triangle 上

 

 

 

 

 

 ギィ、と静かに開けられた扉に村田は活字から目を離し、入り口に顔を向けた。なかば予想していた人物をしばし見つめると、人好きする笑顔を見せてウェラー卿コンラートはするりと部屋の中に入ってきた。それから相手の膝に乗った稀有の黒を目に認めて、更に深く微笑んだ。

 そのままゆっくりと自身に近づいてくる長身から視線を外して村田は読書に戻る。ページをめくる動きに、彼の膝の上の存在が少しばかり身じろいだ。

 

「猊下」

 

横に長いソファの端に腰掛ける村田と、その膝を借りてソファいっぱいに寝そべるユーリを確認して、コンラートは彼らの後ろ側にまわった。長い足をすっと折り曲げて膝を着き、村田の耳の後ろ辺りから声をかけると、ぴくりとほんの僅かだけれども彼の体が反応する。

 

「……何」

 

ぶっきらぼうな相手の返事にコンラートは口だけ、笑みを浮かべた。目前に広がるのは流れるような闇色の髪だけれど、村田のきゅっと眉根を寄せた表情が手に取るように彼には分かる。

 

「何を読んでらっしゃるのかと思いまして」

「向こうの読み物だよ。君が興味を持つようなものじゃないさ」

「おや、それは興味深いですね。俺は地球にいたころ、図書館という場所が大好きだったんですよ」

「はじめて聞いたよそんなこと」

「言ってませんから」

 

ふっと微笑うと、その吐息が伝わったのか、村田はあからさまにため息を吐いた。

 

「何しに来たの」

「陛下と猊下の姿がみえなかったので、こちらかなと」

「ご覧の通り渋谷は熟睡中だから、彼に用事なら少し待ってもらえるかな」

「もちろんです。それにしても」

 

僅かに間をおいてコンラートはひょいと顔だけをソファの後ろから覗かせる。線の細い体のラインの下に、健やかに寝息を立てている自身の主の寝顔があった。

 

「よく寝てますね、陛下は」

「そうだね」

 

ちらりと視線を少年王から、少年賢者へと移して、目を細めた。

 

「あなたの傍だと、こんなにも安心できるんですね」

「………」

 

一見、穏やかな笑顔でそんなことを言う王の護衛に村田はただ彼を見返した。確かに村田といるときのユーリは、普段のように気を張ることも無く、地球にいるときの一介の高校生として振舞うことが多い。

 それは彼らが地球で培ってきた友人関係によるものでもあるし、この国においても唯一対等とされている存在であるからでもある。

 

「陛下はあなたにはこんな風に甘えるんですね」

「そんなこと、君の方がよっぽど渋谷の信頼を勝ち取ってるよ」

 

コンラートの言葉に村田は呆れたように彼を見る。銀の粒を散りばめたような薄い茶色が村田の目に飛び込んでくる。長い間見つめてしまったら、引き込まれそうなトパーズ・アイだ。

 その瞳の持ち主は、自身の放った言葉に対する目の前の少年の反応に満足していた。咄嗟にこちらに向けられた闇よりも濃い黒に映るのは、紛れも無い自分の姿だ。紙上の文字でもなく、もう一対の双黒でもなく。

 

「あなたは?」

「え?」

 

口を動かしたことで村田の意識が一瞬揺らぐ。その隙をかつて獅子と呼ばれた男は逃さない。

 

「あなたは、誰かに甘えないのですか?」

「―――、何言って…」

 

反射的に身を引く村田のすべらかな頬を、そっと触る。跳ねた黒髪が指先に触れた。

 触られた本人は訝しげな表情で笑みを見せる男を見る。首をやや後ろ側にひねったままコンラートの細く長い指に捕らわれて、村田は身動きが取れなくなった。

 

「王と唯一対等の存在である、大賢者。あなたは王を支えるけれど、それでは誰があなたを支えるのですか?」

「……何が言いたいの?」

「いえ、ただ、あなたが無理をしてらっしゃるんじゃないかと思って」

 

コンラートは、婦人方に絶大な人気を誇るその優しげな笑みで賢者に告げる。

 

「ユーリは魔王であると共に、15歳の少年でもある。そして猊下、あなたも同じだ」

「………」

「俺は陛下に忠誠を誓っているけれど、あなたにだっていつでも胸でも手でもお貸ししますから。それを」

 

覚えておいてくださいね。

 

最後はほとんどささやくような声でそう言って、コンラートは小さな賢者に顔を近づけた。

 息を呑む村田をちらりと横目で見て、頬に添えた指を瞼に伸ばして親指で瞳の黒を隠し、そのまま。

 瞼の上に口付けた。

 

 しばし、あと。

 

 驚きに声も出ない村田を残して穏やかな物腰の青年は、静かに賢者の部屋を後にした。

 少年のもとに残ったのは、身動きもせず眠りに沈んでいる双黒の魔王と中途半端に開いている本と、――――どうにも筆舌にしがたい、驚きのような気恥ずかしさのような屈辱のような、混乱と。

 

「………………勘弁してよ」

 

大きなため息とともにこぼれた吐露だった。

 

 

 

 

 

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