平穏と不穏
薄暗い部屋の中には2人の人物が座っている。 ランプがひとつ灯るのみのその部屋の全貌を窺い知ることは出来ない。陰鬱な埃の混じった空気が、そこが外気から遠く離れた場所であることを辛うじて伝えるのみだ。
大きくはない丸テーブルを挟んで、2人の人物は彼ら以外誰もいない室内でそれでも尚ささやき程度の音量で会話を続けていた。 男の1人が相手の要求にううむ、と喉をうならせた。
「…難しい問題ですな。彼らは我が国の至宝。いくら本人たちが年端がいかないとはいえ、その周りを取り巻く臣下たちはなかなかの切れ者が揃っています、残念なことに」 「そこを何とかとお願いしているのです。あなたのお力で」 「ふうむ」 「こちらに送ってさえくだされば、あとは我らが何とか致しましょう。あなたに害が及ぶことはありません」 「しかし臣下たちは、双つの宝が国外に出ることをよしとはしないでしょう」
相手の丁寧な申し出に、恰幅の良い男は顎で手をさすって熟考する素振りを見せる。実のところ、彼ら2人を相手国に送ることはそう難しい問題ではないと思っていたが、十分に思い悩む様子を相手に見せなければならない。
「どうか、我が王の願いを。もちろんお礼は弾ませていただきます」
それが聞きたかった、と男は大きな手で口元を隠しながら緩みそうになる端を引き締める。
「……分かりました。善処致しましょう」 「ありがとうございます」 「くれぐれも彼に危害が及ぶことだけは避けていただきたいが、よろしいですかな?」 「もちろんです。あの御方の価値を、私どもだって理解しています。無事、事が成就したあとは速やかに、お返し致します」
男は無言で頷き、はたして交渉は成立した。
***
眞魔国の冬は寒く、長い。 南に位置するカーベルニコフ地方でさえ夏は早足で過ぎていく。そうして実りの秋も終わりを告げて、肌を切るような冷たい風が吹き始めれば長い冬が始まる。 国民はそれまでに蓄えた作物を上手に使って冬を乗り切る。だから激しい戦争があれば土地が荒れ、住む場所が焼かれ、この季節に死に絶えることになる。
そんな経験を、この国の人々は長い間味わってきた。 けれど今、眞魔国は平和だ。傷が乾いていないとしても、民は新たな王のもと、確かに繁栄への道を歩き出していた。
「さっみー!!」
その、眞魔国を安寧せしめた張本人である第二七代魔王渋谷有利が大きな声をあげて魔王執務室に入ってきた。後ろには、数人の臣下が後に続いている。
「眞魔国の冬はなんでこんなにさみーんだ!!」 「そうだね、日本で言うなら岩手くらい?」 「いやいやそこは北海道っていうとこだろ!!」
すかさず突っ込みを入れる有利と、まあまあ、とどこ吹く風の少年。言わずと知れた眞魔国のツートップ。双黒の魔王ユーリ陛下と、双黒の大賢者村田健だ。
「この程度の寒さで何を言ってるんだお前は!まったく、いつまでたっても軟弱な奴だ!」 「東京は氷点下になることも稀ですからね」 「ああっ陛下っ猊下っ!!このギュンターのマントにどうぞお入りください〜〜」 「ギュンター、むやみに取り乱すな」
2人の後から入ってきたのはお馴染みの顔ぶれである。高い声で非難の声を上げるヴォルフラムの言葉をさりげなくコンラートがフォローする。ギュンターが両手を広げればグウェンダルがすかさず釘を刺す。 最後に入室したグウェンダルが扉を閉めると、外気が遮断されて広い部屋の中が途端に暖気に満ちた。おそらく、双黒崇拝者ギュンターが彼らのために新しく覚えた魔術でも使ったのだろう。
「そういや、ヨザックは?」 「先日、人間の土地に諜報活動に行かせた」 「そっか、残念。すれ違っちゃったかな」
ふと、部屋に静けさが満ちた。誰かしらの声が聞こえていた室内に一瞬の静寂が訪れる。
「それで?」
まるでそれが合図であったかのように自然なタイミングで独特の声がその静寂をすくい取った。 現双黒の大賢者であるところの村田健は、彼の王をちらりと目の端に捉えてそれから事実上国政のほとんどを担っている二人の人物を交互に見遣った。
「呼び出された先にこの面子、ってことは何かあったのかい?」
答えたのは長く美しい金髪が女人のようにたおやかな見目によく映える眞魔国きっての美男子、フォンクライスト郷ギュンターだ。
「陛下と猊下にご足労願ったのは、我らだけでは決めかねる案件が発生したからです」 「 「………」 「ごめんごめん、そんな怖い顔しないでよ。君の手腕を買ってるってことさ。さ、続けて」
茶々を入れる村田にグウェンダルが一瞥をくれると参りましたとばかりに両手を挙げて少年賢者は先を促した。
「お前達自身に関わる問題だったから、こちらで処理する訳にもいかなかったんだ」
返す相手の返答は先程とはうってかわってぞんざいな口調だが誰も驚きはしない。グウェンダルが現トップである少年二人に慇懃な言葉遣いを用いるのは、いつもはじめの言葉だけなのだった。 それはおそらく彼の中の本音と建て前の妥協点とでもいったところなのだろう。しかしその相手である魔王と大賢者は気にもしていない。むしろはじめの丁寧な扱いすら必要ないと思っているくらいだった。
「というと?」 「眞魔国同盟に参加しているソフィア国を覚えているか」 「うん、覚えてるよ」 「ソフィアってあの、法術のやたら強い国?」
頷いた村田に有利も記憶の底から引きずり出してきた情報を添える。二人の発言に軽く頷いてグウェンダルは続ける。
「そうだ。そのソフィア国から、魔鏡が発見されたという情報が入った」 「魔鏡?!」 「真偽の程は?」 「如何とも言い難い。なにせ、目撃情報すらとうの昔に途絶えた代物だからな」 「なるほどね」
ただでさえ寄っている眉間のしわを更に深くさせて難しい顔をするグウェンダルに、村田が神妙に頷く。有利も頼れる補佐と相棒のやりとりを真剣な面持ちで聞いていた。
「ソフィア国…ね。この国ほど魔鏡とそりの合わない場所もなさそうに思えるけど」 「だからこそ、信憑性は高いとも言える」
人差し指で綺麗にとがった顎を撫ぜる村田の言葉をグウェンダルが引き継ぐと、彼は顎に手を当てたまま小さく頷く。
「ただ、場所としては最悪だね」 「まあな。だが、眞魔国同盟の参加国ならば他国よりはましだろう」 「どうかな…」
ぽつりと呟くがすぐに顎から手を放して頭をひと振りすると、彼は今までの深刻な様子が嘘のようにへらりと気の抜けた顔をしてみせた。
「ま、如何せん情報が少なすぎるよね。こういうときはトップの指示を仰ぐのが定石なんじゃないの」 「トップって………え、俺ェー?!」 「君以外の誰がいるっていうんだい?」
突如矛先を向けられて慌てふためく有利に村田は何を今更と呆れ声だ。その言葉をきっかけに部屋の中の視線が一気に自分に集中して有利は焦る。焦るけれど、逃げるように誰かに振るようなことを彼はしない。
しばらくの間沈黙が落ちた。 真剣な面持ちで俯く王をその場にいる誰もが静かに見守っていた。
やがて顔を上げた有利は臣下に問う。
「グウェンダル、眞魔国同盟参加国の動向と、諸外国の動きは?」 「悪くない。同盟参加国に不穏な動きは皆無と言っていいだろう。中枢だけでなく民も以前よりは我が国に対する過度な恐怖は薄らいでいるようだ。諸外国も目立った動きは今のところ見られない」 「ギュンター、眞魔国内の状況は?」 「ここ最近天候にも恵まれていますので、これといって大きな問題はありません。復興も順調に進んでいます。地方で小さな諍いはあるようですが、十貴族がうまく押さえてくれています」
彼らの答えに有利は頷き、ひとつ深呼吸をする。
「今、眞魔国は悪くない状態にあると思う」
部屋の中の顔を見渡しながら発言すれば、みな有利の方を向いてそれぞれに頷き返してくる。それを確認してほっとした顔を見せてから改めて口を開いた。
「眞魔国同盟参加国も増えたし、創主の脅威も今のところ心配しなくていい。他国が攻めて来る気配もない。でも、それが長く続くとは限らない」
だから、と続ける王を臣下は様々な思いを持って見つめていた。彼らの顔に浮かぶ表情はそれぞれだけれどおそらく全員が次に来るだろう言葉を同じように予測していた。
「だからこそ、今魔鏡を探しに行くべきだ。その情報が信憑性が高いってんならなおさら」 「確認しておくけど渋谷、もちろん探しに行く要員に君も入るつもりなんだね?」 「国の宝なんだから、俺が見つけてやんなきゃいけないだろ?」
皆の言葉を代表して尋ねる村田に当たり前だと有利は返す。やっぱり、という顔をする村田と魔族3兄弟。そして自分がお留守番要員であることを自覚しているのだろう王佐は涙目だ。 微妙な空気が漂う室内に有利は慌てたように付け足した。
「だってさ!せっかく見つかったんなら魔鏡だって回収してやんなきゃかわいそうだろ?!それにソフィア国は同盟加盟国だっていうし!」 「だからといって安全だとは限らないよ」
釘を刺す傍らの友人にうっ、と言葉を詰まらせるが、すぐに気を取り直したように逆に相手の肩をポン、と有利は叩きながら臣下たちを振り向く。
「それに村田がいれば魔鏡が本物かどうかすぐ分かるし!」 「……ッ!!猊下まで国を離れてしまわれるのですかー!!!」 「ギュンター!」
爆弾発言に取り乱すギュンターをグウェンダルは厳しい声で押しとどめる。コンラートとヴォルフラムは王佐のいつもの奇行には構わずに、王の隣で黙ったままの黒目黒髪の少年に目を向けた。 本来ならば彼が一番に返事をするところなのにそれがない。つまりはそれは反対の意思がないということだ。
「まあ、確かに魔鏡を見たことはあるけどね」
やれやれとことさらに深く息を吐いて村田は――建国の始祖の片割れの魂を受け継ぐ唯一無二の存在は、渋面を隠そうともせずに肩に置かれた有利の手を払うでもなくちらりと見てから、息を呑むかのような勢いで自身に向けられるこの場にいる全員の顔を見渡した。
「でも本当に渋谷が行くと言うなら、そして行く先がソフィア国ならばどちらにしろ僕も同行せざるをえないだろうね」 「そうだな」
答えたのはグウェンダルだ。
「ソフィア国は法術の国だ。しかも相当に強い。魔力はまず使えないとみていい。そうなると、もしもの時は大賢者の能力に頼るしかないからな」 「な、何言ってんだよ!同盟加盟国なんだから力は必要ないだろ!」 「だからもしもの時だと言っている」
大賢者の能力を使うと言うことはすなわち、魔王である有利の潜在能力を目覚めさせるということだ。それはつまり戦いを意味する。 眞魔国同盟はまさにその戦争を回避するために発足した同盟と言っても過言ではない。その加盟国に行くのに戦いの心配をすることなどないというのが有利の主張だが、村田もグウェンダルもそうは考えていないようだった。
突如流れ始めた不穏なムードを霧散したのは、落ち着いた穏やかな声だった。
「もしもを事前に防げるよう善処しましょう」 「コンラッド…」 「俺は魔術は使えませんが剣は使えます。陛下と猊下のことは俺がお守りしますよ」 「何言ってるんだ!僕も行くぞ!!」 「や、さすがにやめとけってヴォルフ」
俄然いきり立つヴォルフラムを有利がなだめると、「僕はお前の婚約者だぞ!!」といういつものやりとりがはじまって漂い始める前に嫌な空気は跡形もなく消え去った。 子犬さながらに言い合う2人を遠巻きにしながらグウェンダルは顔をしかめる。
「…大丈夫なのか」 「行くっていったら渋谷は行くだろうさ。ま、今の渋谷にたてつこうっていう愚か者はそうそういないだろうから大丈夫じゃないかな」 「猊下はやっぱりユーリに甘いですね」 「君ほどじゃないよ」
くすりと笑うコンラートに村田は肩を竦めて返して見せた。2人のやりとりに、堅物閣下もとうとう諦めたように盛大に息を吐く。
「グリエにも合流するように白鳩を飛ばしておく」 「ああ、それは助かるな。久しぶりに彼にも会いたいし」 「俺と陛下とヨザと猊下なんて、面白い旅になりそうですね。グウェン、ちゃんとヴォルフのこと見ておけよ」 「………分かっている」
コンラートの一言に、有利のこととなるとわがままプーに拍車がかかる末っ子の方を見遣って長男は口元をひくひくさせた。 |