12.招かれざる客
努力の賜物か、はたまた上昇よりは下降の方が衝撃が少ないのか。真実のほどはともかく、今度は有利が気を失うことはなかった。
「っげぇほっ、けほっ」
しかし、肺を圧迫するような感覚に必死に息を吸い込もうとしてむせてしまう。意識は保ったが、無事に着地、というわけにはいかなかったようだ。
「っく、――ふぅ―」
ひとしきりむせた後、なんとか大きく深呼吸をして息を整えた有利は足の下にあるコンクリートを踏みしめた。着地した場所が屋上なのだろうことは予想がついたけれどいくつかある校舎のどれかまでは把握出来ない。周りに何も見えないのでかなり高い建物ではあるようだ。月のない暗闇での自分の目の信憑性がいかほどかは分からないが。
「渋谷、大丈夫?」 「まあ、何とか…」
お世辞にも大丈夫と胸を張って言えるような状況ではなかったけれど、息ひとつ乱していない村田を前にしてしまっては虚勢も張ってしまうというものだ。有利は根性でともすれば笑いそうになる膝を押しとどめた。
「無理させてごめん。ちょっと状況が」
そんな有利に、申し訳なさそうに謝る村田の言葉が一寸途切れる。
「……思わしくない方向に向いてしまったみたいで」
言葉を続けながら彼の目はもう有利を捉えてはいなかった。少しだけ目を細めて有利の背後を見つめる村田の視線の先を探ろうとした矢先、その場に不釣合いなほど綺麗な声が響いた。
「驚いた」
言葉の通り、驚きをあらわにした高めの声色が有利の耳に飛び込んでくる。可愛らしい声質に妙に心がざわつくが、自分の後ろを見ている村田の瞳の色は決して、聞こえてきた声に有利が感じたような高揚を湛えてはいない。
「ナイトメアが新しい仲間を見つけたなんて知らなかったよ」 「!!」
再び声が聞こえてきたのとほとんど同時に有利は目の前の少年によってぐいと手首の辺りを引かれてそのまま彼の背後へと強引に移動させられる。 その村田の余裕のない行動にも、そして突然後ろから現れた声にも驚いた有利だったが、なにより彼の意識を引いたのは、その内容だった。
ナイトメア。
それはつい先日聞いたばかりの名称だ。
「…僕の方こそ驚いたな」
しかし彼の思惑を払うかのような凛とした声が文字通り目の前の相手から発せられて、すぐに意識を戻される。有利を庇うような形で前に立っている村田が、1歩前に出た。握られたままの手首が少しだけきつく締まって、有利は顔を上げる。
「まさか君が直々に出向いてくるなんて、ちょっと思わなかった」
そうしてその向こう側、村田の肩越しにいる声の主を眺め見て息を呑んだ。
「きっとあなたはここに来るだろうと思ったから」
言ってにっこりと微笑う美しい少年に有利の目は釘付けになる。
数メートル先に、暗がりにおいてなお、一目で美しいと認識できる美少年が長い髪を微弱な風の中でたなびかせながら立っている。周りが暗いため色までは分からないが、心なしか時折、きらきらと光が見えるような気がした。 夜の闇を背負ってたたずむその体はほっそりとしていて、体にぴったりとフィットした服が彼の華奢なラインをいっそう強調している。
ふふ、と少女のように笑って、見たこともないような美少年は彼もまた1歩前へ出た。その一連の動作は非の打ち所がないほど優雅だった。
「さっきはわたしの下僕が手荒な真似をして申し訳なかった。でも余計な蝿を追い払うには仕方がなくて。許して欲しい」 「……彼は無事なのか」 「わたしの目的は彼らじゃない」
相手の謝罪には答えを返さずに村田が逆に尋ねると、口角を上げたまま少年はにべもなく返事をする。けれど有利もいい加減気づいていた。目の先にいる可憐な少年の瞳は、彼の口元ほど笑っていないことに。
「一緒に来てもらえるだろうか。必要だと言うなら隣の彼だって歓迎するよ」
1歩1歩、着実に距離を詰めてくる相手に有利の背筋に嫌な汗が伝う。思わず拳を握り締めると、筋肉の動きが伝わったのか、やんわりと手首に力が込められた。まるで、大丈夫だよ、と彼が言ってくれているようだった。
「残念だけど、僕達は君に用がないんだ、サラレギー」 「そうだろうね、でも」
あっさりと申し出を断る村田に対して、サラレギーと呼ばれた少年は肩を竦めさえしないで悠然と言葉を返す。
「こちらは用があるんだよ。わたしのナイトメア。……いや」
彼は一度言葉を切って、本能的に警戒心を抱いた有利の心さえ揺るがせてしまえるほど妖艶な笑みをその端整な顔に浮かべた。
「わたしの鍵、かな」 「!」
瞬間、手首が痛いほどの力で握られて有利は驚く。反射的に持ち主である相手を見るけれど、見えるのは毛先の跳ねた後ろ髪と首もとくらいで村田の表情を伺うことは出来ない。
「……なるほどね」
一呼吸おいて、ほんのわずか低まった村田の声が有利の耳に届いた。彼はそれ以外は普段となんらかわりない様子で相槌を打ち、さりげなく有利の体をより彼自身に近いところに近づけながら、でも、と上辺には優しく諭すような声を出す。
「あいにく、君のものじゃないし、なる気もない」
ガコン!
「んがっ!」
瞬間、激しい音が足元から聞こえたと思ったときには有利は踏みしめる場所を失っていた。ぐんと下へと引っ張られる感覚に襲われて口から悲鳴とも叫びともつかない声が漏れ出る。思わず目の前にいる背中を後ろから抱きかかえるように抱きしめてしまっていた。とても、きつく。
バタン!
足場を失ってすぐあと、上の方から再び大きな音が聞こえた。途端に暗闇に慣れた目が真っ暗闇に覆われる。しかし有利の頭の中は現在の状況を把握できる状態ではなかった。
(また落下かよ!)
有利が辛うじて理解できたことと言えば、今、自分と村田の体が下へ下へと落ちていっているということだけだった。
一方。 ひとり屋上に残されたサラレギーの顔からは天使のような微笑はすでになく、一瞬の間に目の前から消え失せた少年の残像を追うかのように何もない空間を凝視している。
しかしすぐに、絹糸のような髪をさらりと細い指でかきあげて彼は音もなく前へと進む。やがて2人の人物が消えた場所をじっと見つめるがそこにはやはり何の痕跡もなかった。 ほとんど完璧な芸術品のようなサラレギーの大きな瞳がすっと細められた。
「下へ行く。探せ」
先程と変わりないボーイソプラノに近い声音で、完全な闇に見える周りの空間へ向かって簡潔に指示を出すと、あくまで暗闇にしか思われない彼のまわりにうごめく何かの気配がすっと遠ざかっていった。
「まあいいさ」
今度こそ、完全に彼独りきりになった空間でふふ、と零れるような吐息が風に乗る。
「夜は長いもの。ねえ、ナイトメア?」
やがて、屋上は再び静寂に包まれた。 |