19.夜の終わり
一方、コンラートは空の上にいた。 空の上、というのは語弊があるだろうか。正確に言えば塔の上だ。とはいっても尖っているわけではない。 足の裏のコンクリートを踏みしめながら、逃げも隠れも出来ない大聖堂の一番上で、男は堂々と目の前の光景を眺めていた。
「おかえり、ナイトメア」 「好きで帰ってきたわけじゃないけどね」
ナイトメアを追った先で見つけたのは予想通りの人物だったけれど、眉のひとつも動かさないでコンラートは交わされるやり取りを傍観する。ほとんど風のない夜である今夜も、高い場所であれば多少の風は吹いていて目前の2人の子供の対称的な髪がさまざまに揺れ動くさまを黙って見つめていた。 美しい金色をたなびかせながら片方の少年が口元に笑みを浮かべた。
「君から出向いてきてくれるとは思っていなかった。新しいお仲間はどうしたのかな」
愛らしい声を向けられた側である少年は瞬きもせずに相手を無表情に見返している。彼の髪色は相手とは違って、夜の闇に溶けてでもいるかのように周りとの境がない。
「生憎、無駄話をする気分じゃないんだ」
サラレギー。
と。 名前を呼ぶその声。 少し離れた位置にいるコンラートでさえぞくりと背中に悪寒が走る、そんな声色だった。それでも身動きはせずに黙って呼ばれた方の人物を伺うと、余裕に満ちた表情が少しだけ曇ったのが遠目にも分かった。
「お遊びには十分付き合っただろ。そろそろ引いてくれるとありがたいね」 「………」 「それとも本気で僕を捕まえられるとでも思ってるのかい」
うっすらと酷薄な笑みを浮かべる黒の少年の豹変ぶりにサラレギーは僅かに眉を潜めるが、すぐに彼もまた同じように薄い唇を少しだけ弓なりに反らせてへえ、と相槌を打った。
「さっきの彼。君にとってそんなに大事なひとだったのかな。いなくなった途端、随分と強気になるんだね」 「さあ。とりあえず今はそんなことより自分の心配をしたらどう」 「………?」 「彼が来てるよ」 「!」
ひそやかな声で伝えられた言葉は、よほどサラレギーの意表をついたのか、今までほとんど動揺の見られなかった造形物のように完璧な美貌がぐらりと崩れる。
「……そんな冗談を真に受けるとでも?」 「冗談だと思うなら自分の目で確かめて見れば良い」 「…………」 「君だって全く予想していなかった訳じゃないだろう?なんせ彼の配下を攻撃したんだから」
きゅっと相手が唇を噛むのを見て取って黒衣の怪盗は一歩、踏み出す。
「ヨザックに手を出したのは迂闊だったかもね。彼は結構、あの男のお気に入りだから」 「そんな些末事で彼は現れたりしない……」 「どうかな?自分のものに手を付けられるのを一番嫌うタイプだよ。そしてそうでないものにはてんで容赦がない」
すう、と村田の瞳がサラレギーの瞳を完全に捕らえた。少なくとも、と続けて紡がれた言葉はなめらかにその場を支配した。
「君より僕の方があの男のことをよほどよく知ってる」 「………」
サラレギーは完全に沈黙した。
見事だ、とコンラートは思う。 彼は場を支配する術を知っている。相手が何を厭い、何を恐れ、何をすれば崩れるのかを恐ろしいほどに熟知している。 そうしておそらく、これから起こることすら彼の予想の範疇なのだろうと思いながらも男は足を踏み出した。
「少しおいたが過ぎたようですね、サラレギー陛下」 「………ウェラー…」
ふぁさりとマントが広がる音と共にコンラートの体は今、はじめてその場所に浮かび上がる。サラレギーは盛大に眉を潜めてコンラートのファミリーネームを呼んだ。村田はと言うと、顔色を変えるどころか薄い笑みさえ浮かべて突如現れた男をチラリと一瞥した。
「なるほど?」
サラレギーの声が嘲りの色を帯びる。彼は美しく長い髪を華奢な指でさらりと流して、改めて自身の目の前に立つ、世紀の怪盗を眺め遣った。
「古巣に戻っていたなんて知らなかったな。孤高の怪盗の名が聞いて呆れる」
ハッと高らかに笑う相手を村田は相変わらず微笑したまま黙って見つめている。その様子にサラレギーは、下唇を僅かに噛んで身を翻した。
「いいさ。今日のところは引いてあげるよ」
靴音などひとつもさせないで彼は村田とコンラートに背を向けて歩き出した。大聖堂自体はそれなりに大きな建物だけれど、塔の上のスペースはそれほどでもない。すぐに端に行き着いたサラレギーはその先に足を一歩出す手前で一度だけ、後ろを振り向く。
「それでもわたしから逃げることは出来ないよ、ナイトメア」
振り向きざまに別れの挨拶にもならない言葉を述べてすぐに視線を戻して、後姿でさえも魅惑的な少年の身体はやがて闇の向こうに消えた。
***
場が静寂に包まれたのは一瞬だった。 ひらりと夜の空に消えていった金の残像を追うように、すぐに目の前の黒い影がものも言わずに動くのを見て取って考える前にコンラートの口は言葉を発していた。
「存外、あっさり引いてくれましたね」
あらわれた自身の声が普段と変わりなかったことを心底安堵したけれどおくびにも出さないでゆっくりと近づく。彼の前では僅かの動揺も見せてはいけないと理解していた。 足を止めて無言のまま振り返った真黒の瞳が一直線にコンラートを捉えた。久しぶりにじっくりと眺める、変わらずに美しい彼の黒を努めて冷静に見返しながら、背筋を流れる汗をやり過ごした。相手が自分の隙を探しているうちはまだ勝負ができる。
探しものが見つからなかったのか、やがて彼は、小さな吐息をひとつ吐きだして少しだけ相好を崩してみせた。
「サラレギーだって僕とあれを一挙に相手にするほど馬鹿じゃない」 「人のボスをあれ呼ばわりですか」 「………そのマント、アニシナ女史が?」
コンラートの苦言をいっそ潔いほどに無視して逆に村田は、相手が手に持っているマントと呼べなくもない布きれに目を向けた。
「そうですよ。よく出来ているでしょう?見た目は別として、ですが」 「見た目なんかどうでもいいよ。相変わらずすごいね彼女」 「我らきっての発明家ですから。それよりよく気づきましたね。アニシナがいたら泣いて悔しがりそうです」 「泣かないだろ、アニシナさんは」
早朝の市場で二束三文で売られていそうな、くすんだ黒色の布を見つめたまま呆れたように返す相手に、そうですね、とコンラートも頷いた。
途切れた会話の隙間を夜の闇が侵食していく。 言葉もないのに去ろうとはしない相手に、むしろ彼を引き止める術がないことをコンラートは思い知らされる。 次に彼の瞳が自分に向けられたそのとき、彼は去ってしまうのだろうとほとんど確信的に思う。そしてそれを自分では止められない。
しかし予想に反して、村田の目はなかなかコンラートに向けられなかった。見ていてもさして面白くないだろう男の手の中のものをじっと凝視したまま彼は動かない。
「………?」
いよいよその様子をいぶかしんだとき、彼の口が開いた。
「渋谷は?」 「……ああ、無事ですよ。今頃ヴォルフと一緒に逃げているでしょう」 「そう。………ヨザックは」
落とされたトーンに、彼が何に思いを馳せていたのかを悟ってコンラートはふっと口元を綻ばせた。
「無事です。貴方に合わせる顔がないようで、こちらには来ていませんが」 「そう」
コンラートの答えに満足したのか、彼は笑みさえ浮かべてようやく顔を上げた。
「猊、」 「正直に言うと、助かったよ。ありがとう」 「!」
呼ばれる名前を振り切ってじゃあ、と唐突に切り出された別れにコンラートの体は反射をみせた。彼が手を伸ばせば届く距離にいたのは幸いだった。
「なに」
捕まれた腕に、一瞬浮かんだ笑顔をものの見事に消し去った正面の人物にコンラートが言える言葉など本当はない。ヨザックのように3年前の真相を聞きだす気も、戻ってこいと言う気もなかった。彼が一度選択したことを覆したりしないだろうことを一番分かっているのは、おそらく自分だろうと男は思う。 彼が今よりもずっと近くにいた頃から自分と彼との共通点を他の誰よりも多く見つけ出していたコンラートだからこそ、頭では理解している事柄だった。
それなのに言葉はそんな事実を嘲笑うかのように漏れてしまう。
「貴方を失いたくない」 「君らしくない台詞だ、ウェラー卿」
そうしてそんな男を更に笑うかのように、目の前の美しい少年は確かに掴んだはずの男の腕をするりとかわして、コンラートが次の行動を取るよりもずっと早く。
ばさりと彼の黒衣を高らかに翻させて、跡形もなく。 別れの言葉さえなく。
忽然と姿を消した。 |