賢者の選択

 

 

 

 

 

 「…………猊下。……、お待ちしておりました…」

 

 眞魔国眞王廟。

 眞魔国広しといえど、この場所以上に人々の崇拝を一身に集めるところは他にない。建国の英雄眞王の御霊が安置され、一握りの者たちしか入ることが許されない、この国唯一にして最大の聖域。

 

 その入り口で深々と頭を下げたのは、眞王廟最高位、つまりは眞魔国の頂点に立つ巫女、ウルリーケだった。長い髪を惜しげもなく地に着けひれ伏すその姿にグリエは、改めてほんの少し前に立つ双黒の少年の存在を思い知った。なにより彼女のその姿を前にしてさも当然のように微笑んでいる余裕がその器を物語っている。思わず一歩下がりそうになった足をとどめるにはグリエと言えど多大な精神力を要した。

 

 ―――――格が違う。

 手のひらににじむ妙な水気をふき取るわけにもいかないまま、グリエは傍観した。現魔王であるユーリだとて、ウルリーケにここまでさせるには至らないだろう。また彼の場合は、彼自身がそれを好まない。地位や身分に関係なく、彼は誰にでも平等に接する。そしてそれは、我らが魔王の持つすばらしい美点であるとグリエもよく理解している。

 しかし目の前に立つ、その現魔王とさして変わらない後姿はそういったことさえも超越した存在に見えた。

 

「久しぶり、というべきかな。ウルリーケ」

「はい。……はい、猊下」

 

何百年もの間、眞魔国を支える一角という大役を果たす最上の巫女がかの人の前で少女のような顔をするのを、不思議な思いでグリエは見つめていた。

 彼自身はたった15年しか生きていないという事実がうそのように思えてくるほど、今の彼は眞王と並び称される『双黒の大賢者』だ。

 

「………猊下、本当によろしいのですか」

 

ウルリーケが真摯な眼差しで村田を見つめる。その一瞬前にちらりと視線がグリエに及んだが、それを疑問に思う前に彼女の瞳はすぐさま漆黒の双眸に釘付けになる。

 

「うん」

 

頓着なくうなづく村田に、巫女はひどく悲しそうに目を伏せた。しかしその潔い心根こそが彼が彼であるという、尊い魂を顕著にあらわしていることをも感じるため何も言うことができない。だから余計にその魂の宿命を彼女はただ悲しく思う。魔王と賢者の関係を作り出したものはウルリーケですら知り得ないが、それはなぜこんなにも酷な仕打ちを彼に課すのだろうか。

 

「じゃあまあ、よろしく頼むよ」

 

しかし、そんな彼女の心中すらも彼には筒抜けなのか、人好きする穏やかな微笑で大賢者は彼女を促した。そうなるともう為すべきことはひとつしかなくなる。ウルリーケは再び地に美しい髪を晒した。

 

「……はい、猊下。御心のままに」

 

 

***

 

 

 水のベールに包まれた静かな部屋はひどく厳かな雰囲気に満ちている。時折きらきらと光る水の破片が美しく、そこかしこに感じられる独特な存在感は紛れもなく常人のそれを逸していた。

 

 ああ、懐かしいな、と村田は思った。

 村田健としてこの場所を訪れたことはないけれど、魂の記憶というのはやはり伊達じゃないようだ。目から入ってくる情報よりも何よりも、心が反応する。胸の奥でじいんと懐かしさを感じる。

 

 訪れたその場所は、ウルリーケが通常いる部屋の更に奥、紛れもない眞王廟の最奥だ。そしてその場所に眠るのは、かの眞王陛下そのひとの尊い魂。眠る、という表現はいささか正しくない。彼は死してなお、この国の真の統率者といっても過言ではないほど影響を及ぼしている。

(まったく君は、わがままなんだから)

彼を思い出しながら苦笑をこぼしてしまう。尊大で傲慢で、へたに強大な力なんて持っていたからそれを過信して。あらゆる人に恐れられる孤高の存在。未だもって、それは変わっていないみたいだけれど。

 

 でも。

 ――――でも、わたしには優しかった。

 

 「猊下?」

 

深く、思い出に深く沈みこんでいこうとしていた村田の意識は訝しげな声によってさえぎられた。どこか遠くを見るようにぼうっと佇んでいた村田はグリエの声にはっと我に返る。

 

「………」

 

まずいなと思う。眞王廟はあまりにも彼の気配に満ちている。引きずられてしまいそうな自我を叱咤する必要があった。

 

「ありがとう、グリ江ちゃん」

 

心配ないと軽口をたたくと、

 

「もう〜猊下ったら、たったまま寝ちゃダメ!」

 

なんて相手も同じノリで返してくれたので内心村田はほっとする。

 

「さて、」

 

無意識に気合を入れる自分自身に果たして気づいているのかいないのか、彼は件の双黒をパチパチと瞬いて、すうっと息を吸い込む。少ししてゆっくりと吐き出すそのさまはヨガの呼吸方法を連想させた。あるいは口には出せぬさまざまな想いを、呼吸にのせて吐き出したのかもしれなかった。

 

「ウルリーケ」

 

堂々たる風情の少年がその名を呼ぶと、800年を生きた少女はこくりと頷き再び深く深く頭を下げる。

 

「………?」

 

どこが、とはいえない。しかしグリエはその仕草に違和感を感じた。なかなか頭をあげようとしない巫女に村田は少しだけ苦笑したが、それを制することはしなかった。

 

「………っ、」

 

グリエは感じる。嫌な予感がする。

 

「猊下、どうしても、ですか?」

 

最終確認のようにウルリーケは賢者を伺う。

 

「うん、どうしてもだよ」

 

即答する彼に、ウルリーケはひどく悲しそうな顔をした。涙でも流しそうなその様子にグリエはギョッとする。グリエにとって眞王廟の巫女というのは、とにかく高慢で小生意気、という印象があったからだ。胸の中にじわじわと広がる何ともいえない疑念がいよいよ確信を帯びてきた。

 巫女はいよいよ覚悟を決めたのか、小さく「わかりました」と答えて切なそうに愛おしそうに、賢者を見た。

(まさか)

瞬間自分の頭に閃いた考えにグリエは絶句した。そしてそれは次のウルリーケの言葉によって決定的となった。

 

「どうかお元気で」

「うん、君もね」

 

瞳を潤ませる巫女に対しにこりと笑むその姿を信じられない思いでグリエは見つめた。するとその視線の先で、ぼんやりとした光が村田を包み込んでいくのが目に入って、

 

「猊下?!」

 

たまらず叫んだ。

 

「どこへ行かれるつもりですか?!」

「地球へ」

 

普段の様子からは想像できないようなグリエの焦りっぷりに困ったように微笑みながら、けれどきっぱりと彼は告げる。

 

「そしてもう、この国には戻らない」 

 

 

 

 

 

 

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