従者の自覚

 

 

 

 

 

 帰ろうか、とかけられた声にグリエが顔を上げると、床の上に仰向けになっていた村田が目の前に立っていた。笑顔を向ける彼に従者は分かりました、と答える。先ほどから感じている彼の雰囲気の儚さにどうにも嫌な予感がやはり消えない。

 しかし立場上それを無下に指摘する訳にもいかず、グリエは必要なこと以外なにひとつ言わずにその、少なくとも表面上は穏やかであった空間を去り村田を再び馬に乗せた。

 

「こんな所に来てたなんて知られたら眞王陛下に怒られますかね」

「大丈夫じゃない?それに彼ならそのくらいお見通しかもよ」

「確かに千里眼だって使えそうですよねあの方なら」

「無駄にね」

 

言って笑う村田を見て、グリエは少しだけ胸を撫で下ろす。どんな些細な会話でもいい、普段の彼の片鱗を見つけたかった。

 

 パカラパカラと音を立てて帰路に着く馬上で、本当は城から少しでも離れていたいと思っている自分にグリエは薄々気づいている。

 

 村田を不安定にするのが誰かということを、グリエは勿論分かっていた。村田の動揺を実のところ、彼は本人以上に察知していたと言ってもいい。それだけこの古い時代に来てからずっとグリエは彼の傍で、彼の様子を良く見てきていたのだった。

 

「!」

「猊下?」

 

ふと、村田の体が一瞬目に見えて強張って、グリエは彼に呼びかけた。グリエからは彼の頭しか見えないので表情までは分からないが、距離は近いため所作の把握をするのは容易い。

 相手は呼びかけには応えずに正面を凝視したままだ。心なしか体が硬い。

 

「………」

 

何となく、グリエは次に起こることが予測できた。

 

 自身の前に座っている人物と同じようにグリエも目の前の、まっすぐにのびた道をじっと見つめる。変わりない景色の中、常にはない気配を確かに感じた。

 

 来る、と思ったその瞬間、大方グリエの予想通りにその人物は彼らの前に現れた。

 目の醒めるような美貌の青年は村田をそしてグリエを見てにこやかに笑う。普段よりも着飾って正装に近い格好をしている彼は、非の打ちどころのない美男子だった。

 一国の首都と言えど、発展途上の国であるので城下以外は辺鄙な風景が目立つ彼の国だが、その主である男がそこに下り立つと何の変哲もない草木や完璧に整備されているとは言いがたい小道が、どこか特別なもののように感じられる。

 

 それは彼が自らを国の主であると主張しているようにも、また、景色そのものが彼を王であることを賛しているようにも思えた。

 

「………ほんと君って神出鬼没」

 

ふっとグリエの前に座っている村田の肩から力が抜ける。しかしすぐに気を引き締めるように彼の背筋がピンと伸びた。

 

「妙にお洒落してるみたいだけど、何かあった?」

「察しが良いな」

「そりゃあ、こんなところにそんな格好で迎えに来られたら、何か急を要する事態でも発生したのかなと思うのが普通でしょ」

 

面白くもなさそうに言う村田に対して王は沈黙で肯定する。パカラ、と馬が足踏みするのをグリエは諌めた。

 

「ちょっと面倒なことになった。すぐに諸侯に会わなければならない。行けるか?」

 

笑みを収めて矢継ぎ早に告げる眞王に対して、村田はため息をひとつついただけで無言で頷く。彼が現れた時点で大体の予想はつけていたのだろう。

 

「助かる。悪いな、散歩中だったんだろう?」

「いいや、ちょうど帰るところだったし。グリエのおかげで休息も取れたから、大丈夫だ」

 

言って村田はひらりと馬から飛び降りて、グリエの方を向き口元でありがとう、と呟いた。グリエは目を瞠る。そして、もう大丈夫、と。そうして己が従者を安心させるように笑みを向けたあと、少年賢者は踵を返して王の元へと向かった。

 グリエは何も言うことが出来ないまま彼の背中に視線を送る。何か言わなければ、と気ばかりが急いて肝心の言葉は喉を通過してはくれなかった。

 

 そうしている間に王の元へと辿り付いた賢者を認めて、眞王は彼の手を引いた。

 途端ぐわっと全身を駆け巡る熱い何かにグリエは気づくけれど、賢明な面立ちをした美しい青年はそんな、賢者の従者の葛藤に感づく気配も見せずに彼に言葉を向けた。

 

「すまない、グリエ。先に行くぞ」

 

凛々しく詫びる王に、グリエは無理やりにこりと口角を上げて笑みをかたどる。

 

「いいえ〜。お馬は俺がちゃんと厩舎に戻しておくのでご安心を★」

「ああ、頼んだ」

「眞王陛下も、……猊下をくれぐれもよろしく頼みます」

「分かっている」

 

力強く首を上下する相手にグリエも頷き、視線を村田に移した。

 

「猊下」

「うん?」

 

グリエはギュッと手綱を握る手に力を込めた。出来得る限り、冷静にそして穏やかに、自身の主に微笑みかける。

 

「お気をつけて」

「…うん、君も」

 

そうして彼は、王に促されてグリエの前から姿を消した。

 

 

 

***

 

 

 

 手綱を掴んでいるてのひらが酷く痛んで、自分がうっすらと血が滲むほどにきつく握り締めていたことに気づく。

 

「ってぇ…」

 

ガチガチに硬くなっていた拳をゆるゆるとひらくと、ひどく力の入っていた全身の筋肉も徐々に弛緩するのを感じる。情けなく零れた声に彼は自分で自分を笑ってやりたい気分になった。

 

「………」

 

グリエはその場に沈黙した。ヒヒィン、と馬が寂しげにいななく。馬の上、そして彼の前に空しく広がる空間は、あっという間に圧倒的な存在によって連れ去られた人の残像だ。

 

(ああ、くそっ)

 

認めないわけにいかないところまで来てしまった――と彼は、自分自身を苦しいほどに責め立てた。常に傍に仕えた存在が、今、隣にいないというその事実が自身の心を抉るその感覚から、逃げる退路はもはや絶たれた。

 

「……猊下」

 

知らず呼ぶと振り返った彼の言葉と表情が脳裏を過ぎる。

 

『ありがとう』

『大丈夫』

 

そして同時に思い出された、去り際の瞳にグリエの心は捕われた。

 

「………あなたは嘘ばかりだ」

 

悔しいのか苦しいのか分からない心持ちでグリエは呟く。

 あんなに揺れた瞳をして、気丈に振舞おうとする中に隠すことの出来ない不安を露にしてこちらを向いて去っていった彼に、グリエはひどく腹立たしい思いに駆られる。

 何よりも、そんな彼を独り行かせてしまった自分が許せなかった。

 

「くそっ!!」

 

ぎゅ、と、擦れて痛むてのひらなど気にもかけずにグリエは再び手綱を引いた。

 

 あのとき、王が彼を連れ去ったあの時――、絶対に渡したくないと思ったその理由などあまりにも簡単な問いだったのだ。

 思えば予兆は幾度もあった。グリエの心はいつだって自身に合図を送っていた。

 それに気づかない振りをしたのは、グリエ本人だ。

 

 必ず守る、そう誓った。

 それなのにこんなにも簡単に手を放してしまった。

 絶対的な存在に思われるかの人に、己が自らの手で守るべき主人を委ねてしまった先刻の一瞬をグリエは今現在、歯噛みするほどに後悔していた。

 

 確かに魔王と賢者は互いに唯一無二の存在で、その絆は常人では計り知れないほど深いのかもしれない。

 それでも、とグリエは思う。

 

「あなたを守るのは、俺の役目です」

 

 ――――決して彼ではない、と。

 他のどんな者にも、その位置を渡したくないと。

 

 グリエは、彼本来の獣のような鋭い瞳をみせて前を見据える。

 

 ひと際高く馬がいなないた。

 握り締めた手綱を巧みに操り馬の腹を何度も急くように促して、誰よりも深い黒を併せ持つ賢者である少年の、この地における唯一無二なる従者は一路、城への道のりをひた走った。 

 

 

 

 

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