20.始まりの鐘の音は高らかに
「寂しくなりますね」
寮のだだっぴろいエントランスで少しだけ頬を緩ませて彼独特の微笑を浮かべるコンラートに、大きなトランクを手に持ちナップザックを背負った有利はそうだな、と笑い返した。
「気を付けて帰れよへなちょこ!」
その彼の隣ではヴォルフラムが強気な口調とは裏腹に目から零れ落ちそうな涙をなんとか押しとどめているといった必死な形相で有利を見つめている。
「ありがとなヴォルフ。2人はまだここに残るのか?」 「まだ仕事が残ってるからな」 「後始末をしたら、俺達も次の場所へと移動しますよ」 「そっか」
彼らが西欧では名うての盗賊団の一員だと有利が知ったのはついこの間のことだ。気のよさそうなハンサムな青年である兄と、口を開かなければ天使のような美少年である弟。そんな兄弟の本来の姿を今の有利は分かっているがそれでも、有利にとって彼らは異国で出来た唯一の友達であることに変わりなかった。
唯一の友達。 彼らをそうあらわすならば、彼は。
―――彼は、自分にとってどんな存在なのだろうと有利は思う。
長い夜だった。
たかだか十数年しか生きていないけれどそれでも、あんなに長い夜は後にも先にも訪れないのではないかと思うほど、その夜の終わりはみえなかった。それでも終わりというものは望むにしろ望まないにしろ必ず訪れるのだという事実もまた、有利はその夜に痛感した。 彼との出会いから始まって、彼との別れで幕を閉じた夜。それは有利にとって到底忘れることの出来ない一夜となった。
村田健。
胸のうちで名前を呟くだけで心臓が軋む思いがする。痛みなのか、それとも別の何かなのか分からないそれは彼を思い出すたびに有利の胸に去来してひどくやるせない。
そんな感情を知らなかった。 けれど、それが友人に抱く類のものでないことくらいは分かる。だから彼は、友達ではない、と。そう思う。
「ユーリ」
名を呼ばれてふと視線を上げれば日本人には絶対にいない、薄い色彩が綺麗な瞳が、何もかもを見透かすようにこちらを見つめていた。しかし彼は見返してくる有利の視線を緩慢に受け止めただけでそれ以上何も言いはしなかった。隣に並ぶヴォルフラムも口も挟もうとはしてこない。 彼らは2人とも、有利が彼に対しての情報を他者から聞きだす気がないことを既に知っていた。
「飛行機に乗り遅れてしまいますよ」 「あ、やべ!」 「まったく、お前には余裕というものが足りないぞ!」
ヴォルフラムには最後まで怒られてばかりだな、と思うとなぜだかおかしかった。
「うん、じゃあ行くよ。2人ともありがとな」
スーツケースの取っ手を伸ばして上部を掴む。今更ながら随分と軽装で来たものだなと自分自身に少し呆れた。だがおかげで飛行場の中を難なく駆け抜けられそうだ。
「手紙を書けよ!」 「案外古いんだなヴォルフ。メールするよ」 「元気で、ユーリ」 「そっちもな!」
エントランスの扉を開くと外の熱気が頬を撫でた。しかしすぐに室内の冷気と混ざってうやむやになってしまう。 寮の入り口から一歩踏み出して顔だけ振り返って有利は笑った。
「また会おう!」
***
出発ロビーは混雑していた。何やら遅れが出ているらしい。といっても珍しいことではないので乗客達は慌てもせずに雑誌を読んだりおしゃべりをしたり、真昼間から酒を飲んだりと好き勝手に過ごしている。 外国人はなぜビール片手に新聞を読む姿が様になるんだ、といささかの不条理を覚えながら有利少年はと言うと、オレンジジュース片手にスポーツ雑誌に目を通していた。
キシリと隣の席が沈んだのを気にとめたのは偶然だ。人で溢れているロビーの椅子はほぼ埋まっていると言っても良い状態で、だから有利のすぐ隣に誰かが腰かけてもなんら不思議はない。有利が人の気配になんとなく顔をあげたのはよって完全に偶然のはずだった。
だから目が合ったことに内心驚いた。 相手が明らかに意図を持って自分を見つめていることに有利はすぐに気がついてそうして同時に、胸の奥がひどくざわめくことに困惑する。
迫力のある男だった。 見事なブロンドとブルーの瞳がこの上なく様になっていて、モデルか俳優かと勘繰りたくなるほど男の美しさは大勢の外国人がいるその場所でもなお群を抜いていた。
「渋谷有利か?」
明らかに雰囲気に呑まれている有利を分かっているのか酷薄そうな笑みを楽しげに男は浮かべる。途端、すうっと体が冷えていくのが自分でも分かった。 驚きに目を見開いていた有利の瞳は既に正常に戻り、僅かに細められていさえした。日本人特有の黒いまなこがより一層深さを増したことを本人は気づいていない。
「…誰だ?」 「無礼なガキだな。初対面の相手にその態度か?」 「人のこと言えんのかよ」 「ふっ、まあいい」
肩まである金の髪を軽く振って男は立ち上がる。立つと体躯のバランスの良さが際立つ。上から見下ろされて有利の眉が少し寄るが、それさえ楽しんでいるような風情だ。
「アレが随分と気にしていたから見にきたが無駄足だったな」 「………」
誰を指しているのかすぐに理解した。睨み付けても相手が面白がるだけだと分かっているから有利は努めて冷静な表情を保ったまま奥歯だけを噛み締めた。
この男は、村田の行方を知っている。
そう思うと冷えた内側が一気に燃え上がりそうになるほど激しい感情が沸いてきそうになるが、有利はそれを必死に押さえた。余裕綽々というていの相手に対してそれはあまりにも無防備だ。一度ゆっくりと瞬きをして冷静さを取り戻す。この男が彼の居場所を知っているなら是が非でも聞き出したかった。
「村田は?」
静かさを装って問う有利に対してしかし男はガラリと相好を崩して、打って代わって不機嫌そうな声を出した。
「物好きなものだ」
質問には答えずにそれだけ言うと彼は夏に不釣合いな無駄に長い黒のマントを翻して颯爽と人ごみの中を歩き去った。恰幅の良い後姿は人の波の向こうへとすぐに消えた。
「……はあ?」
訳が分からないのは有利である。突然目の前に現れて、突然去っていた美貌の男。
「つか、結局誰だよ?!」 「眞王ってみんなには呼ばれてるね」 「!!!」
有利は硬直する。体の中で体温が急速に上がっていくのを感じ取れそうなほどに内側の熱が一気に上がる。騒がしいロビーの喧騒を一瞬のうちに消し去る涼やかな声色。
その声を聞き違えるはずがなかった。
先程の男のことなど頭の中から吹き飛んだ。ごくりと生唾を飲み下して有利は、ゆっくりと後ろを振り返る。
―――その先に。
「やあ、まった会っちゃったね…って渋谷?!」
うるせーばかやろー勝手に消えやがってちょっと黙って抱かれるくらい辛抱しろ!と声の限りに叫ぶことが、胸が詰まって出来なくて。
代わりに有利は慌てる村田を断固無視して、さまざまな好奇の視線も意に介さないで、強く強く、腕の中の存在を確認するかのようにひたすらに、華奢な彼の体を抱き締めた。
それが新たな旅の始まりであることを未だ2人とも知らぬままに。 |
END