤツと一緒にしないでくださいよ」

 

さも嫌そうに顔をしかめると声を立てて彼は笑った。

 

 フリルをあしらった村田の白いシャツが月の光に照らされてそこだけ浮き上がって見える。グリエが用意した社交界用衣装を、有利も村田もしぶしぶながら着用していた。

 

 真っ赤な上下のタキシードを見事に着こなして有利は今まさしく、お嬢さん方の注目の的であるはずだ。

 村田はというと、紺色の、有利と同じ型の上着を暑いからと言って脱いでしまっていた。しかし純白のシャツと金の髪、そしてブルーの瞳の調和は予想以上に素晴らしく、彼もまたあちらこちらからひっぱりだこといった感じだったのだ。

 

 事実、男のグリエから見ても目の前の少年はひどく美しかった。

 暗い闇の最中に立つ彼。

 月明かりを背に受ける姿は船内の人口の光の中にいるときよりもなお際立っているようにグリエには思える。

 

「…でも、あなたが今回の件を承諾するとは思いませんでしたよ」

 

自分の中にふと沸いてきそうになったものを飲み下すように意地悪を言う。村田はほんの少し目を大きくして、けれどすぐに今度は逆に目を伏せる。

 

「そうだね」

 

言いながら彼の体が横にずれる。隣に来いという合図らしい。グリエが少し距離を置いて並ぶと、村田は体を回転した。それに続けて同じように海側へ体全体を向ける。波間がきらきら光るさまが目に入った。黒の合間に時折光る白っぽい輝きは、それはそれで美しいと感じた。

 

「本音を言うと、君がそう言ってくれるのを待ってたのかも知れない」

「?」

 

不意というていで漏れた村田の言葉に漂う波に向けていた顔をグリエは隣へと戻す。振り向いた仕草に気づいたのか、彼もまたグリエを見返した。彼の象徴でもある色合いは今、何一つ彼自身に含まれてはいないけれど今この場を支配する圧倒的な夜の暗さが目の前の貴人を包み込んでいる。

 髪も瞳も、巧妙に隠されたその色を溶かし出してしまうかのようだ。

 

 グリエを無表情に見返していた目が優しく瞬かれた。

 

「僕もさ、一応自覚はしてるんだよ。渋谷に甘いってさ」

 

困ったように彼は笑って、視線を海へと戻した。

 

「今回の旅だって本来ならば彼を行かせるべきではないと思ってる。情報が定かではないという点だけでも彼を引き止める理由に十分なり得るよ」

「でもあなたは反対しなかった」

「そう。渋谷は多分、動けるうちに動いておきたいんだと思う」

「と言いますと?」

「あっちの世界でね、僕達は春になったら面倒な立場になるからさ。受験生ってやつなんだけど」

 

しばらく言葉を探している風に村田は黙っていたが、やがて諦めたように首を振った。

 

「日本の社会制度を説明するのは面倒だな。まあつまり、次の春から1年間、おいそれとこちらの世界ばかりに構ってられなくなるってこと」

「お忙しくなるんですか?」

「そうだね」

「だから時間のある今のうちに魔鏡を取り戻しておきたいと」

「そういうこと。こっちにかかずりあっていられる間にいろんなことをしておきたいんだと思うよ。それが今回、たまたま魔鏡が見つかったなんてことになって渋谷ならそりゃあ、動かずにいられないだろうね」

「そしてそれをあなたは許してしまう」

 

グリエの容赦のない一言に村田の表情が歪む。眉根の寄るその様さえ実によく似合う端整な横顔を見ながらグリエは、相手の言わんとしていることを理解し始めていた。

 

「その通りさ。僕は彼に甘い。そしてもちろん君も知っている通り、名付け親だって例外じゃない」

 

幼馴染の傍目には柔和な顔を思い出しながらグリエは頷く。次に彼が言うだろう言葉を半ば予測する。その上で、待った。

 

 彼の顔がこちらを向いた。暗がりでなお艶やかなふたつのまなこがゆっくりと一度またたいた。

 

「だから君に期待してる」

「………」

 

真摯な眼差しで見つめられてグリエはごくりと鳴りそうに鳴る喉を不謹慎だと押し留める。向かってくる視線を受け止めるには幾度かのまばたきを必要とした。彼の真っ直ぐな目に相対するのは久方ぶりだった。

 

(……だからあんたは厄介だ)

 

 内心大きくため息をつきたい気分でグリエは思う。

 とうに自覚した、けれど故意に押さえていた己の胸のうちをこんなにも容易く彼は掬い取る。

 

 期待なんて言葉でこれほど自分を奮い立たせる人物は他にいない。

 詰めていた息を時間をかけて吐きだしてグリエは口の端を上げた。

 

「不敬罪に処せられそうになったら助けてくださいよ?」

「それはどうかなー」

「ヒドイ!グリ江の身がどうなってもいいのね!」

「グリ江ちゃんは強いから何とかなるって」

「坊ちゃんのいけずぅ!グリ江泣いちゃう!」

「はいはいごめんね。…でも」

 

調子を合わせるように軽口を返していた村田は一瞬の沈黙のあとにふっと口元を緩ませた。

 

「本当に、君なら、って思ってる」

「!」

 

思いがけずかけられた言葉にグリエは息を呑んだ。けれどグリエほどには夜目の利かない村田は彼の表情に気づくことはなかった。顔を海へと向け直した彼は、穏やかな表情で波とも空ともつかない方向を眺めている。その、すぐ傍にいる相手に伸ばしそうになった手をグリエは何とか押し留めた。

 

「…………光栄ですよ」

 

今、甲板の上にいる村田とグリエとの間にはほんの数歩の距離しかないけれど。

 けれど、その間に横たわる多くのものを理解しているグリエは、賢者の言葉を正確に読み取って彼に向かって深々と体を折った。

 

 

 

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