深層の湖畔

 

 

 

 

 

 どれくらいの距離を歩いたのか判別がつかない、というくらいには歩き通して一向はほとんど森の最も深い部分に足を踏み入れていた。時折休みはしたけれどもこんなにもぶっ通しで歩かされることなどあまりない現代っ子である村田少年は、上がりそうになる息を必死に押しとどめることに全ての意識を集中させていた。

 グリエと眞王の両方から差し伸ばされる手を再三跳ね除けてきた彼としては、今更助け船を頼むわけにもいかない。

 

 こんなことなら「抱えてやろうか」という王の尊大な申し出や、「背中お貸ししましょうか?」という従者の気遣わしげな台詞に頷いておけばよかったと思うが、前後の男が息ひとつ乱していない以上、村田としても見栄をはりたいところだったのである。

 

 しかし希代の英雄と筋肉バカ一代と張り合おうとしたのがそもそもの間違いだったのだと、頭脳派賢者が後悔しかけた矢先、ドンと障害物にぶつかった。

 

「うっ」

 

多少の衝撃に思わず声が出る。鼻とおでこをさすりながら前を見ると、金髪の美青年が顔だけ後ろを向けて呆れていた。

 

「何をしてるんだ」

「大丈夫ですか〜、猊下?」

 

後ろからはのんびりとした声に気遣われてしまった。

 

「……なんでも。ちょっとよそ見していただけだよ」

「お前は相変わらず体力はないんだな」

 

苦し紛れの言い訳は王の前に一刀両断された。しかしぶつかった手前村田としても反論のしようがなかった。何よりも体力がないのには自信がある。短距離走はそれなりに速いが長距離走は並以下、という自覚が村田にもあった。

 王は珍しく応酬してこない賢者に少し笑ってまあいい、と言って二人に前を見るように促した。

 

「この奥だ」

 

短い彼の言葉に二人ははっと身をこわばらせて前を見た。

 眼前には今まで通ってきた場所と同じように木の幹や大小の葉っぱがあるだけでそれらしいものは何も見当たらない。

 

「……この奥、ですか?」

「そうだ」

 

訝しげなグリエに王ははっきりと答える。村田は前を見据えた。何の変哲もない森の一部に見える。見えるが。

 じっ、と瞳に映る茶と緑に目を凝らした。

 

 ――――この空間に、違和感を感じる。

 

「君、何か術を施したのか?」

 

視線を動かさずに村田が問うと、王が自分の方を向く気配がした。それに答えるように彼の方に顔を向けると、満足そうな笑みを見せるブルーの瞳とかち合う。

 

「その通りだ」

 

頷いて彼は言う。

 

「まあでも、術をかけたのは俺じゃない」

「?」

 

不思議そうな表情をする村田をよそに彼はすらっと腰に帯びていた剣をおもむろに抜いた。

 

ザッ

 

抜かれたと思った瞬間、疾風のごとくその刃が目にも止まらぬ速さで目の前の空間を斬る。ガサガサッと激しい音と共に彼らの前にある木々が刃の餌食になったかと思うと同時に、ぶわっと唐突に風が三人を包む。

 

「?!」

 

村田とグリエが突然のことに驚いている中、眞王だけが冷静にその場にたたずんでいた。

 

「臆するな、すぐに終わる」

 

彼の声が遠くに聞こえたと思った時にはもう、村田の体はごうごうと音を立てる竜巻のような激しい風の中で翻弄されていた。

 自分の体が宙に浮いている感覚はある。しかし目も開けていられないほどの暴風に襲われ前後不覚の状態だった。

 

「ぐっ」

 

思わず喉の奥で声を漏らすと、不意に強い力で腕を引かれた。そのまま守るように体を抱きこまれ村田にかかる負担はぐっと減った。硬い胸板に顔を押し付けられ頭を手で支えられる。礼を言おうにも、相手の顔を見ることすら適わない態勢だ。

 完全に守られる側に回ってしまっている自分自身に対して村田は複雑な思いに駆られるが、なにしろ体がバラバラになりそうなほどの疾風なのでおとなしくそのまま風が過ぎるのを、ただ待った。

 

 

 

***

 

 

 

 すぐに終わる、との彼の言葉どおり、実際に風に翻弄された時間はそう長いものではなかっただろう。

 しかし、それは村田にとっては随分と長く感じられた。

 

 風が止んで、体にかかる重圧がなくなると、彼を守っていた腕も村田を解放する。

 

「大丈夫ですか?」

「……ありがとう」

 

自由になった顔を上に向けようとすると先に声をかけられた。オレンジの明るい髪と、それに良く似合う明るい青の瞳が目に入る。逞しい上腕が村田の顔のすぐ近くにあって、これが自分を荒々しい風から守ってくれたのだと知った。

 

「…君は?」

「大丈夫ですよ」

 

気恥ずかしさからか、少しだけ憮然としつつ問う主に、従者はにこりと笑う。が、ぎこちない彼の問いかけに少し苦笑する気配が感じられて、ますます村田は憮然とした。

 

「まったく、軟弱なところも変わっていないな、お前は」

 

しかし、そんな村田よりもさらに不機嫌な声が後ろから聞こえてきて、二人は声の主を見遣る。

 

「君も、無事?」

「当たり前だ!」

 

誰に向かって言っているんだとでもいうように語気を荒げる王に、そんなに怒らなくてもと村田は思うが、口には出さなかった。

 

「それで、ここは?」

 

問いかけながら辺りを見回す。見たところ、先ほどの森とさほど景色に変わりはない。周りには相変わらず青々とした木々が彼らの前を遮断するかのように生い茂っている。

 

「来い、ケン」

 

不意にぐいと腕を引かれて、村田は前のめる形でたたらを踏んだ。

 

「っとと、急に引っ張らないでくれる?」

 

――――というか。

 

「……今、何て?」

 

強引な腕に引かれながら、ぐっと距離が近づいた王の顔を目を見開いて村田は見上げた。

 

 今、とんでもない言葉を聞いた気がする。

 

 端整な顔を見ながら目をぱちぱち瞬かせる村田に対して、魔王は乱暴に言い放った。

 

「お前の名は、ケンと言うのだろう」

「そうだけど………。……僕が君の賢者じゃないって、やっと分かってもらえた?」

「お前はお前だ。しかしお前がそういう名だというから、呼んだまでだ」

 

村田の方を見ようとせずによく分からない理屈をまくし立てる相手に、どうしていいか分からず思わずグリエの方に顔を向ける。しかし良くできた従者は肩を竦めただけで王と賢者の後について来るのみだ。

 それ以上何も発さずにずんずんと木々を掻き分けて前に進む王に、訝しく思いながらも村田は掴まれた腕をそのままにして彼と共に歩いた。

 

 前方の木々の壁が切れたのは唐突だった。

 ザザッという派手な音をたててひときわ大きく一番前を歩いていた彼が剣を振ると、急に目の前が開けた。

 

「う、わ……」

「へえ…」

 

村田の感嘆の声と、グリエの感心したような声が重なる。

 

 彼らの前にあらわれたのは、鮮やかな青から淡い緑へと変化するグラデーションが美しい湖面だった。

 風がないため波の立たない湖の表面はとても静かで、キラキラと太陽の光に反射するさまが実に綺麗だった。こんなに美しい湖はこの世界でも地球でも、そうそうないように村田には思われた。

 

「美しいだろう」

 

王の誇らしい声にじっと湖を見つめていた村田ははっと我に返る。

 

「……ここに?」

「そうだ」

 

なるほど、と納得する思いで村田は再び湖に目を向ける。これほど美しい場所ならば伝説の魔剣が眠っている秘所として不足はない。ごくり、と喉を鳴らす音が真後ろから聞こえる。さすがにグリエも緊張しているらしかった。

 

「……でも、見た感じただの湖ですねえ」

「だからこそ、誰にも知られずに済んだんだ」

「なるほど」

 

王の答えにグリエも納得したように頷いた。確かにすぐに魔剣があると分かるような場所にあったならば、眞王が魔剣を手に入れることは出来なかったかもしれない。

 

「まあ、見ていろ」

 

自身満々に言い放って堂々たる風情で王は颯爽と湖の方に向かった。急に歩き出した王に手を握られている村田も、再びこけそうになりながら前に進む。ちらりと端整な顔を睨みつけるが、相手は全く意に介さないように前だけを見ていた。

 

 水のあるギリギリのところまで行って、ふと止まる。湖面の色は近くで見ると濃い青と緑を混ぜたような不思議な色だった。底が見えそうなほどに澄んでいるのに湖は余程深いのか、目を凝らしても何も見える気配がなかった。

 

 にぎられた手がおもむろに上に引かれた。

 不思議に思って相手を見ると、澄んだブルーの瞳が村田をじっと見つめていた。湖面に勝るとも劣らない美しいその色に、一瞬見惚れそうになる。

 しかし相手はそんな村田の心中を無論知るはずもなく、にやり、と彼らしい笑みを見せて腰を下ろした。自然、彼と手を繋いでいる村田も一緒に腰を下ろすかたちになった。

 

 そのまま、繋がれたほうの手が水に触れる。

 

 音もなく。

 

 静かに二人の指が湖に沈んでいく。

 太陽の光を十分に吸収していてもなお水はひんやりと冷たかった。

 

(気持ちいいなあ)

 

 そう思って目を閉じた瞬間だった。

 

「久しく」

「?!」

 

突然、後ろから声がした。

 隣にいる人物の声でも、後ろに控えているグリエの声でもない。

 ばっと、繋がれた手に構う余裕もなく村田は後ろを振り返る。湖面から抜き出された反動でぴしゃんと水が跳ねた。

 

「………?」

 

目の前にいたのは、人の形をしたものだった。レモン色の長い髪を無造作に垂らして、ふわりとたたずんでいる。

 

 まさしくそのたたずまいは、ふわり、と形容すべきものだった。

 その存在がただの人ではないことは傍目から見てすぐにわかる。彼の向こうにいるはずのグリエの驚きに満ちた表情が、彼ごしにはっきりと透けて見えた。

 

「……君は」

 

搾り出すように村田が声を出すと、少年といえそうな面持ちをした突然の来訪者は、恭しく礼をした。

 されるがままに礼を受ける賢者の驚きをよそに、眞王は一歩前へ進み出た。

 

「久しいな、モルギフ」

 

尊大な彼の態度にモルギフ、と呼ばれた彼はただ嬉しそうに微笑んだ。その瞳は青と緑を混ぜた美しい湖面の色と酷似していた。

 

 

 

 

 

NEXT