5.捕らわれた心

 

 

 

 

 

 「上って……」

 

にわかには信じがたい返答にぽかんと口をあけて、突然の来訪者の顔をまじまじと有利は見つめる。

 黒い髪に黒い瞳。白人と言うには白みがいささか独特な肌の色。自分よりも少しだけ低い背丈。年は同じくらいだろうか。

 

(日本人、だよなあ)

 

東洋の香りを漂わせる目の前の少年は、有利の目から見れば明らかに自分と同じ出身であるように見受けられた。西欧人には、中国だとか韓国だとかの人々と日本人との区別というのは見た目からはあまりつかないらしい。けれど自身が日本人のDNAを受け継いでいる有利には一目瞭然だった。

 聞いてみようかと改めて彼の顔を見て、新たな特徴を発見する。

 

(あ、眼鏡)

 

彼の目を覆うフレームとガラス。それは有利が探している人物の特徴のひとつと重なっていたので、思わず反応してしまった。しかし、先日お世話になったのは金髪碧眼。日本食が好きらしいけれど日本人ではない。彼は一瞬だけ沸いた眼鏡への興味をすぐに頭の隅に流して切り替えた。

 

「とにかく、あんまり不用意に飛び降りないほうがいいぞ。成長期は足腰が敏感なんだからな!」

 

彼の、自分と同じく発展途上の体つきを見てついおせっかいを焼いてしまう。相手は一瞬虚を突かれたような顔をして、そして口の端を少しだけあげた。

 

「……上に飛び降りるところなんてない、とか聞かないんだね」

「ないのか?」

 

何だ嘘かよ、と鼻白む有利に相手は首を振る。

 

「あるよ。でも、」

 

少年は人差し指を壁の上へと向けた。つられて有利も指差された方向に首をひねる。

 

「あの窓は地上までは遠すぎるだろう?」

「でも飛び降りたんだろ。命知らずだな」

「君、よく騙されない?」

 

回りくどい相手の言葉に面倒くさそうに有利が断言すると、相手は呆れたとでも言いたげな顔つきで失礼なことを言ってくる。涼しげな、知的さが顔に滲み出ているような容姿を持つ少年に、その表情は腹が立つほどよく似合っていた。

 そしてそれは、有利のコンプレックスを如何なく刺激した。

 確かに自分は悪戯にひっかかりやすいし、正直、街角キャッチセールスの餌食になりかけた苦い経験だって一度と言わずあるけれど。それを教えてやる義理も気もない。

 むっと押し黙る有利とは逆に、彼はぷっと笑った。

 

「ごめんごめん、これでも褒めたんだよ」

「はあ?!そうは聞こえなかったぞ?!」

「君、面白いねえ」

 

意味分かんねー!!

 

 噛み合わない会話に有利は心の中で絶叫するが、相手は何だか楽しそうである。ひとりでわたわたしている自分が馬鹿みたいになって、思いついたことを口にした。

 

「まあいいや、お前、名前は?」

「え?」

「え?」

 

相手の予想外の反応に聞いた有利の方が動揺した。初対面の人に名前を聞くのはこの国ではマナー違反だっけ?!いやいやでも明らかに日本人だよな、などと頭の中でぐるぐると考えていると。

 

「……村田健」

「お、おう」

 

どうやらよく聞こえていなかっただけらしい。

 

「俺は渋谷有利。村田ってやっぱ日本人だよな?」

「そうだね」

「この学校に俺以外にも日本人が来てるなんて知らなかったよ。よろしくな〜」

 

などと言いながら、有利は彼が日本人であるという確信を得たことで、一縷の望みをその胸に抱いていた。つまり、村田少年は味噌汁のカップとかご飯の小分けパックとか、はたまた梅干なんかを持っていたりするのではないかと。

 

「ちなみに日本食ならもう持ってないよ」

「ええー?!って、俺もしかして声に出してたー?!」

 

しかし有利の望みはあっけなく崩れ去る。しかも初対面の相手から食料を恵んでもらおうなんていう卑しい魂胆が表に出ていたことにひどく慌てた。

 

「さて、」

 

しかし彼は有利の浅はかな欲を気にも留めない様子で腕に巻いた時計に視線を移す。本体もベルトもシルバーで統一されたそれはとても品があって、知的な雰囲気の彼によく似合っていた。ところどころに傷が見えるところからして、年代もののようだ。しかしその傷は太陽の光に反射してきらきらと光り、むしろその存在感を強調しているようで美しい。

 

「長居しすぎたかな。じゃあね」

「え、ちょ」

 

思わず声が出た。

 

「なあ!」

「?」

「や、あー…、ほら、同郷なんてめずらしいからさっ、また会えるかなーなんて、ああもうなに言ってんだ俺!」

 

立ち止まって振り返る相手に、しどろもどろになってしまう。自分でもなぜ呼びとめたのか分からなくて有利は混乱していた。それなのに口は勝手に言葉を紡いで、吐き出た台詞に自分自身が驚いていた。

 村田と名乗った少年はその様子に小首を傾げる。

 

「ホームシック?」

「違う!!」

「うーん、良いツッコミだね〜」

「お前俺のこと馬鹿にしてんだろ!!」

「してないよ」

「………」

 

きっぱりとした口調で言い切られて何も言えなくなってしまった。何やらもの恥ずかしくて途惑いつつも彼を見ると、相手も有利を真正面から見つめ返した。

 東洋人特有の真っ黒な瞳がこちらを向いて時折瞬くさまが、どうしてかひどく綺麗だった。日本人の容貌を見るのが久しぶりだから懐かしいのだろうかと有利は思う。けれど今まで日本にいたときに、こんな視線を向けられたことがあっただろうか。―――思い出せない。

 その眼差しはくっきりと有利の中に焼き付いてしまった。

 

 しかしその胸の内など知らず、彼はひらりと身を翻す。

 

「じゃあね」

 

そして別れの言葉だけを残して姿を消した。

 

「?!」

 

有利は目を見開く。ぱちぱちと何度も瞬くが、やはり結果は同じだった。

 文字通り、本当に彼は有利の視界が届く範囲から消えてしまっていた。

 

「……?」

「…リ!!……ーリ!!」

 

眉根を寄せて彼が去って行った方向を向いて立ち尽くす有利の耳にしかし、聞きなれた声が入ってきてつい、彼は意識を無意識に切り替えてしまう。

 

「ユーリ!!探したぞ!」

「ヴォルフ」

「また朝の散歩か?まったくお前は物好きだな」

「あれ?コンラッドは?」

 

いつも金髪の隣にいるはずの薄茶の髪が見当たらない。

 

「ああ、あいつは図書館に寄ってから行くと言っていた」

「ふーん、そっか」

「ぐずぐずするな!お前のせいで遅刻なんて僕はごめんだからな!」

「だったらいちいち探しにこなきゃいいだろ〜」

「うるさいへなちょこ!少しは感謝したらどうだ!」

 

はいはいありがとう、と子犬さながらに捲し立ててくる美少年に礼を述べるが、相手はお気に召さなかったらしく、また怒鳴られてしまう。

 

「おい!ユーリっ聞いてるのか!」

「聞いてる聞いてる」

 

言いながら、けれど有利の思考は再び先ほどの少年に舞い戻ってしまっていた。

 

「……どうかしたか?」

 

普段とはどこか様子の違う有利に、吠え立てていた声を収めてヴォルフラムが彼の顔を覗きこんだ。目の前に現れた薄緑の瞳に有利ははっとする。さっきも別の少年が、そんな風に突然目と鼻の先に現れたことをにわかに思い出す。そのときは今よりもっと至近距離で、瞳の色も全く違っていた。

 

「………」

「ユーリ?」

「…なんでもない」

 

出会ったばかりの少年のことを友人に知らせるのはなぜだか憚られた。遅れるから行こう、と半ば誤魔化すように、黙っていれば天使のように美しい少年の腕を取る。「変な奴だな!」と悪態をつきながらも握られた腕を振り払おうとはしないでヴォルフラムは彼に従う。

 

 ずんずんといつの間にか朝露の湿り気のなくなった、建物の裏側を後にしながらしかし有利の心はそこに捕らわれたままだった。

 

 つまりは、もう出会うこともないかもしれない彼のことを。

 

 

 

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