18.彼方への距離は遠く
「むらっ…、ぐッ」
突如目の前から消え去った少年を呼ぼうとする有利の口を誰かの手が乱暴に押さえつけた。うぐぐ、と足掻くが、たかだか片手一本の枷を外すことが出来ずにしばらくじたばたしたあと、諦めたのかそれとも冷静になったのか、ゆるゆると有利は動くのを止めた。
「………」 「落ち着いたか、へなちょこ」
有利の体がおとなしくなったのを見計らってヴォルフラムが声をかける。同時に口を覆っていた手のひらが外されてそれが彼のものだったのだと有利は気づいた。意外に大きな手なんだなとぼんやりと思う。
「ユーリ」
決して大きくはないのに随分と存在感のある声に名を呼ばれて定まっていない目の焦点を合わせる。すると目の前に見慣れた美少年の怒ったような顔が現れて、有利は2、3度瞬きをした。ヴォルフラムだ。
「ヴォルフ…」 「まったく、なんて顔をしている。お前はへなちょこだが見目はそこそこ良いのだから、そんなアホ面をするんじゃない」
褒められているんだかけなされているんだか分からない言い草に曖昧に笑えば、相手の眉根がぎゅっと歪んで盛大に溜息をつかれた。
「村田、どこいっちゃったんだろ」 「なるべくここから離れた場所だろう」 「なんで?」
ポロリと口を突いて出た疑問を即答されてつい反射で答えた有利に、天使のような愛らしい顔を盛大に歪めてヴォルフラムは当然だと言うように人差し指を有利の鼻先に突き付けた。
「聞いてなかったのか?お前のことを頼むと言っていたじゃないか」 「………俺を助けるため?」 「現に、矢のひとつも飛んでこないだろう」
こっちのことは眼中にナシだ、と忌々しそうに吐き捨てるヴォルフラムに有利は奥歯を噛み締める気力もなく、そっか、と呟いた。
結局、自分は彼のお荷物だったのだろうかと有利は思う。 彼と再会したこの夜、思えば自分は守られてばかりだったことに今更ながら気づく。大聖堂の上でやけに綺麗な男に絡まれたときも、爆破を受けたときも、彼1人ならばもっと容易に逃げられたのではないだろうか。 自分がいたせいで窮地に追い込まれ、もしかしたら、もしかしたら今彼は……。
「げい…、ナイトメアなら心配ない」 「?」
有利の沈んでゆく思考を読み取ったかのように振ってきた声に顔を上げると、屋上で出会った美しい男にも引けをとらないような美貌が真っ直ぐにこちらを向いていた。
「この程度の状況、彼にとってはたいしたことじゃない。それにコンラートが後を追っている」 「あ」
言われてはじめて、村田が消えてからあの耳にするだけで人を安心させるような穏やかな声を聞いていないことに気がついた。そうしてハタと現在の状況の不自然さを有利は思い返す。
「ヴォルフ…」 「なんだ」 「………」
さっき聞こうとして遮られてしまったことをもう一度思い返すけれど、言葉にするには勇気がいった。彼と自分との関係だけでなく、今はいない彼の兄との関係、そして村田とのそれまでもが問い方によって大きく変わってしまう気がした。 何をどう尋ねるべきか迷う有利を目の前の美少年は静かに見つめて、そうして彼の方から逆に問いかけた。
「ナイトメアは何と言っていた」 「え?」 「自分のことを何か言っていたか」 「え、と…。泥棒だって」 「それだけか?」 「ああ、まあ」
なるほど、とヴォルフラムはひとり訳知り顔で頷いて、言葉を続ける。それは有利が頭の中で予想していたものとそう大きく違うものではなかった。
「僕もコンラートも、彼と同じようなことを生業としている」 「そっか…」 「ナイトメアとは面識がないわけじゃないが、僕も多くを知っているわけじゃない」
それでも俺の口から彼の事を聞きたいか、と問う言葉に有利はすぐさま首を振って否定した。他人から聞いたんじゃ意味がなかった。 そしてまた、有利の知っている彼の情報とヴォルフラムが知っていることが重なっている可能性だってあったけれど、それを確認するつもりもなかった。
欲しいのは情報そのものではない。 彼自身の言葉だ。
「さて、行くぞ」 「どこへ?」
有利の目に普段の光が戻ったのを見て取ったヴォルフラムはくいと相手の腕を引く。取られた腕をそのままに疑問を口にした彼を、呆れたように美しい少年は振り返った。
「だからお前は何を聞いていたんだ。折角ナイトメアが敵をひきつけてくれているんだから、今の内に逃げるぞ」
ほとんど軽蔑に近い眼差しを向けられて、有利はおとなしく頷くしかなかった。 |