10.再会
たとえ進んでいるのか後退しているのか分からないくらいの速さで歩んでいても、いくらかでも進んでいればやがて目的地には辿り着く。まさしく牛歩の歩みで動かしていた有利の足がとうとう止まった。
「……着いちゃったよ」
はあああ、と盛大にため息をついて目の前に広がるおどろおどろしい校舎を少年は見つめる。後ろには、嫌々ながら突破した荘厳と呼べるだろう大きな門がまるでもう逃がさないとでもいうかのように固くそびえ立っていた。 伝統ある建物、とその手の専門家から手放しで賞賛されこのスクールの価値を上げる魅力的な建造物も、今の有利にとってはいかにも「出そう」としか感じられない。
「あーくそ!!」
しかし、アニシナ女史より怖いものもまた存在しない。彼女の実験の餌食になるくらいなら幽霊に食われたほうがまだましだ!と結論を導き出した哀れ少年は、果敢にも不気味にたたずむ夜の学校へと一歩を踏み出した。
「お化けなんかQ太郎だー!!」
意味不明な叫び声を残してしまったことくらいは、見逃してやりたい。
***
恐れていたものとの遭遇はしかし、案外すぐにやって来た。
「あーかーねー」
決死の思いで敷地内に入ったはいいものの、舎内への侵入はさすがにそう旨くはいかない。有利的には「学校に忍び込むなら男子トイレ」といういかにも日本人的な発送を持って忍び込んだのだが、さすが英国屈指のエリート校、戸締りばっちりである。
「どっかひとつくらい開けとけよ〜!」
優秀な警備に文句を言っても窓はほんの1ミリも開いてはくれない。
「こーえぇーよー」
しかもガラス越しに見える男子トイレというのは迫力満点である。妙に間延びした声で恐怖を払拭しようという健気な試みもあまり功を奏してはいないようだ。ガタガタ、となるべく中を見ないように窓ガラスを揺するけれどこちらも効果なし、である。
「ああ、もう、勘弁…」
数度の試みが全て失敗に終わり、意気消沈してそれでも望みを捨てきれずに別の場所を目指しはじめた時だった。
「―――――」
有利の足が止まった。
(――――なんだ?!)
それは圧倒的な違和感だった。すうっと背中に悪寒が走って体が目に見えてびくつく。ただでさえ速くなっていた鼓動が一気に早鐘を打つ。
何かがいる。 自分以外の、何か―――。
こんな夜中のこんな場所で、自分以外に存在するものといったらアレしかない。有利はほとんど泣きそうな思いで周りをきょろきょろ見回すが。
(―――上ッ!!)
理解するよりも先に本能が動いた。バッと勢いよく顔を上向ける有利の瞳の先に現れたのは。
「?!」
ものすごい速さで落ちてくる黒い塊―――、いや。
「人間ーっ?!」
スタン
「………ッ!!」
ぐんぐん加速して落下して来た黒い物体は、正確には黒いマントを羽織った黒髪の少年だった。 彼は、地面に落ちる少し前でどうやってか速度を落とし、驚きに微動だに出来ない有利のちょうど真正面に軽やかにつま先から降り立った。 あのときと寸分の違いない、みごとな着地だった。
「………」 「やあ」
あまりの事態に大きな目をさらに見開く有利の前に現れた彼は、困ったようににこりと笑った。
「また会ったね」 「お、まえ………むら、た?」
信じられない思いで口を開いた有利の問いに相手は返答しなかったけれど、す、と細められた瞳が答えだった。しかし有利がそれ以上の質問を繰り出す前に彼は動いた。
「しつこいな」 「え?」 「挨拶をするひまもないみたいだ、つかまって!」 「っ?!」
気づけばぐいと腕を引かれゆうに2メートルは移動させられていた。そしてガガガガ、と今まで自分達がいた場所に何か鈍い音が走るのを有利は聞いた。
「な、なな…」 「黙って」 「んぐっ」
突然の、しかも異様な展開に有利の頭はヒートアップ寸前だ。さっきまで足をつけていた地面にキラリと光る鋭利な輝きに本能的恐怖を覚えて顎ががくがく震えて言葉にならない。 そんな有利を彼は乱暴な手つきで自分にひきつけて、容赦なくてのひらで口を塞いだ。後ろから羽交い絞めにされるような体勢に思わず目の玉だけを彼に向ければ相手もこちらをしかと見つめている。眼鏡の奥に以前見た黒が変わらず鎮座していた。あのときと違うのはその眼差しがひどく厳しい色をしていたことだ。
「目をつぶって。出来れば息も止めて」 「……」
訳が分からないままに有利は頭をこくこくと動かして目を閉じた。理屈でなく自身の身が危険に直面していることを肌で感じた。そして、それを突破するためには彼に従うのが最良の方法であることを無意識に分かっていた。
「OK」
腕の中の少年が固く瞳を閉じて息を詰めたのを確認して、彼はその唇に当てたほうの腕にもう片方の手をやった。
ドオオオォン
激しい音とともに自分の体がぐんと持ち上がるのを有利は感じる。 何が起こったのかはさっぱり分からない。目を開けたかったけれど我慢をした。 そして彼はすぐに我慢をする必要がなくなった。 上昇と共に加速するスピードに脳の機関が追いつかなかったからだ。薄れゆく意識の中目を開けようと躍起になる。今の状況に対する疑問や恐怖よりも、折角彼に会えたのに、という後悔に似た気持ちがそのときの有利を支配していた。前みたいに、一方的に目の前から消えられるのは嫌だと思った。
「―――――ッ」
声にならない声を上げる有利をしかし、彼の身体は裏切った。瞼は結局再び持ち上がることなく意識は闇の中へと閉ざされる。それでも扉が閉まる瞬間に彼の声を聞いた気がしたけれど、もはやそれを認識する力さえ残っていなかった。 |