細すぎる手首

 

 うすい胸板に指を這わせただけでぴくりと反応する。紅の点を突けば容易く漏れた声が部屋の中にか細く響く。それを嫌がって、自分の体の下にいる相手はいつだって口を塞ごうとする。

 

 時に自身の手のひらで。時に阿部の肩に押し付けて。

 そして今のように阿部の部屋で事に及ぶときには、彼は決まって布団の一部に噛みついてあふれ出る声を隠そうとするのだ。

 

 広くはない家の中、部屋から漏れる声を恐れているのかと思っていたが、そうではないようだった。家の中に彼と自分以外は居ない、2人きりの時でも栄口のその行動は変わらなかった。

 

 阿部からもたらされる快楽をそのまま外部に吐きだすことを栄口は良しとしない。

 

 阿部にしてみればそれは意味のないことに思えた。隠したところで正直な体は直ぐに高まって感極まって、結局欲を吐きだすのだから。栄口の場合、余計な羞恥心が彼の熱を余計に煽っている節すらあった。

 

(……でも)

 

思いながら阿部は、胸の上でただ転がしていた親指をきゅうっと押し付ける。

 ぴくん、と震える体と共に栄口は布団を噛む力を強めた。彼の喉の奥で、抑えきれなかった愉悦がわずかな音を立てるのが阿部の耳に入り込んでくる。こちらを見てくる栄口の瞳は恥ずかしさからなのか快感からなのか、目に見えるほどに潤んでいて、知らず、上がる口の端を阿部自身気づかなかった。

 

(そーいうカオは嫌いじゃねェ)

 

 他者の指に熱を煽られて。

 高揚する自分の体に困惑して。

 泣きそうな顔で歯を食いしばる栄口の姿は阿部の中に潜む雄の性を際限なく刺激した。

 

「栄口」

 

高まりを隠しようもなくなった互いの体を認めた阿部は、ことさら優しげに相手の名前を呼んで顔を近づける。そうなってしまえば栄口は決まって戒めを解いて、口付けに応えてくるのを知っていた。

 見上げてくる栄口の唇がうっすらと開く。阿部は笑みを浮かべた。互いの顔の間に浮いた薄い布団を無造作に放って。

 

 噛み付いてやった。

 

「、ふ…」

「ん……」

 

ちゅ、ちゅ、と2人で立てる音ならば許容出来るらしい栄口の顔を両手で包み込んで阿部は執拗に唇を啄ばむ。不意にひやりとした感覚が手首に触れた。栄口の指だとすぐに気づいて、密着する体を巡る熱とは裏腹のその冷たさに妙に胸が疼いて仕方なくなる。

 

 冷えた指先の拘束はあくまでゆるい。

 

 思うにそれは、彼の中の瀬戸際なのだろうと阿部は解釈する。まるで抵抗の意味を為さない拘束も、布団を噛み締める行為も。

 同級生の男に抱かれて、いいように貪られてそれでも感じずにいられない自分を、許すためのきっと、ギリギリの。

 

 面倒くさい性格だと正直思う。

 恥も常識も理性も、全部かなぐり捨てて縋ってしまった方が彼は楽だし、阿部だってその方がやりやすい。今更否定しようもないくらい何度も肌を重ねているのだからいい加減諦めてしまえばいいのにと思わないわけではない。

 

 けれど阿部は栄口が決して今の自分を彼が完全に是とすることはないだろうと分かっていた。

 そうしてその面倒くさい性格も案外嫌いではなくて。

 

「ぁ、……べ…」

 

助けを求めるように名前を呼ばれて濡れた唇をこじ開ける。彼の求めるものを理解しているから舌を伸ばして応えてやる。ゆっくりと口の中を舐めまわすと栄口の眉根が少しだけ寄った。何度やっても一向に慣れようとしない稚拙な口付けだって嫌いじゃない。

 

 栄口が、彼の中のあらゆる否定を押しのけて唇を開いてくる瞬間を、結局、阿部は、自分が思っている以上に気に入っているのだった。

 

 

 キスの合間に乱暴に栄口の下半身を覆うものを剥ぎ取ると、ぶるりと震えはしても抗ってはこなかった。気を良くして手早く自分のベルトにも手をかける。性急に高まった熱を吐き出したくてしょうがなくて、足に絡んでくるジーンズさえもどかしく思った。

 

 ギシリ、とベッドのスプリングが今更ながら音を立てる。シングルベッドに男2人がうごめいていれば抗議されるのも無理もないことだが、そんなものに耳を貸している余裕なんてあるはずもなく。シーツの上に放られていた、先程まで栄口が端を噛んでいた布きれを阿部は邪魔だといわんばかりに片手でベッドの下へ落とした。夏にはまだ早い季節なのにベッドの上だけやたらと暑く感じる。先に上着を脱いでおけばよかったと思うがもう遅い。

 もっとも、シーツの上で裸体を晒している栄口にしてみれば抗議のひとつもしてやりたいところだろう。無論そんなことに思いを巡らす隙間すら与えてやる気は阿部としては毛頭ないのだけれど。

 

「いけるか?」

 

額に申し訳程度にのっている栄口の、汗で湿った短い髪をか掻きあげながら阿部は聞いた。

 

(…まァ、無理っつってもいくけど)

 

などと非情なことを思いながら顔を伺うと栄口は目をきつく閉じたまま何度か顎を上下させた。我慢が効かないときの表情だ。満足したように阿部は目を細めて一度、自分のものと栄口のものを戯れ程度に掠めてみせた。

 

「……ッ!!」

「っ」

 

声にならない声を上げたのは栄口だけではなくて、昂ぶった己も既に限界なのだと阿部は薄く笑うがその笑みに常に浮かぶような余裕はない。互いのぬめった表面が触れ合うだけの刺激のはずなのに言いようもない痺れが先端から全身へと抜けて喉が引き攣る。

 

「っぁ」

 

衝動のままぐいと両太腿の裏を押して秘部をあらわにする。栄口が堪らず両腕で顔を覆うのが目の端に映った。それでも構わずに滑るように手を尻にまで移動させて自身をそこにあてがう。栄口のすべらかに湿った肌が細かに戦慄くけれど、気遣うことはもう無理だった。

 

「……っふ、…、っぁッ」

「っ、力、抜けよ…」

「んっ」

 

何度暴いても栄口の中はきつくて硬い。それでもほとんど間断なく阿部を受け入れているそこに入り込むのはもはや容易い。

 阿部は栄口の両脇に手を移して前後に律動を開始する。滑るように彼の中を行き交うごとにぞくぞくと背を駆け上がる感覚が阿部の眉根を寄せさせた。

 

 栄口と繋がることは、本当に、何もかもを忘れてしまいそうになるほど気持ちがいい。

 

 引き攣るように喉を鳴らす栄口の喉仏が切なげに動くのが見えた。その上の顔も見たくて、律動をそのままに顔の前でクロスされた腕を掴んだ。そのまま左右に開いて顔の両脇に置いて手首を握りこむ。驚いたように目を瞠る栄口。阿部は容易く両手に収まった彼の手首をぎゅっと強く握って敷布に押し付けた。

 

「っあ、…あ、」

 

握った手首が痛いのか、それとも掻き回される秘所が耐え難いのか。こちらを見てくる栄口の眉間の皺と目の端に溜まった水分からはどちらと判別することは出来ない。

 

「あっ、べ…ッ!」

 

何を思って栄口が自分の名を呼ぶのかも、阿部には分からない。はじめて交わったあの日以来、阿部は栄口を幾度となく組み敷いてきたけれど本当は今でも信じられないでいた。

 

 栄口がなぜ、今のこの状況に甘んじているのか。阿部の理不尽な要求をなぜあのとき彼は跳ね除けなかったのか。

 分からない。阿部に分かるのは、普段優等生然とした栄口が自分の腕の中ではこんなにも艶かしくなるということくらいだ。おそらく女とでさえ事に及んだことのないはずの自分の下にある細い体が、これほどまでに。

 

 そして自分は、もはやこの熱を手放せないだろうということ。

 

「あべッ、オレ…ッ、」

「っく、ゥ…」

 

 何もかもを全部忘れさせてくれる、麻薬のようなこの体を。

 

 栄口の訴えに阿部はひとつ頷いて衝動的に彼の両脇に手を滑りこませてそのまま、薄い体を掻き抱いた。栄口の解放された両手はしばらく空を彷徨って、そして阿部の背中に行き着く。

 

「だめ、あ、あ、……ッ」

 

ぎゅうっとTシャツ越しに爪を立てられる。痛いよりも求めてくる力に背中が震えて、抑制が効かなくなった。一気に加速する律動に栄口の腕がきつく阿部を抱き締め返す。

 

「ぁ…………ッッ!!」

「…………ッ」

 

か細い悲鳴が上がったのと阿部が息を吐き出したのはほとんど同時で、一瞬して栄口の腕からすとんと力が抜けてするりと両手がベッドに落ちた。

 

 

 互いの荒い呼吸が静まり返った部屋の中にやけに大きく響く。阿部は首を回して窓の方に向けた。沈みきったのだろう太陽の名残が窓越しに見えて、部屋の中の薄明るさを今更ながら認識する。明るさだとか音だとか、自分たち以外のあらゆる一切のものの存在をものの見事に忘れ去っていたことに気づいて呆れとも自嘲ともつかぬ笑みがわずかにこぼれた。

 

 そろそろシュンが帰ってくるかもしれない。阿部は緩慢な動作で体を起こして未だ肺を上下させている相手を見つめる。

 

「……な、に」

 

それに気づいた栄口が下からうつろな目で見上げてくる。掠れた声が妙にあだめいて耳に響いてどきりとした。

 

「……お前、体力つけろよ」

「っ」

 

それを振り切るように思い浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまえば、栄口は一度目を大きく見開いてそして心底嫌そうに眉を寄せた。

 

「サイッテー」

「あぁ?」

「ちょっと寝るから、30分経ったら起こして」

「てめェ」

 

もそもそと手のひらを動かして栄口はベッドの端に少しだけ残っていた落とされた布団のはじっこを掴んで引き上げた。そのままそれに包まって横を向く。

 

 やがて聞こえてくる規則正しい寝息。

 

「寝付きよすぎだろ、お前」

 

呟いたところで返ってくる声はもちろんなくて、阿部はバツが悪そうに布団にくるまった栄口の背中をぼんやりと見つめた。

 ふと、短い髪に手をのせる。柔らかい髪の湿った感触はつい先程までの彼らの間の現実を思い起こさせるには十分で、阿部は起こさないようにくしゃりと彼の髪の毛を指に挟んだ。

 

 自分に背を向けて眠る栄口の、形の良い顎のライン。

 自身を包み込むように毛布に包まる肢体。

 いつの間にか手に馴染んでしまった汗ばんだ髪の毛の感触。

 

「………」

 

胸に去来する言いようもない何かを持て余して阿部は、手を離すことも出来ずにただ、昏々と眠る栄口を見つめていた。