情景と憧憬
船は順調に海を越えていく。陽の降り注ぐ甲板は眩しさと暑さと、風の生み出す涼しさが混ざり合って絶妙な心地よさを演出していた。ザザァンと耳に響く波の音もまた、視界いっぱいに広がる美しい青と相まって少年の心を落ち着かせた。
「村田!」
耳に馴染みの良い声に呼ばれて村田は限りないパノラマに向けていた体を反転した。船内と甲板とを繋ぐ階段の境目からひょこりと顔を出した有利が頭の横で片手を振りながらのぼってくる。
「気持ちいーな、ここ」 「少し塩っぽいけどね」 「そこがいいんだろ!」
階段を上り切ってううん、と両手を空に向けていっぱいに伸ばす有利を眩しげに村田は見つめた。太陽の光が直接目を焼いて手をかざさなければ前を向いていられないが、眩しいのはそれだけではなかった。 軽快なフットワークで村田のもとにまで歩いてきた有利がその隣に立って海を見つめるのに引かれるように、村田も再び体を戻す。波間にキラキラと光る水しぶきがやはり眩しかった。
「次の停泊所でヨザックが合流するってさ」 「へえ、相変わらずいろんなところに行ってるんだね彼は」 「だな。で、今まで3人部屋だったのを2人部屋にするって」 「まあ今までも僕と渋谷の護衛って感じだったけどね、ウェラー卿は」
何度か使ったことのある豪華客船に今回も乗り込んだ魔王陛下ご一行はいつものように身分を偽って乗船しているが、無論双黒崇拝者のギュンターは彼らに特別室を手配していた。 コンラートには彼自身の要望もあって一般客室を用意したのだが、眞魔国ツートップの「コンラッドもこの部屋でいいよな」「君って僕達の護衛だよね?」という言葉で同じ部屋で寝起きすることになったのだった。
ベッド使って良いよ、というあまりに畏れ多い提案を立場上丁重に断ってコンラートはソファを使っているが、長身の彼が大の字で寝てもお釣りがくるようなソファを果たして椅子の枠に入れてしまう富豪の感覚は庶民派の彼らには理解出来そうにない。
「どこの部屋?面倒だから彼も一緒にあの部屋で寝ればいいのに」 「だよなー」
いつまでたっても身分に疎い2人の会話をグウェンダルあたりが聞いたら間違いなく盛大に顔をしかめて説教するに違いない。村田の場合、理解はしているが必要なとき以外の応用を怠るのでなお性質が悪かった。
「なんかちょうど同じ階の部屋が空くんだってさ。そこにヨザックとコンラートで入るって」 「へえー。そう言えばあの2人って幼馴染らしいし積もる話もあるのかもね」 「想像できねー」
大人の男2人がとうとうと語り合う状況を想像して2人から笑い声が上がる。酒でも酌み交わすのかもしれないと思うと、どっちが酒に強いかとかヨザックはザルっぽいだとか、酔っ払ったコンラートが見て見たいなんていう話に花が咲いた。
太陽の光が降り注ぐ甲板の上にちらほらといる人々は各々の時間を楽しんでいる。赤毛に茶色の瞳の少年と金髪に青の瞳の少年をかの国の双璧だと思うものは無論いない。城外用変装が板についている2人には違和感もまるでなく、臣下達が頭を痛める彼らの悪癖も意外なところで役に立っているのだった。
「なあ」 「うん?」
話したあとには忘れてしまうような、とりとめのない会話を続けていた2人だったが有利が少し声を潜めて村田の立っている方へと体を寄せてくる。その秘密めいた仕草に村田も有利の側へと顔を寄せて声のトーンを下げた。
「あると思うか?」 「………」
言わんとしていることを察して村田は即答を避けた。正直なところ、彼は魔鏡の件に関しては五分五分だろうと考えていた。
ソフィア国は眞魔国同盟加盟国の中でもどちらかというと異端と言える国だ。王族は一様に法術のレベルが高く、特に王の直系は強大な力を持つと聞く。さして大きくもなくこれといった特産品もない国であるのに独立を保てているのは、その力に拠るところが大きいのだろう。 強大な魔力を誇る眞魔国とこれほど対称的な国も少ないが、眞魔国側としては法術以外の確固たる核のないソフィア国が、眞魔国同盟に加盟することで強力な後ろ盾を得る算段なのだろうと読んでいた。 また、眞魔国としても法術の強い国を味方にすることはメリットが大きい。両者の利害は一致する形で速やかに事は運んだのである。
「フォンヴォルテール卿が言ったように法術の強いソフィア国だからこそ信憑性が高いっていうのも頷けるし、それを逆手に取った罠かもしれないとも思う」 「罠って?」 「うーんそうだね。例えば魔鏡があるっていう情報を聞いた君が国内にやってくるだろうことを踏んで、魔力が弱っている魔王を一網打尽にしようとかね」
深刻に聞こえないように軽い調子で言う村田だが、グウェンダルの話を聞いて彼が一番に考えた可能性だ。
「まあでも一国の王が直々に出向くことなんてそうそうないし。面識のないソフィア国が君の性格を知っているっていうのも考え難いことだとは思うからただの杞憂だけどね」
すぐさま否定要素を並べる村田にけれど有利は一度目を見開いて、そうして真っ直ぐに村田を見つめてくる。村田は少し身構えた。もともと罠云々のことは有利には言わないつもりでいた。けれど彼のはじめの問いが疑問系だったから、有利自身も別の可能性を考慮しているのだと思った。ならばこの際、この旅が完全な安穏ではないかもしれない旨を彼に伝えておいてもいいかもしれないと考えたのだ。
有利の瞳が一途にこちらを向いて、村田の真意を探ろうとしている。村田はそれをあくまでも冷静に受け止めるよう努めた。
「俺、間違ったか?」 「……」
真摯な発言に村田は口を閉じる。自身の間違いを臣下に問う王の眼差しは怖いくらいに曇りがない。もし村田が頷いて今からでも国に帰ろうと言えば、彼は間違いなく首を縦に振るだろう。王は自分の過ちを認め、賢者の助言に従うのだろう。
なぜだか村田の胸にそのとき、かの王の面影が過ぎる。 自分の言うことになど耳を貸しもしないで彼自身のやりたいように事を運ぶ、その勝手ながらも頼もしい姿。彼も、今の目の前の王と同じように強い瞳をしていた。
(君たち王は……)
わずかに目を細めて村田は首を横に振った。
「間違ってないよ。状況は五分だって言っただろ。本当ならもちろん取り戻したいし、情報はグリエが集めてくれてるはずだ。とりあえず、彼と落ち合ってみないとね」 「そっか」
ほっとしたように有利は笑う。そんな顔は童顔も手伝って随分とあどけないように思える。けれど、ひとたび王の顔を取り戻せばこの友人はまるで別人のような目をする。
「坊ちゃん方、そろそろ停泊しますから下に降りてきてください」
向かい合っていたところに声がかかった。2人同時に振り向くと、先程有利が上ってきたのと同じような格好でコンラートが上半身だけを出して手招きをしていた。
「あ、カクさんのお呼びだ。ほら村田、行こうぜ!」 「君がそんなに意気揚々なのはグリエが来たらスケさんと呼ぶ気満々だから?」 「当たり!さすが進学校の高校生は違うねっ!」
嬉しそうに駆け出す有利の後ろを村田はゆっくりと歩きながら追う。コンラートの元に着いた彼は一度村田を振り返って早く早くと言うように片手をあげておいでおいでの仕草をする。
「まるで子供だね」
さっき垣間見せた表情とのギャップに思わず笑みがこぼれた。満面の笑顔の有利と、穏やかな表情で到着を待つコンラートを待たせる気にはなれなくて村田は駆け出した。 有利の、出会った頃に比べて少し背が伸びて、程よく筋肉のついた体があますところなく太陽光に晒されてこちらを向いている。近くまで来たら我慢出来ない彼の腕が村田の腕に伸びてきてやすやすと腕を取られてしまった。
「よし、スケさんと合流だ!」
上機嫌の有利に、コンラートと村田は視線だけを合わせて笑い合う。ぐいと腕を引かれた村田の体は有利に連れられてトントンと足早に階段を降りて船室内へと舞い戻った。 握られた腕は自分の力では外せそうにないなと村田は思う。彼は、あらゆる意味で確実に成長している。太陽の光の届かない船の中に来てもなお、村田は目を窄ませて前を行く有利を見つめた。
君たち王は、いつも僕等には眩しすぎる。 |