手に入らないから欲しいのか。

 触れられないから抱きしめたいと願うのか。

 

 

 

 

 

game first

 

 

 

 

 

 ひらりと舞い落ちた黒の身体を抱きとめようとして当然のように避けられた。重みを失った反動で枝が揺れ、冷たい風雨に晒されて生命力を失った枯れ葉がいくつかひらひら宙を踊りながら降下していく。軽やかに土に着いた足先がトンと音を立てる。

 その場に待つように佇む青年に一瞥をくれようともしないで村田はそのまま歩き出した。

 見目に反して軽やかな動きを見せる眼鏡の少年に、すらりとした痩身を翻してウェラー卿コンラートはそのつれない華奢な腕を取る。 

 

「何か用」

 

しかし薄い唇から漏れる言葉もまたそっけないもので薄茶の瞳を細めて青年は苦笑した。無論、その間手を離すなんていう愚行を犯したりはしない。むしろぐいと多少強引に手を引いて、向けられていた背をくるりと翻させてコンラートは無理やり村田を長い自身の腕の中に収めた。

 

「用がなければ猊下のもとへ来てはいけませんか?」

 

ストレートに告げてうっすらと笑むと、ふらりと腕の中の金の髪に隠れていた端正な顔が向けられる。そこではじめて覗く孤高の漆黒にひやりと射抜かれてコンラートはぞくりとした。しかし決して悪寒ではない。

 

「出来れば用のあるときだけにして欲しいね」

 

腕の中の男の意のままに自身の身体が扱われるのが気に食わないのか、愛想の良い臣下とは逆に賢者はにこりともしない。その、身から剥がれない腕を無理に退かせようとはしないがもちろんコンラートの腕に全身を預けるということも彼はしなかった。

 

「相変わらず俺にはつれないですね」

「別に君だからというわけじゃない」

 

普段よりも低い声音ですら彼の発言が嘘だと伝えているが、コンラートはわざわざ指摘したりはしない。むしろ、村田がここまで愛想をかなぐり捨てて接するのは自分だけだという満足の方が強かった。

 

 故意なのか、それとも案外無意識になのか。前者の可能性の方が高いけれど、その全身から発される知性とは裏腹に存外迂闊なところがある――と彼を捉えているのは実際にはコンラートくらいなものだが――ひとなので、後者の可能性も大いにあった。

 それは完全無敵に思える双黒の大賢者における僅かな隙と言えるだろう。そしてそこを突くことが出来るのが、ウェラー卿コンラートという男なのだった。

 

 村田のコンラートに対する冷然とした態度が意識的か無意識的かなどということは、実のところ彼にとってたいした問題ではない。

 コンラートにしてみればそれが負の意味合いが強いとしても、村田にとって自分が特別であるという事実に変わりはない。あまりにも特異なその性ゆえに誰かの特別になろうとしないその魂が、他者と違う位置に自分を置いているということが重要だった。

 

 なにせ彼は彼にとって唯一無二の存在であるはずの当代魔王陛下ですら彼の領域の最後の部分を侵させようとはしないのだ。賢者は魔王を特別に扱うけれど、自身を彼の特別にすることを許さない。

 それをユーリがどれだけ歯痒く思っているか、無論彼は知らない。そしてコンラートはと言うと、それを知らせる気がない。

 

 コンラートがするべきことはまず、どんな形であれ彼の特別になることだと彼自身は思っている。

 その他大勢でなければ、村田の意識にコンラートは潜むことが出来る。彼の心に自分の居場所があれば、それを大きくすることも意味合いを変えることも不可能ではないと、怜悧な青年は考えていた。

 

「髪がその色ということは、街にいらっしゃるつもりですか?」

 

質問に答える以外に言葉を発しようとしない村田に、表面上で苦笑してみせてそれならばと問いを投げかけると。

 

「………」

 

痛いところをつかれて少年は口をつぐむ。が、コンラートは容赦をしない。

 

「しかも、お一人で?」

 

努めて声音を優しくするのが逆に彼を追い込むことも承知した上で穏やかに尋ねた。

 

「ちょっと、市街の様子を見てこようと思っただけだよ」

 

はあ、と吐く息を白く染めて観念したように村田は答える。よく見ると鼻も少し赤い。コンラートは村田への束縛を解いて、自身の上着を脱いだ。

 

「――いいよ」

 

村田が彼の意図に気づく頃には既に身体は温かいもので包まれていた。解かれた腕は再び拘束を余儀なくする。

 

「君に風邪でも引かれたら僕が困るんだけど」

「あなたに身体を崩されたら俺がもっと困ります」

「ウェラー卿」

 

たまりかねたように名を呼んで、村田は小さく吐息した。

 

「僕にかまってる暇があるなら、渋谷の様子を見といてよ」

「それはヴォルフがやってるので大丈夫です」

「名付け親がそんな無責任で良いのかな?」

「俺はヴォルフのことを買ってるんですよ。それとも」

 

言ってコンラートはひょいと腰をかがめて真正面を見ていた村田に視線を合わせた。

 

「迷惑ですか?」

 

何気ない口調の質問に村田は表情こそ変えなかったけれど、唐突な言葉に彼の内心が動揺しただろうことはコンラートの目には見えた。黒い瞳の奥底は、限りなく黒が広がっていて見ていると吸い込まれそうな気分になる。

 ああ、やはりユーリの黒とは違うな、と何とはなしにコンラートは思う。

 その瞳がパチパチと瞬かれた。

 そして一瞬の逡巡のような間の後に村田は口を開いた。

 

「君は油断がならないと思ってる」

 

ゆっくりと静かに答えた村田に今度はコンラートが瞬きをした。戯れのような問いかけに本音が返って来るとは思っていなかったのだ。

 

「君の渋谷への忠誠を疑っているわけではないよ」

 

村田の言葉は、先のシマロンにおいてコンラートが取った行動について責めているわけではないことを示唆していた。コンラートはそれを意外に思う。しかしあのことに関して村田の中ではそれなりの見解と決着が既についているらしかった。

 

「君は渋谷にとって必要な存在だ。彼を支えて欲しいと心から願っている」

「もちろんそのつもりです」

 

即答するコンラートに、村田はやっと笑みのような表情を彼に向けて頷く。

 

「うん。でも君が僕まで引き受ける必要はないし、僕もそんなことは望んでない。でも君は、正直必要以上に僕を構うよね?」

「そうですね」

 

(そしてそれをあなたは快く思っていない)

 

胸のうちだけでそう付け足す。無論村田が特別な存在をつくることを良しとしない以上、それは当然のことで、コンラートはその心情を分かった上で止めないのだが、それを口にしたりはしなかった。

 

「この際だから聞いておこうかな。君の目的は何?」

「目的、ときましたか」

「うん。君は笑顔で人の心を捕らえるのがうまいけど、僕はそういうやり方あまり好きじゃないんだ」

 

致し方ない、とでもいうようなため息をついて村田は続けた。

 

「君のことを迷惑だなんて思ってないよ。でも、油断がならない、という感じはする。だからいっそのことはっきり目的を言ってくれたほうがお互いのためじゃないかと思って」

「…………なるほど」

 

頷きながら実際、コンラートは納得していた。自分が執拗に近づくことが彼に不信感と苛立ちを与えていることをもちろん知っていた。むしろそう思わせるように動いてきた節さえある。

 一度眞魔国を裏切った自分が賢者に近づく意味を、聡明な少年は考えるだろうと思ったからだ。もちろん先のことに関してはどんな因果があったとしても自分を弁護する気はコンラートにはない。事実は事実なのだから。むしろその事実を利用して彼を嵌める策を弄している。

 

 でも。

 それが自分の思い違いだったことにコンラートは気づいた。

 

 目の前の高貴な少年はそういう意味で自分の編んだ糸に引っかかっていたわけではなかった。

 

 彼はただ、理由が欲しいのだ。

 賢者は、コンラートに臣下として、魔王ユーリに仕える者として絶対的な信頼を置いてた。つまり、自分に近づくコンラートが眞魔国を再び裏切る算段を立てていると解釈したから彼に対して冷たく接するのではなく、コンラートが自分を構う目的が分からないから戸惑っていたのである。

 いや、戸惑っているというより、目的や理由なく近づいてきているという場合のことを想定して、その事態を恐れるが故に不審を抱いているといった方がいいのかもしれない。

 

 双黒の大賢者は今も昔も、唯一無二の存在だ。

 自分の価値を分かっているからかそれともむしろ分かりかねているからか、少年賢者は自分に特別な存在をつくることを決してしない。ただ魔王のために自分が在るというそのスタンスを彼は頑なに貫いている。

 

 そうか、とコンラートは呆れるような心持ちで黒の双眸を見つめた。

 彼は殆ど無意識の部分でコンラートが自身に近づく理由を知っている。けれどそれが意識下に及ぶのを恐れている。それは彼にとって都合が良くないことだからだ。

 気づくことを拒否した彼の意識の上に真実はのぼらない。けれども無意識はそれに感づいているからそれを恐れるが故に、別の理由を求める。

 

(―――猊下、あなたってひとは)

 

意図せずコンラートのてのひらが偽りの金髪を撫ぜた。こんな風に黒を隠そうとするのも、もしかしたら全てはそこに起因するのかもしれないと彼は思った。

 

「ウェラー卿?」

 

普段とはどこか違う彼の態度に村田は不審とも戸惑いともつかぬ瞳をコンラートに向ける。

 その無垢とでも言えそうな風情に、不意に今までに無い激情がコンラートを駆け抜けた。

 

 強く抱き締めたい、と。

 

 しかしそれを持ち前の精神力で押さえつけてコンラートは、村田の頭に手を乗せたまま背筋を伸ばして、一度視線を外した。そして見せたことがない形に口角を上げて、見下ろせる位置までしか背丈のない小さな少年に向かって微笑んだ。

 

「猊下」

「うん」

「俺は確かに目的があって猊下に近づいています」

「……うん」

「ですが今お教えすることは出来ません。これはお願いですが」

 

なに、と殆ど無表情に見上げてくる村田の様子がコンラートにとっては今までとは全く違うもののように思えた。

 

「今は何も言わずに、側に侍ることを許していただきたい」

「………」

 

黙する村田を腕の中から今度こそ解放してその目の前にコンラートは膝を着く。

 そしてただ待った。

 

 風が空を切る音を何度か聞き流して、あと。

 ふうっと吐息が風に紛れて聞こえたかと思うと、すとんと村田が膝を着くコンラートの前にしゃがみこんだ。

 

「いいよ」

「ありがとうございます」

「でも僕も、追ってくるなら逃げるから」

 

堂々と逃亡宣言をする村田に一瞬コンラートは目を見開いて、しかしすぐに、そのあまりの言葉にふっと笑いをこぼした。

 

「――わかりました」

 

深く感謝に頭を下げるコンラートに村田はただ、うん、と答えてそのまますっくと立ち上がり身を翻した。さくりさくりと土を踏みしめる音を響かせながら一歩一歩離れていく。

 

 その後姿を顔を上げぬままにコンラートは見送った。

 今はまだこれでいい、と思った。

 

 跪く形のまま、遠くない過去に魂だけの彼に出会ったときのことをコンラートは思い出していた。

 

 『月となりますように』

 

 魔王の魂に対する者として戯れながらにそう告げられた魂の持ち主。

 それから生を受けた彼と出会うまでに、たかだか十数年しかたっていないのだ。

 コンラートははじめて、彼が未だ自分の生きてきた生の半分も歩んでいないただの少年であるという事実に気づいた。

 

 たった15年しか生きていないただの少年。

 けれど、伸ばしても手の届かない孤高の賢者。

 

 普段は余裕綽々を装い、誰からも一目置かれる彼の胸の内を、コンラートは垣間見ることが出来たような思いがしていた。

 

 

 

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