関係の名前

 

 

 

 

 

 散歩に行かない、と言いだしたのは村田だった。魔剣お披露目のセレモニー以来、様々な視線に晒された彼の、以前よりも随分と疲弊した様子を少なからず気にかけていたグリエはちょうどいい機会かもしれないと思い快諾した。気持ちの良い季節が過ぎ、冷たい風が吹き始めた頃だった。

 

 基本的に賢者の行動は彼の意思に任せられている。魔王は彼の所在を逐一把握したがる傾向があったけれど、彼自身決して暇を持て余すような身分ではない。また村田は人知れず姿をくらます手だてを心得ていたため、王も表向き彼のしたいようにやらせることに決めたようだった。 けれどかの眞王陛下のことである、胸中では別の思惑があるのかもしれなかった。

 

 白状してしまえば、グリエは他の者ほど眞王陛下に対する崇拝心が篤くない。特別な存在ということは心得ているが、少なくともここに来るまでは、未だ眞魔国に影響を及ぼしているとはいえ彼はグリエにとって過去の英雄でしかあり得なかった。

 ギュンター辺りが知ったら不敬罪に処せられてしまいそうなものであるが、彼らしいと言えば彼らしい考え方である。

 

 しかし彼は実際の眞王を目の前にした。

 なるほどかの王の実力が眞魔国の歴史の中でも群を抜いていることがグリエにも理解出来た。英雄、という肩書きがこれほど似合う人物もそうそういない。

 同時に、彼が生身の青年であることもグリエはすぐに理解した。今自分が接する王は、眞魔国の眞王廟に祀られているかたちない存在ではなく、ひとりの男なのだと。

 

 そこまで思ってグリエは目の前にある茶色の髪を見つめた。散歩に行くからと彼がほぼ強引に厩舎から馬を調達し、ただいま相乗り中なのである。

 村田はユーリよりは馬慣れしているが、かといって上手いと言うほどでもない。目と髪の色を変えたとはいえ城の外は危険だと言い含め、グリエは渋る彼を強引に自分の前に乗せたのだった。

 

「……お疲れですか」

 

少しやつれただろうかと思ったのと同時に声をかけていた。

 

「まあ、少しね」

 

少年が苦笑する雰囲気がグリエに伝わった。

 

「好奇の目なんて慣れてるはずなのに、やっぱり記憶があるのと実際に味わうのじゃ違うみたいだ。―――眞魔国は、渋谷のおかげでもっと凌ぎやすかったんだけど」

「そうですか」

 

彼の疲弊の理由をグリエも分かっていた。あちらでも双黒の大賢者は至高の存在だけれど、人々の彼への視線はもう少しラフなものだったように思う。

 こちらでは、双黒は奇跡のように稀有なもので、かつ賢者は、畏怖をも抱かせる存在のようだった。

 

 彼らが村田を見る眼差しは羨望と崇拝と好奇、そして恐怖に溢れている。そんな視線に晒される華奢な体をひどく痛ましくグリエは感じた。

 

 そしてふと、とある場所を思い出した。

 

 ぐいと手綱を引くと馬がいなないた。突如スピードをあげて薄い茶色の馬体が疾走を始める。グリエは村田が落ちないようにしっかりと背後から彼の体を抱き締めた。

 

「どうしたの?」

 

急に速度を上げた従者を振り向いて不思議そうに村田が問う。

 

「いい所に行きましょう」

 

そんな彼にグリエは悪戯っ子のように笑った。

 

 

 

***

 

 

 

 相変わらずそこは陽がまだ高いというのに薄暗かった。高い天井の続く広い廊下の奥は完全な闇に包まれていて見渡すことが出来ない。しかし今の彼にとっては過ごしやすい場所であるはずだ。

 そう思って村田の方をグリエは伺う。眞王廟の中にまで馬を乗り入れることは出来ないので、近くの木の幹に繋いできた。

 

「暗いね」

 

グリエの視線に気づいた村田が素直な感想を漏らす。が、その声音がいつになく穏やかであることを察知してグリエは満足した。

 

 適当な扉を開けて部屋に入ると、やはりそこも薄暗い。扉を閉めてしまえばほとんど真っ暗だった。

 

「……ちょっと暗すぎますかね」

「いや、大丈夫。すぐ目が慣れるよ」

 

僕は結構夜目が効く方だから、と言う村田にグリエも、俺もです、と頷いた。

 

 闇の中、すとんと腰を下ろす音がする。そうしてすぐに声だけが聞こえた。

 

「君も座りなよ」

「じゃ、遠慮なく」

 

村田の言葉に従ってグリエも大きな体を床に着けた。会話はそこで途切れる。後には沈黙が残った。

 

 彼らはしばらく、ひとことの言葉も交わさないままただ座っていた。

 近くにいるはずの村田は本当に静かで、そこに存在しているのか危ぶんでしまうほど気配が希薄だった。グリエは自分が夜目の効く性質で良かったと思う。目で捉えていなければ、闇に彼ごと紛れてしまいそうだった。

 

 不意にくすり、と声がこぼれてグリエははっとする。

 

「そんなにじろじろ見られると恥ずかしいんだけど」

「あ、すいません」

 

同じように彼も暗闇に慣れているのだということを失念していた自分にグリエは妙な恥ずかしさを覚える。ぽりぽりと頬を掻いていると、また声が聞こえてきた。

 

「グリエって結構心配性だよね」

「そうですか?」

「うん。そんなに疲れてるように見えた?」

「はあ、まあ」

 

正直に告白すると、そう、と彼は吐息を吐いた。

 

「確かに気を張っていたかもしれないな」

 

独りごとのように村田は呟く。

 

「賢者の位置も双黒の価値もこちらとあちらでは随分と差があるみたいだし、正真正銘の双黒の大賢者の身代わりなんて引き受けちゃって」

 

苦笑する村田の言葉をグリエは黙って聞いていた。彼が弱音のようなものを吐いてくれることは非常に珍しかった。

 

「それに、―――彼の存在が」

「………」

 

そこまで言って更に言葉を紡ごうとするが、思うようにいかないのか彼は黙った。

 村田の言う「彼」が誰を指すのか無論グリエも分かっている。胸にじわじわと苦味が広がっていくのを、彼はなす術もなく許した。

 

「双黒の大賢者が失われたことを、民は知らないんだね」

 

次に彼の口から出てきたのは、眞王のことではなかった。しかしグリエは話が飛躍したことには触れず、頷き返す。

 

「そうみたいですね。見たところ城内の者は知っているようですが」

「うん」

「民には教えないつもりなんでしょうか」

「……多分彼は、このまま僕を『双黒の大賢者』として仕立て上げるつもりなんだと思うよ」

「………」

 

他人事のように言う目の前の相手に、グリエもすぐには返事を返すことが出来ない。しかし彼だとてその事態を想像していないわけではなかった。

 グリエの観察眼が正しければ、眞王は双黒の大賢者にご執心だ。それがかの賢者の魂を持つ者に対してのものなのか、それとも村田自身を好ましく思っているのかはグリエには判断がつかない。むしろ、どちらでも変わりないと考えている確率の方が高いような気さえした。

 

「猊下」

「うん」

「眞魔国に戻らないという気持ちは、今も変わってないんですか」

「そうだね」

「……なぜかは今は聞きません。では、こちらに残るつもりがあるんですか?―――眞王陛下の思惑通り」

 

グリエの問いに、彼は瞳を2、3度瞬いた。

 

「―――いいや。僕は、眞魔国の、第27代魔王である渋谷有利の賢者だった。だから彼の傍を離れるということは、ぼくはただの村田健になるということだよ。今更他の者の賢者になったりはしない」

 

確固たる口調で、グリエの目をまっすぐに捕らえてくる瞳は、隠れた黒がその輝きを抑えきれず瞬いているかのように美しかった。そしてその真摯な様子はグリエに、彼が本気でそう思っているのだということを伝える。

 グリエにしてみれば事態は一向に前進していないのに、しかし村田の言にいくらかの安堵を感じた。

 ―――彼が、眞王の新たな賢者となることだけは耐え難いと、心のどこかで思っていた。

 

 しかし少しの間をおいて先ほどとは打って変わった困惑を含んだ声で村田は言う。

 

「ただ―――」

 

闇の中、青とも黒とも判別がつかない瞳が頼りなく揺れた。

 

「少しの間なら彼の手助けをしてもいいと思っている」

「…と言うと?」

「うん、ねえグリエ。僕は彼に、かの賢者のことを聞けないんだ」

「はあ…」

「民に賢者が失われたことを知らせていなかったと知った時、理由を彼に尋ねようと思った。でも、出来なかった」

 

思い出しているのか、村田は知らず視線を外してどこか遠くを見ていた。グリエは彼の言葉を待ちながらひどく落ち着かない心持ちがした。

 

「双黒の大賢者のことを、彼はとても大切に思っていたんだろうね」

「……そうですね」

 

それがどんな感情であるのか、グリエには想像できる気がした。しかし村田の言う「大切」にはそういった情は含まれていないような感を受けたので敢えて口には出さなかった。

 

「猊下」

「なに」

 

グリエは思う。この、胸を巡る気味の悪い焦燥は何なのかと。しかし答えは出ない。分からないけれど、決して暑くはない季節の、さらにひんやりとしたこの空間の中で嫌な汗が背中を伝うのを感じた。

 

「猊下のことだから心配ないとは思いますけど、」

 

前置きをして、失礼を承知で、それでも言わずにはいられなかった。

 

「猊下は猊下だってこと、忘れないでくださいよ」

 

彼は一瞬目をぱちくりと見開いたけれど、すぐに破顔した。

 

「そんなの、もちろん僕が一番分かってるよ」

 

グリエの懸念を村田は笑い飛ばすが、今回ばかりは彼の自信に満ちた口調をも疑わずにいられなかった。

 

 

 

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