16.奇襲、そして
突然の大音響とともに辺りは煙に包まれる。 一瞬の出来事だった。
そんな中、驚きに目を瞠る有利とは対称的に村田の行動は迅速だった。人ひとりの体を抱えているとは思えない速さで長椅子の間を縫うように走り抜ける。その足取りに迷いはない。
「むら…っ、けほっ」
有利は訳が分からなくて、自分を抱えて走る少年の名を呼ぶけれどたちまち煙が喉を侵食してきてむせてしまう。
「しゃべらないで。鼻と口を手で覆うんだ。それから目も閉じて。大丈夫、しばらくの辛抱だよ」 「……った」
分かった、と返事することすらままならない。言われるままに目も閉じるが、既に煙が染みて涙がじわりと浮かんでくる。けれどぎゅっと目頭に力を入れて有利は滴を零すことを自分に許さなかった。
―――情けない。
そう強く思う。 それでも自分に今できる事は、彼の言う通りにすることだけだと分かっているからくだらない自尊心も胸を重くする申し訳なさも全部まとめてしまいこんだ。ぐ、と奥歯を強く噛み締めて。
有利がひとり自分と戦っている間にも彼の体は的確に外へ外へと向かっていた。
しばらくの後、抱え上げられてからずっと感じていた揺れがおさまったかと思うと、上半身がぐるりと半回転して、足の裏に硬い感触が戻ってくる。そう思うのと同時に、肌に生温い空気を感じる。それが熱帯夜独特の湿気だということに気づくのに時間はかからなかった。
「……村田」
おそるおそる口を開いた有利にうん、とささやく声がある。
「目を開けていいよ。でもまだ動かないで」
厳しい声色ではなかった。むしろ、相手への気遣いとやさしさに溢れているといってもいいほどにやわらかい答え方だった。ただその中に潜む緊張感を感じ取った有利は、僅かに頷くことで返答を示し、そっと目を開く。
紛れもない夜。
先ほどいた場所もさして明るくはなかったけれど、今有利の周りに広がるのは濃い暗闇で、そういえば今日が新月だったことを彼に思い起こさせる。
闇は濃い。 さらに、体感する空気はねっとりとしていて、時折生温かい手でぞろりと撫ぜるようにまとわりつく風が立てるがさこそという音が恐ろしかった。
(どこだ、ここ)
色々な感情が一気に押し寄せてきそうになってぶんぶんと頭を振ると、トントン、と背中に置かれていた手が2、3度軽く弾んだ。それから上半身に感じていた温かな感触が離れる代わりに、目の前にひとりの少年が現れる。
(……村田だ)
不思議なことに、月の光はなくとも彼の姿はふたつの目にはっきりと映った。それは沸き起こりそうになった恐怖だとか混乱だとかを一瞬のうちに消し去って有利に冷静さを取り戻させた。そのまま村田から視線を外して注意深く周囲に目を凝らす。
「中庭?」 「ご名答」
尋ねると、彼は笑みを深くした。一瞬のうちに惹きこまれてしまいそうな笑い方だけれど、有利の心は少しも揺さぶられない。じゃあ…、と口の中で呟きながら頭の中でおぼろげにしか覚えていない校舎内の地図を思い浮かべる。
「さっきのは大聖堂か」
スクール内にある大聖堂の正面にだだっ広い中庭が広がっているのはこの場所に来て日が浅い有利でも知っている。なぜなら格式あるパブリックスクールであるこの学校の大聖堂は伝統的建造物としても幅広く知られており、長期休暇の間には一般公開もされているほどだからだ。 その中庭のまわりを鬱蒼と茂る林も、都会の、一私立高校が内包しているものとしては類を見ないほどの規模を誇るので、この場所自体がスクールの名所中の名所なのだった。
今、自分達が居る場所は室内ではなく、耳を澄まさなくともがさがさという自然の産物であろう音がひっきりなしに聞こえる。更に言えば真正面の建物らしきものから暗闇の中なお、立ち上る影のようなものが確認できる気がした。
なるほど、さっき自分が寝かされていたのは大聖堂の長椅子だったのだと有利は思った。となると、村田が祈りを捧げていたのは――。
「うん、そうだよ。罰当たりだよね」
有利の推測をいとも簡単に肯定して、やれやれと村田は表情を崩した。その顔の方が有利にとってはよほど心引かれるもので、思わず寸前までの思考が弾き飛ばされる。
「…さて」
そして再び引き寄せる前に、しかし村田は崩した顔をすぐに引き締めて立ち上がった。有利もつられて一緒に立ち上がる形になって、そうなると考え事どころではなくなってしまう。 更に村田の口をついて出た次の言葉は、有利の頭の中を真っ白にするのに十分な威力を持っていた。
「出てきなよ」 「?!」
その台詞にただ驚く有利のそばで風なのか吐息なのか判断がつかないほどかすかな微笑のこぼれる音がした。 |