笑顔にすら僕は

 

 ぶるり、と体が震えて栄口は目を覚ました。身じろごうとして軋む体に既視感を覚えて、ああ、そうかと納得する。身に覚えのある感覚だ。同時に自分を包み込む温かな何かを肌に感じてゆっくりと目を開けた。

 

 目の前一面に広がる肌色は、憶測する必要もないほど目に慣れてしまっている。

 薄い毛布に包まる栄口を包み込む形で裸体を晒す阿部の胸板が視界を遮って何も見えないけれど、部屋の薄暗さだけは分かった。どのくらい寝ていたのだろう。

 

 夏が近づいているとはいえ陽が落ちると途端に冷え込むのに、阿部があまりにも無防備に肌を晒していて栄口は苦笑してしまった。自分の体に回された相手の腕をゆるりと解いて体を起こし、くるまれていた毛布をバサリと宙に広げる。

 

「!」

 

阿部の方に毛布をかけて自分はベッドの上から退散しようとした栄口だったが、人肌で温まった毛布のぬくさが心地よかったのか、身じろいだ阿部が擦りよってきてしまって、動くのが一瞬遅れた。

 

「…………」

 

起きているわけではない。分かっているから、普段の顔とまるで違う寝顔に途惑う。阿部の剛毛が脇の辺りをつついてくすぐったいのに押しのけることだって出来やしない。

 

 はあ、とため息ひとつで栄口は服を着ることを諦めた。

 しかし風邪を引くわけにはいかないので毛布を自分の方にも引き寄せて自ら阿部の側に体を寄せる。

 

(人肌って、ぬくいなァ…)

 

冷えていたはずの阿部の体は思っていたよりもあたたかかった。

 

 そっと自分に寄り沿ってくる阿部の頭を撫でる。

 阿部が起きているときにはまずしない。第一、意識のある阿部がこんな風に誰かに縋るところなんて見たこともない。

 

 阿部にはじめて触られたのは、春先のシャワー室だった。

 あのときは何がなんだか分からなくて、怖くて、それなのに信じられないくらい気持ちが良くて、おかしくなってしまうんじゃないかと怯えた。

 行為も恐ろしかったけれど阿部が何を思って自分にあんなことをしたのかがまるで分からなかったから。

 

 今でも本当は分からない。

 引く手あまたとまでは言わないけれど阿部はそれなりにモテそうな容姿をしている。実際、阿部に告白する女子の気が知れないと水谷が嘆いているのをなぐさめたこともある。

 

 でも阿部は女ではなく女のように栄口を組み敷くのだ。

 

 面倒がないから、という理由ではおそらくないだろう。

 面倒が嫌なら野球バカの阿部が同じ野球部員である自分を選ぶとは到底思えない。

 

(それに…)

 

幼子のように自分の体に寄りそう男を栄口はそっと眺めた。

 

 最初のときの口付けの瞬間を思い出す度に栄口の中で言葉には出来ない何かがこらえようもなく湧き上がってきてしまう。

 

 阿部の目。阿部の口。阿部の声。

 

 そこにどんな理由があったとしても、あの時阿部は本気で自分を求めていたのだと栄口は思う。

 

(そしてオレはそれを拒まなかった)

 

1度目は完全に不意打ちだったからだ。あまりにも混乱していて、情けないけれど流された。だって、あんな見たこともない目で見つめられてあまやかに囁かれて自分はどうすればよかったというのだろう。

 

 阿部なのに。

 目の前にいるのがふわふわした女の子ではないどころか、あの阿部だと分かっていてでも流れに身を任せてしまうほどにもたらされる衝動は抗いがたかった。

 

 でも、2度目は違う。

 

――――栄口』

 

耳に残る阿部の声は思い出すだけで栄口の体を熱くする。今でも呼ばれる毎にからだの奥の何かがゾクリと呼び覚まされる気がする。

 

 その、欲情した声に煽られた。

 

 言い訳なんてしたってもう、無意味だって分かってる。

 

「…何でオレなの」

 

今更言い訳はしないけれどでも、愚痴のひとつくらいはこぼさずにいられない。

 

 何でオレだったんだよ、阿部。

 

 毒気のない顔で寝入る阿部の頬をつねってやっても起きる気配すらなくて栄口は盛大なため息をつく。

 

 何でそんな無防備になってんの。

 あんないっつもツンツンしてるくせに子供みたいに寝てんなよ。

 

 ……心許されてるのかもって、期待しちゃう俺はどうすればいいの。

 

 分かっているのに。

 

 お前が求めてるのがオレじゃないってことくらい、分かってるのに。

 

「ぅ…」

 

横の阿部が呑気にもぞりと動いて毛布を剥ぐので栄口は仕方なく掛けなおしてやる。暑いのだろうか、嫌そうに眉間を寄せるが離れようとはしない。今一番あついのは毛布じゃなくて自分だろうと栄口は思うが、敢えて体を離すようなことはしなかった。疲れているのだろうから、出来れば自然に起きるまで寝かせておいてやりたい。

 

 皺の寄る眉間をそっと指先で撫ぜてやると徐々に徐々に力が抜けていって、また子供みたいな寝顔に戻る。うっすらと笑みのようなものさえ浮かぶ口元に苦笑を禁じえなかった。

 

「なんの夢見てんだよ、阿部」

 

他人の頭の中を覗くことは出来ないけれど栄口の脳裏には鮮やかに浮かび上がるひとつの像が在った。

 

 傍らに眠る男と同じ黒い髪は彼とは違ってストレートで当人の性根の強さをあらわしているかのようだ。

 恵まれた体躯。引き締まった筋肉。自己管理の徹底が伺える完璧なボディ。

 

 そしてなにより、それらの十分魅力的な要素さえ一瞬のうちに消し去ってしまうのではないかというほど印象的な眼差し。

 

 真っ直ぐ自信に溢れ、前しかみていない、刺すような。

 

(…あの目の前にずっと晒されてきたんだ、阿部は)

 

 ――――タカヤ!

 

 1度でも姿を目にすれば、ひとはきっと彼を忘れないだろう。阿部のシニア時代の先輩だという榛名元希は事実、栄口の中に鮮烈な印象を残したままだ。

 その笑顔に魅せられたのは彼が自らを頼んでいるからこそ。

 

 あの眼差しを思い描くたびに心が震えるのは、その視線を受けていた阿部に知らず同調してしまうからなのだろうか。

 

 羨望であり、恐怖であり。

 

 そして、憧憬だ。

 限りなく恋情に近い、憧憬だ。

 

(だとしたら、人選ミスもいいとこだ

 

栄口は胸の内で嘲笑わずにいられない。

 

 それとも、だからこそなのか。

 

 ……そうなのか?阿部?

 

 口にしない問いに返事が返ってくるわけはなくて、もちろん期待しているわけでもない。むしろ、返されたら困る。もうしばらく起きないでいてと栄口は願う。

 自らの脇でつかの間の休息をむさぼる相手を見つめる自分がどんな顔をしているのかなんて想像もしたくなかった。