triangle 下

 

 

 

 

 

 ソファの背もたれに頭を預けて文字通り天を仰いで(と言っても視線の先にあるのは高い天井なのだが)、先ほどのコンラートの理解しがたい行動に村田が困惑を極めていると、膝に乗せていた頭がごそごそと動いた。

 

「ふ、わあー」

「渋谷」

 

ほとんど身じろぎもせずに村田の膝の上で寝ていたユーリは同じ態勢のまま、うん、と伸びをする。凝り固まった筋肉をほぐすように動かすとコキコキと小気味の良い音がした。

 

「おはよー渋谷、よく寝てたね」

「あー、ホント久しぶりによく寝た。ギュンターのやつ、作法だなんだってはりきっちゃって全然手放してくんねーんだもん」

 

魔王の小言に村田はくすくすと笑う。誰よりも教育熱心な彼の魔王補佐は、しばしば度を越えてしまうきらいがある。それを村田もよく知っていたので得意の口八丁手八丁、で教育ママと化したギュンターからユーリを救い出したのは、他ならぬ村田なのだった。

 

「渋谷、野球にのめりこんでてこっちのことに随分と無頓着だったからね。自業自得だよ」

「う、大ケンジャー様、そんな痛いところを突かないでくだサイ…」

「まあだから僕も最初はフォンクライスト卿のやりたいようにやらせていたわけだ」

「だよなー、村田全然助けてくんねーんだもん!!しょーがないじゃん!俺には獅子の行方を見守る義務があんの!」

 

人の膝の上でじたばたし出す、普段よりもややこどもっぽい魔王陛下をしかし村田はスパンッと一刀両断する。

 

「どっちかというと、この国の行く末を見守る義務の方があるんじゃない?」

「…………すみません」

 

キラリと黒い瞳を光らせて見下ろしてくる村田の言葉は至極もっともでユーリは返す言葉もなく詫びを入れた。すると相手はぶっと、耐え切れないというように噴き出した。

 

「ははっ、分かったからそんな捨てられた子犬みたいな目で見ないでよ。何だかフォンビーレフェルト卿が君の事をへなちょこ呼ばわりする気持ちが分かるなー」

「ひでっ!」

「まあまあ、結局は助けてあげたんだから感謝してよ」

「もちろん感謝しておりますよ〜」

「はいはい」

 

誠意のかけらも感じられない口調で返すユーリを村田も適当にあしらいつつ、再び本を手に取った。二人のこんなやりとりはいつものことなのでお互い言葉遊びをしているようなものだ。

 

 すぐに書物の世界に没頭しそうになる頭上の少年をユーリは先ほどまでとは全く違う面持ちで一瞬見つめた。

 

「さーて」

「ん?」

 

ユーリの声にほとんど文字の羅列に奪われていた村田の意識はやや戻される。といっても、視線は変わらず紙の上だ。

 

「そろそろ魔王業に戻るか〜」

「お、やけにやる気じゃないか」

「まあ、大ケンジャー様にいっぱい充電してもらったからさ」

「そりゃよかった」

 

言葉を的確に返しつつも相変わらず手に持った本から顔を外さない村田の、膝の横に置かれた方の手をユーリはギュッと握った。

 

「渋谷?」

「俺ほんとにさ、感謝してるよ」

「うん?」

 

軽口を叩いていた今までとは少し違う様子の友人にさすがに村田は手にしていた本を脇に置く。

 

「村田、ありがとな」

 

にっこりと笑って握る手に力を込める相手に村田は小首を傾げる。

 

「どうしたのさ?急に…」

「さーあ」

 

よっ、と掛け声を上げて、村田の問いに答えぬままユーリは彼の膝からぐいと頭を離し、弾みをつけてソファから立ち上がった。

 

「じゃあまた、バッテリー切れたらよろしくなっ!」

 

そしてそのまま、急な展開に訝しげな表情を浮かべたままの村田の方を振り返らずに後ろ手に手を振ってその場を後にした。

 

 あっという間に去っていった当代魔王を釈然としないまま見送って、けれどまあいいか、と村田は再び厚い紙をぺらりとめくった。

 

 

 

***

 

 

 

 唐突な自分の態度に不審げな態度を露にする村田を残して、ユーリは賢者用に設えられた、彼のものとほとんど変わらない豪華な部屋を出た。扉をしっかりと閉めて一息ついて、しかし彼が予想していた通りその横にたたずむ人影を目に捉えて再び気を引き締める。

 さっき、村田の手を握り締めたのは、実のところ反射に近かった。コンラートの予想以上の行動が彼の心を逸らせた。即座に激情を抑えた自分を本来ならば褒めてやりたいところだが。

 

 にこり、と人の良い笑みを浮かべる目の前の従者を前にそんなこともいっていられない。

 

「よ、コンラッド。何してんの?」

「俺は陛下の護衛ですから。陛下のいらっしゃるところにはどこへでも向かいますよ」

 

恭しく敬礼なんてしてみせるコンラートにユーリも、ギュンター辺りが見たら卒倒しそうな笑顔で答える。

 

「名前で呼べって名付け親。俺の行くところって言うか、俺がいつも村田の傍にいるからだろ?」

「やっぱり起きていらっしゃったんですね」

「よく言うよ。起こしたのはお前だろ?」

 

断定口調でユーリが問うと、コンラートは無言で目を細める。つまり、それが答えだ。

 目を閉じたままの自分の頭上で交わされた会話を、ユーリはもちろんひとことだって聞き逃していない。彼が村田に何を言ったのか、そしてその目的が何なのか、問わずとも容易に推し量れる。

 ユーリは、村田の前では決して浮かべないような形に口角を上げた。

 

「挑発には乗らねえよ、コンラッド。俺が村田に甘えるのは、それが村田のためでもあるからだ。大賢者でない村田を知っていて、村田自身を必要としている存在を、あいつは無意識に求めてる」

「それはそうでしょうね。猊下は眞魔国の民が求めているのは、賢者としての彼だと頑なに思っておいでのようだから」

 

彼の口調には本当はそうではないのに、といういささかさの苛立ちと寂しさがこもっていた。

 

「だからあんたは俺に勝てないよ」

「そうでしょうか?」

 

きっぱりと突きつける魔王の刃を、しかし百戦錬磨の騎士はさらりとかわす。穏やかな薄茶の瞳を少しだけ冷ややかに光らせてコンラートは告げる。

 

「あなたは、魔王だ」

「………」

「確かにあなたは猊下のご友人であり、唯一猊下と対等な存在であるという位置にいる。しかし、猊下に一番『賢者』である彼を意識させる存在なのもまた、あなただ、ユーリ」

 

効果的に名前を呼んで、従順な魔王の従者であるはずの男は己の主を追い詰める。実際、コンラートの言葉は的確にユーリの弱点をついた。

 魔王という事実が、諸刃の剣であることに、無論ユーリ自身気づいていた。

 

「だから、何とか五分なんじゃないかと俺は思ってますよ」

 

ふわりと優しいと形容すらできる笑顔を見せる自らの護衛を一瞥して、ユーリは先ほどまでの剣呑な雰囲気を自身から取り払う。

 

「ほんっと、厄介な相手だよあんたって」

「それは違うよ、ユーリ」

「?」

「一番厄介なのは、猊下のお心だと思いますよ」

「………言えてる」

 

コンラートの言葉にユーリは天を仰ぐ。もちろん、その先には高く広く繊細な装飾がなされた天井しかない。その高みに向けてぐん、と先ほど村田の膝の上でした伸びをもう一度力いっぱいしてみる。

 

「あーくそ、俺なんか村田より背ェ低いしぃー!」

「背は関係ないと思いますよ」

「顔だって平凡だしー!」

「それはないでしょう」

「村田はこっちのおかしな美意識持ってねんだよ!このモテ男め!あーでもぜってー、負けねーからな、コンラッド!」

「俺もですよ、ユーリ」

 

人気がないのをいいことに、当代魔王と彼の護衛は、一見、ライバルとは思えないほどの仲の良さで賢者の部屋を離れていく。

 すでに本の国の住人と化している当人である少年は、彼らの胸のうちなど知る由もなく、彼の心がどの方向を向いているかなどということはもちろん、誰も知らないのだった。

 それはまた、流れる漆黒と深い黒を併せ持つ、賢者の魂を受け継ぐ彼自身をも、含めて。