月夜に浮かぶ罪の星 2
本当は殴って欲しかったんだ。
優しい君はきっとそんなことしないだろうなと分かってはいたけど、それでも少し期待していたんだ。 君に、君たちに僕がしてしまうだろうことを思うと慄きを覚えずにはいられなくて、許しを乞いたいなんて浅ましいことを考えてしまう。そんな自分に反吐が出る。
殴って欲しかった。 君が僕を本当の意味で糾弾する前に一発、容赦のない拳を振り上げてこの恐ろしさを少しでも霧散させて欲しかった。
でもやっぱり君はそうしてくれなかったね。 僕の浅はかな望みをなによりも残酷な手法を持って君は。 なによりも残酷な、優しさを持って君は――。
***
その日の血盟城に充満するのは、先の大戦でも感じられなかったほどの緊張で、兵士も女中も、上に立つものも下で働くものも、一様に困惑と不安を隠せずにいた。
皆が詳しいことを知らされているわけではなかった。それでも人々はただ事ではない様子を感じ取っていた。
「眞王廟にかかるあの暗雲…、大丈夫かしら」 「なんだかお城全体がぴりぴりしていて…怖いわね」 「大丈夫だって!」
中庭の端で、ひそひそと話す2人の少女の背後から力強い声がかかる。
「陛下!!」 「げ、猊下も!!」
突然現れた眞魔国ツートップにメイド姿の彼女たちは驚きの声をあげてすぐにハッと頭を下げた。
「す、すみません、陛下の治世を疑っているわけでは…!!」 「大丈夫、君達の忠誠は陛下も分かっているよ。それに、今眞魔国が直面している事態もね」 「村田、そういう言い方すんなよな。でも本当、大丈夫だからさ。確かに今はちょっと穏やかじゃない感じがするかもしれないけど、心配しないでよ」 「は、はい…」
2人の貴人の笑顔に、少女達の顔にほっと安堵の色が戻る。有利と村田はそれを確認して、じゃあ、と再び中庭に沿って伸びている回廊を歩き出す。
「いつも花の手入れとか、ありがとうー!」
ひらひらと手を振って、そんなことを言ってくれる自分達の王に彼女達は今度こそ本当の笑顔を見せて頭を下げた。
「陛下、やっぱり素敵ね。見目麗しいだけじゃなく、お優しくて男らしくていらっしゃって…」 「猊下も…。本当にお似合いよね、あの御ふたり」 「かの眞王陛下と双黒の大賢者様も、あんな感じだったんでしょうね」 「そうね」
先程の不安な様子はどこへやら、顔を上げてうっとりとそんなことを話す彼女達の視線の先には、一際目立つ黒衣の背中がふたつ、肩を並べて遠ざかっていっていた。
女中のもとを去ってしばらく無言で歩いていた2人だったが、とうとう有利が口を開いた。
「……とはいえ、そう楽観できる状態でもないよな」 「そうだね」 「もう一度聞くけど、お前本当に残らなくていいのか?」
隣を歩く村田に視線だけを向けながら有利が尋ねる。村田もまた彼をちらりと見て口元に笑みを浮かべた。
「僕が行かなければきっと、君達は彼のもとへ辿り着けないよ」 「それはそうかもしんないけどさ。――お前、辛いんじゃないのか」
一瞬、止まりそうになった足を村田は胸のうちだけで叱咤する。そんな片割れの様子に気づかないまま有利は、もう一度、はっきりと繰り返した。
「眞王と、戦うの。辛いんじゃないのか」 「過去にこだわっているばかりじゃ前に進めないよ。モルギフだって、今の君の味方だ」
違うかい?と笑う自分を、我ながら上出来だと村田は思う。自分とモルギフとは違うことを分かっているくせによくもそんなことが言えるものだと、唾を吐きかけてやりたいほどの嫌悪を感じながら。 しかし有利は納得したようにひとつ頷いて、今度は顔ごと村田の方を向いて、笑った。
「そっか。ありがとな、村田」
村田はただ、口の端が上がった状態の表情をそのままに頷き返すことしか出来なかった。
***
むせ返る瘴気に頭が割れそうだ。 思いながら村田は自分がその一部に過ぎないことを理解していて、目の前の男の圧倒的な力をまざまざとその身に感じ取る。
目の端に映る光景ではグリエが果敢にも眞王に剣を向け、弾き飛ばされていた。ふらふらになりながらも光を失わない瞳で偉大な男を威嚇するその姿が村田の目に眩しく映る。 しかし圧倒的なその力の前に彼だけでなくグウェンダルの魔術までもが弾き返される。
「………」
強い。やはり彼は、どうしたって強かった。 村田は一歩、前に出た。このままではここにいる全員、グリエのように眞王の魔術の餌食となるだろう。復活を遂げて力を持て余している彼の、玩具のように扱われてしまう。 たとえ現魔王である有利の力を持ってしても、創主と己の力をその身に宿す今の彼には到底及ばない。その強靭な刃が少年を貫くだろうことはあまりにも想像に容易かった。
勝手はさせない、と。 眞王の暴挙に対して強い信念を放つ光をもってそう言い放った若き、眞魔国の王。
―――それだけは。
村田は更に一歩、歩を進めた。
「相変わらず子供みたいなことをするんだね」
故意に呆れたような困ったような調子で言ってみせて、眞王の視線を引くことに成功した。嬉しそうに返答してくる相手に村田はもはや誰に対して謝ればいいのかも分からなくなる。 謝るだなんて、おこがましいにも程があることを分かっていたけれど。
眞王と会話を続けながら、今の行為が免罪になどならないことを村田は十分に承知していた。ここで彼らを助けたところで自分が有利に為すことを思えば何の罪滅ぼしにもならない。
殴って良いんだよ。 そう言った自分に有利は結局手を上げなかった。
ありがとな。 自分の口先だけの言葉を信じて彼はお礼さえ言ってくれた。
―――ああ。
もはや村田には自分の中のどこが痛みに悲鳴を上げているのかすら分からなかった。
なぜ君は魔王で、僕は双黒の大賢者なのだろう。 なぜ世界はたったひとつの太陽しかその存在を許さなかったのか。
そうして僕は。
それでもやはり、彼の思いのままなのか。
「ごめん、渋谷」
身のうちを焦がす数々の問いの答えを知らぬままに村田は、王に向けて最も大切であるはずの少年の背中を押した。 |