13.天に召します我らが父よ

 

 

 

 

 

 目を覚ました有利が最初に見たものは、つい先ほどまでの怒涛の展開を一瞬、忘れてしまうほどに美しい光景だった。見る、とは言っても、落下の衝撃の余韻からか、薄ぼんやりとしていてそれはまるで夢の中の出来事のようだ。あるいは自分は夢を見ているのかもしれない、と彼は思う。

 

 居場所を確認できるほどには思考は回復していなかった。

 ただ、身体の後ろ側全体に感じる硬い感触でどこかに寝かされているのだと分かる程度だ。寝心地が良いとはお世辞にも言えないが、さほど気にはならない。特に理由もなく重い頭をふらりと横にずらした途端、その姿は茫然としている有利の視覚にさえやけにはっきりと入り込んできた。

 

(――――むらた?)

 

覚えず頭の中を過ぎった言葉で意識が少しだけ覚醒する。

 

(村田、だ)

 

認識はしたけれど言葉をかけるのはためらわれた。迂闊に声を出せない何かがそこにはあった。

 

 有利の視線の先で村田はただ、何かに向かってひざまずいているように見えた。両手を胸の前で組み、目を閉じている。その姿勢の意味は有利にも推し量れた。神を信じる者たちが彼等の絶対者に祈りをささげるそれだ。彼のかしずく方向には祭壇か何かがあるのかもしれない。

 なんとなく、自分の知る村田が神を崇拝すると言う図が意外な気が有利はしたけれど、人は見かけによらないものだと納得をする。

 

 それに、そんな邪推など無粋なほどにその光景は美しく、そして荘厳だった。

 

「!」

 

―――――のだけれど。

 

 彼の両の目が開いた瞬間、なぜだか有利はぞくりと背筋を冷たいものが走るのを感じた。

 両足の膝を地べたにつけ、両手を胸の前で組んだその敬虔な体勢のまま、彼の眼差しだけがその全てを裏切るかのように激しい色を宿している。

 それを何と表現すればいいのか有利には分からない。視線に込められた意味を解するほど脳の神経が正常を取り戻せていない。それでも、自身の本能が目の前の少年の静かな激情にひどく揺さぶられるのを感じずにはいられない。

 

「………か、ぎ…」

 

動揺の最中で有利がその言葉を口にしたのはおそらく、それが目を開ける前に心の大部分を占めていた思考だったからだろう。そしてこの発言は幸か不幸か、村田の意識を引くのに成功した。

 

「……渋谷、大丈夫?」

 

振り向いた彼は、落下する前と同じ彼。

 両手の戒めも足の拘束も解いて有利のもとへとやって来た村田は、先ほどの一瞬を幻か何かだと思わせてしまうほど穏やかな笑みを浮かべて有利を気遣う。

 

「まだ起きない方が良い」

「村田…」

「落下の衝撃で体に影響が出ているんだよ。もう少し寝たほうが良い。大丈夫、彼らはしばらくは現れない」

 

村田の言葉は有利の上辺を素通りする。彼らと言うのはおそらく、先ほど屋上で出会った美少年と彼の仲間を指すのだろうし、その内容から自分達は彼らから逃げていて、今居るこの場所を見つけるには時間がかかるのだろうことが分かった。

 けれど有利にとってそんなことは今問題にすべきことではないように思えた。有利の関心は別のところにあった。目の前の日本人然とした柔和な顔に浮かぶ、完璧な笑顔。

 

「鍵って、なんだ」

「……」

「お前、追われてるのか?」

 

それを崩したくてしょうがなかった。

 

「あいつ、誰なんだよ」

 

けれど言いながら意識の核が大きな波にさらわれてしまいそうになるのをも感じ取る。

 

「わたしの鍵ってあいつ言ってた」

 

ああくそ、こんなときに、と有利は抗う。今眠るわけにはいかない。相手から本音を聞きだすなら、今しかない、根拠なんかないけれどそう強く思う。

 

「どういう意味だよ?」

「……渋谷」

 

ふわり、と頭をやさしく包み込む感触に覆われた。髪の上を行き来する手がある。無論、村田のてのひらだ。

 

「ごま、かすな…」

 

睡魔と闘いながら唸ると、村田の顔が近づいてきた。髪を撫ぜる手はそのままに有利のまなこにごく近い位置で相手の唇が動く。

 

「知っても楽しくないと思うけど」

 

それは既に笑みの形にかたどられてはいなかった。

 

「知りたい。俺には知る権利なんかない?」

「………君って、大胆なんだか謙虚なんだか分からないね」

「茶化すなよ」

「茶化してない」

 

じゃあ、と催促する有利の唇が人差し指で塞がれる。彼は、横たわる有利の視線が届く範囲まで自分の双眸を下げてきた。今にも閉じそうになるまぶたの先に、それでも深い闇を宿す瞳があらわれる。そうしてくすりと彼は笑って唇に当てていた指を移動させると、有利の左右のまぶたを順番にそっと下ろした。

 

「むらっ」

「おやすみ渋谷」

 

まさしく、子供を寝かしつける親の声で彼は言う。

 

「ようくおやすみ。子守唄を聞かせてあげよう」

「………」

 

そうして有利の目蓋は完全にふさがれた。

 

 

 

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