記憶の彼方

 

 

 

 

 

 ユーリ陛下が眞魔国魔王として即位してから、急速に国自体が復興したという訳ではなかった。20年前に流された血は未だ人々の心を暗くさせたし、当時はびこっていた害虫を駆除するにはもうしばらく時間が必要だろう。仮に一掃出来たところで、失ったものが戻ってくることは、ない。  それでも渋谷有利が魔王となってからの眞魔国は、戦前の明るさや暖かさを取り戻しながら、概ね平和な状況であるといえる。人々は日々の食料に困ることもなく、戦火に怯えることもなく、毎日にこやかに暮らすことが出来た。

 

  村田健もまた、例外ではない。

 専用の自室の気に入りの椅子に腰掛けながら村田はぼんやりと窓から見える光景を眺めていた。暖かな春が過ぎて初夏の色合いが濃くなってきた木々たちはみずみずしく、これからの国の繁栄を映すかのように青々と茂っている。それは彼の心を嬉しくもまた少し寂しくもさせた。時折聞こえる侍女たちの笑い声は耳にあたたかく響く。

 

 そして想いを馳せる。あの一連の、大きな出来事。

 流された血が乾ききらないうちに大惨事になってもおかしくない状況だったものを、その意志の強さと彼独特の正義感をもって安寧せしめた当代魔王である親友を、村田は誇らしく思う。自分に共鳴して爆発的に増幅した凶悪な魔力を、よくもすんでのところで制御してくれたと。

 

  あのとき―――、自分と彼との相乗効果で最大限まで膨張した魔力は、世界を滅ぼすかに思えた。あの強大な絶望は、大きな国から小さな国、さらには世界をまたにかける海や空までをも消し去らん勢いで暴れ狂った。 恐ろしかった。

  己が力の恐ろしさを、村田は初めて認識した。自分が、ただ破壊のためにつくられた存在であることを実のところ、本当に初めて思い知らされたのだった。

 

「……行かなければいけない」

 

意識して固くつぶやいた言葉は彼の心を抉りはするけれど、彼らのことを思えば自分のそんな感情など本当に取るに足りないものだと心底思う。魔王ユーリとその忠臣、そして彼らを取り巻く様々な人々。自己犠牲なんて今更過ぎて意識に浮かんだとたんに消えた。癪にだってさわるし。それにもう、この国の魔王と臣下の関係には太鼓判を押すことが出来る。彼らに、そして国そのものに自身の持ちうる全てをかけようとする王と、そんな主を敬愛する従者たち。

 問題ない。この国はもう、大丈夫だ。

 

「さて」

 

ふいと思いついたかのようなしぐさで椅子から立つ。張りのあるよく磨かれた革に精巧な装飾がなされた見事な椅子。世話になった愛椅子をなでなでしてからその場を離れる。たぶん、この部屋で一番名残惜しい物だ。だけどもそれきり振り返ることもなくまっすぐに村田は出口へと向かう。手にかけたドアの感触もなんだか今日は違う感じがする。そんな自分に内心苦笑しつつ、すいと引いて開けてするりと体を外に滑らせて、パタンと閉めた。

 

 閉め際ささやいた言葉は、きっと誰にも聞こえない。

 

 

***

 

 

 ざわざわと葉っぱがすれる音がする。先ほどとは違い間近に聞こえるその音はどこか彼の心をなぐさめてくれた。濃い緑をたわわに張り付かせた木々のさなかをすたすたと進む。香ばしいほどの風がひどく気持ちいい。やはり初夏は好きだと村田は思う。

 

 ―――眞魔国は平和になった。

 眩いこもれびの中を歩きながら少年は考えをめぐらせる。

 無論完璧な平和とは言えないかも知れないけれど、脅威は去ったといっていい。少なくとも、「村田健」が生きている間にこの国が自分を必要とするほど脅かされることはないだろう。

 

「お役ご免、かな」

 

呟いてしまった言葉は、自分の意思を固めるためのものだ。なのに声に出してしまうと未練の方を感じてしまった。失敗だ。

 

「はーあ、大ケンジャーなんてつまんない役柄だよ」

 

仕方なくおどけてみる。こうやってごまかすことでしか自分の厄介な本音を蹴散らすことができない。我ながら情けないけれど、仕方ない。村田は自分に言い聞かせる。大賢者なんていっても所詮15歳のいたいけな少年だ。渋谷だって同じだけれど、彼と僕とでは立場が違う。あまりにも、違う。

 

「はあ」

 

損な役回りにため息が出るけども、かといって魔王になりたいかと問われれば答えは否だ。あんなめんどくさい職業は死んでもごめんだ。正真正銘の双黒の大賢者だった頃の記憶がある限り、魔王の座を望むことはありえない。だからこそ、歴代魔王に敬意の念を抱く。

 

 村田は思う。自分の抱く魔王へのそれは、ほかの人とは少し違う。『双黒の大賢者』の魂を持つものにしかこの念は理解できないだろう。魔王が常にひとりであるように、大賢者も常にひとりだ。同じ時代に二人は生まれない。自分たちが互いを必要とし合うのは、そういった意味合いもあるのだろうと村田は考えている。

 孤独は癒せない。分かち合うこともできない。けれど、似たものがもう一人いると思えば安堵する。魔族も人間も、真の性はたいして変わりない。だから、眞王と双黒の大賢者も――――。

 

「………」

 

ぎゅっと、胸の奥を摘まれるような刺激に村田は思考を一瞬手放す。眞王と双黒の大賢者。ふたりに関する記憶を辿ろうとすると、いつもこうだ。初代の大賢者の頃から4000年の記憶を自分は確かに持っているけれど、彼の記憶にだけは、どこか違和感を感じる。

 

 村田は、記憶の中の全てのひとの生きていた間の記憶や感情を、常に頭で意識しているわけではないし、その考えや感情を正確に汲み取れるわけでもない。そこにあった事実を、事実として受け取るだけだ。それでもそのひとが思ったことや考えたこと、心を動かされるほどの感銘などを感じ取ることはできるし、生きてから死ぬまでの人生は、記憶の片隅をつつけば容易に取り出せる。

 

 しかし双黒の大賢者には、それがあてはまらないのだ。彼の人生をほかのひとと同じに映画のように辿ることはできる。けれど彼に関しては、それはサイレント映画を見ているような感覚に似ていた。もしくは、音量を極度に下げているような。そしてボリュームをあげようとすると決まって思考を手放すはめになる。今まではそのことをほとんど意識したことがなかったから気づかなかったけれど。そう、今まで意識していなかったこと自体おかしな話だ。

 

 村田はしばし思いをめぐらせる。もしかしたら。

(――もしかしたら、双黒の大賢者とやらは案外曲者かもしれないな)

自分の存在のおおもととなる人物といえるのだから、一筋縄でいくようなひとであるわけもないけれど。でもおそらく、考えているよりもずっと、だ。

 

「さーすが、双黒の大賢者様」

「なーに自画自賛してるんですか」

 

思わず立ち止まる。その場に彼がいるという事実よりも、若干、恥ずかしい独り言を聞かれたことで村田はすこしだけ狼狽した。しかもわざとおちゃらけた口調まで真似されて、恥ずかしさ2倍だ。

 

「……なんで君こんなとこにいるの」

「そりゃ俺は猊下の護衛ですから」

 

さも当然という顔でこたえるオレンジ頭に村田はただ一瞥をくれた。まったく、眞魔国の精鋭は有能すぎて困る。つけられていることに気づかなかった。悔しいけれど、百戦錬磨の彼の方が一枚上手だ。コンマ1秒、グリエ・ヨザックを撒くことは困難だと判断した村田は、再び歩き出しながら背後に尋ねる。

 

「どこに行こうとしてるか、聞かないの」

「どこに行こうとしてもついていくから必要ないですよ」

「まるで愛の告白だね」

 

切って捨てるように言ってやると、後ろから苦笑がこぼれる。もちろん、そんな甘いものではないことくらい理解しているけれど、村田としては皮肉のひとつでも言ってやりたい気分だった。

 

 

***

 

 

 「猊下は、眞魔国がお嫌いですか?」

 

黙々とひたすら前に向かっていた村田の足が止まる。突然の問いだ。しかも、厄介な。村田は再び足を動かす。同時に背後の気配も動いた。

 

「いいや?」

 

振り返らないまま答えると、

 

「なぜこんなことを聞くのか、聞かないんですか?」

 

声が返ってきた。思わず吐息がこぼれる。

 

「聞いてほしいの?」

「そうですね」

「………『なぜそんなことを聞くの』」

 

正直、今この男と話すのはまずいと村田は思っていた。自分の目的を達成するためには、誰にも真意を悟られるわけにはいかない。特にグリエは腕利きの諜報員である上に、渋谷とも親しい。彼の性情をよく知っている。しかし、ここでだんまりを決め込むのも怪しまれるか。よく回る頭を回転させた結果、村田は質問に答えることにした。

 

「まあ、興味本位ですかね」

「興味?」

「そうです。知らないみたいだから言いますけど、俺結構猊下に興味あるんですよ」

「そう」

 

その「興味」が、『双黒の大賢者』にあるのか、『村田健』にあるのか、判別しかねたことに村田は僅かな戸惑いを覚える。この世界の者が村田に興味を持つ場合、それは『双黒の大賢者』であって村田健はオプションですらないと考えていい。もちろん例外もいるだろう。もしかしてそれは片手で足りてしまうほどかもしれないけれど、少なくとも現魔王である渋谷有利は、村田健の友人だ。

 

「なぜ、って聞いてくださいよ」

「……『なぜ』」

「猊下ってなんか、おもしろいんですよね〜。坊ちゃんはかわいいーって感じですけど、猊下はかわいいのに、なーんかぞっとする感じ」

「………」

 

選択を間違っただろうか。村田は焦りを感じる。この男、危険かもしれない。これ以上会話するのは憚られた。――が。いまさら黙り込むのもおかしい。

(どうする?)

 

「かわいいのに危険な香りもするなんて、俺が女の子だったらイチコロですよ!!」

「………」

 

無表情を装っていた村田は、思わずこけた。呆れ顔で振り向くと、当の本人は手を口に当ててかわいらしく首をかしげている。…決してかわいくはないが。

 

「何してるの〜、猊下?」

 

(くそう)

天然なのか、それとも策士なのか。

(この男、読めない)

おそらく後者なのだろうけど、どうにも調子が狂ってしまう。

 

「嬉しいけど、ごめんねグリ江ちゃん。彼女にするなら、僕より15センチ背が低いコが理想なんだ」

「ひどいわ猊下!女は背じゃないわよ!胸よ胸!」

「そんな硬い胸板を自慢げに張られても」

 

いい加減脳みそまで筋肉だという筋肉バカ、という路線も考慮しようかと村田が考え始めたとき、ふっとグリエの表情が変わる。

 

「そんなお顔は本当にかわいらしいんですけどねえ」

「………」

 

ついさっきのおふざけなんて微塵も感じられない眼差しを向けられはっと息を呑みそうになって、すんでのところでやり過ごした。しかしすぐ思い直して、ため息を吐き出す。どうやら虚勢を張っても無駄な相手であるようだと、村田は判断した。

 

「何が言いたいの?」

「や、別に。ただ猊下が苦しそうだと、みんな気にするんでね。特に、陛下とか」

 

みんな、に含まれるのは、やはり両手で十分足りる人数なのだろうなと思いつつ、それでも自身の心情が他人に気づかれていたということに、村田は自分に対して落胆した。本当に、自分は所詮、15歳の少年でしかないのだ。

 

「眞魔国は好きだよ。日本だってそりゃ好きだけど、比べられるようなものじゃないし」

 

(そう、僕はこの国が好きだ。)

戦争の傷跡にくじけることなく、ひたむきに復興を目指す人々。そんな彼らの期待にこたえようと奮闘する年若い王、彼のために、そして彼らの国のために、全てを捧げる忠臣たち。懸命に生きている彼らはとてもまぶしい。

 

 ――――だからこそ。

 村田はそっと瞑目する。それは今考えるべきことではない。この勘の良い精鋭は危険だと、さっき思ったばかりではないか。

 目的を達成するまで感づかれるわけにはいかない。

 

「でも心外だな、そんな風に思われていたなんて」

 

上目遣いに睨み付けると、グリエは飄々と肩を竦めてみせる。

 

「うちは基本的に過保護ですからねえ、なんでもないことでも余計に心配しちゃうんですよ。特に猊下は大事なお方だから余計に過敏になっちゃうんでしょうね」

「君は?」

「へ?」

「君はどう思ってるの?」

 

ふと聞いてみたくなった。予期せぬ質問にグリエは間の抜けた表情で村田を見返す。

 

「『猊下』のことだよ。心配かい?」

 

意地悪く笑ってみせると、グリエは不思議そうな顔をする。

 

「まあ心配じゃないってこともないですけど。猊下のお考えなんて俺には見当もつかないですからねえ。たださっきも言いましたけど、猊下おもしろいから護衛として直で見られてラッキーですね」

「別におもしろくなんてないよ。大賢者なんてつまんないよー?」

「そうですか?俺は猊下以外の大賢者様にはお会いしたことないんでわかんないですけど、猊下はおもしろいしかわいいですよ?」

「……どっちかってゆーと君の方がおもしろいよ」

 

双黒の大賢者をつかまえておもしろいやらかわいいやら、まったくこの男はマイペースだ。なんとなく毒気を抜かれた思いで「まあいいや」と返しておく。グリエは「そうですかあー?」なんてポリポリと頭をかいていた。……照れてるのか?

 

「ところでどちらに行かれるんですか?」

「さっきどこへでもついていくから聞く必要ないって言ったじゃない」

「もちろんどこまでもついて行きますけど。一応心の準備をね」

「なにそれ」

 

目指す場所はもう、そんなに遠くない。そろそろこの奇妙で楽しいおしゃべりも終わりだ。村田はいつの間にかほとんど隣に並ぶほど近くに来ていた明るい髪の持ち主を、ちらりと見上げた。

 

「大丈夫、もうすぐつくよ。眞王廟って案外遠いよね」 

 

 

 

 

 

 

 

>>NEXT