熱に浮かされて
なんだってこんなことに。
ぼうっとしてきた頭の隅で栄口は考える。 ぞくぞくとかけのぼる何が何だか分からない感覚に震える体を力の入りきらない足で必死に支えて、漏れる荒い息と共にこぼれそうになる自分の声を両手で塞いで押し留めることに専念しながら。
「あ…ッ、あぁん」
けれどそれでは聞こえてくるものを防ぐことが出来なくて、栄口は堪らずうつむいた。耳を塞いでしまいたいけれどあいにく両手はふさがっている。
「盛ってんな」
ぼそりと、ひそやかな声が耳に直接入り込んでくる。多分に嘲笑を含んで吹き込まれたものは栄口をたまらない気持ちにさせた。言っていることとやっていることが大きく矛盾している。睨むように相手を見ると、黒の濃い目がじぃっとこちらに注がれていた。
その間にもコンクリートの壁をいくつか隔てた先からあられもない女の声が途切れることなく聞こえてきて、その扇情的な音と自分自身を襲う生の感覚にわけが分からなくなって。
「……ッ」
他者の眼差しに晒されたままぶるり、と一際おののいてがくりとくずおれそうになる。
その、栄口の体を密着させたまま抱きとめた阿部は、口の端を薄く上げた。
***
阿部と栄口が部室近くのプールに備え付けられているシャワー室に向かったのは、夏に向けて、部活後にシャワーを使用するための設備諸々の確認をするためだった。 今年から硬式に昇格した西浦高校野球部の部室にシャワーなんていうシャレたものは設置されていない。しかし夏は彼らの都合などお構いなしにやって来る。
学校から徒歩1分もかからないほど近くに家がある田島は別として、野球部員のほとんどは自転車で20分以上かかる場所に住んでいる。夏の厳しい日差しに晒されたグラウンドで土まみれ汗まみれになった体のまま帰るには、いささか遠すぎる距離だ。
まだ水が張られていないプールを横目にシャワー室の方へと向かった2人は壁で区切られて横並びに並んでいるシャワーのひとつひとつを点検して回っていた。いくつかあるシャワーは公立にしては設備の良いことにそれぞれ個室になっている。 開けて、チェックして、出て、その隣にまた入って確認して、を何度か繰り返した時、シャワー室の入り口付近で物音がした。
「えー、ここォ?」
同時に聞こえてきたのは舌足らずな高い声。一番奥にある最後の個室に入ろうとしていた阿部とそのすぐ隣のシャワーを点検し終えていた栄口は、動きを止めて顔を見合わせる。
「シャワーなんて使えるのぉ?プール水入ってないじゃん」 「大丈夫だって。シャワーは年中使えンじゃねーの」
続いて聞こえてきたのは男の声だ。会話の慣れた感じからしてどうやら上級生らしい。 プール開き前のシャワー室に何の用だ、と思ったのは栄口だけだったようで、入り口に足を向けようとする一瞬前、隣から伸びてきた手がいきなり栄口の腕を強く引いた。
「っ!!」
唐突な行動に驚いたけれど声を出さなかったのは、栄口も心のどこかで彼らの目的を感じ取っていたからかも知れなかった。
自分を抱き締める、見た目よりも随分と逞しい腕を目の端に捉えて栄口は、つい先程自身の身に起きた信じ難い出来事を思い返す。まさしくこの腕が自分をシャワー室の一番端に当たるこの個室に引きこみ、そして今、栄口は阿部の手管によって今にも陥落しようとしていた。
個室はもちろん1人用で、阿部も栄口も大柄な方ではないとはいえ、仮にも男である。男子高校生2人が入ってしまうとその中はひどく窮屈で否応にも体が密着した。事実、阿部に正面から抱き締められる形になって混乱する栄口の耳元に口を寄せてほんの先刻阿部は静かに言った。
『今出ていくのはマズイだろ』
何がまずいのか阿部は口に出さなかったけれど、栄口もその意図を読み取るくらいには世間ずれしていなかった。
件の男女はよもや水すら入っていないプール用に備え付けられているシャワー室に自分達以外に人がいるとは思ってもいないのだろう、軽い調子で言葉を交わしながら連れ立って何個目かの個室に入ったようだった。しばらくそのまま会話を続けていた彼らの声が、ふと、消える。自分達がいることを気取られないように、気配を消すことに必死だった栄口はその変化に気づくことが出来なかった。
ガチャリ、と施錠がされる音がしんとした室内に響いた後、すぐに2人分の熱い吐息が広くはない部屋の中に充満する。個室の中だけに留めておくにはあまりにも荒い呼吸の合間に喉から搾り出したような喘ぎが混ざるのに時間はかからなかった。
栄口はただでさえ混乱していた。 一際高い女の声が聞こえてきたときには慌てて耳を塞いで同時に目までも閉じてしまう。それが結局、自分の首を締めたことに当の彼が気づくはずもなかった。
つう、と栄口の腹に冷たい何かが這った。 違和感に閉じていた目を開ける。 そこに待っていたのは、彼の理解の範疇を軽く飛び越えてしまう事態だった。
『あ、』
べ、とみなまで名を呼ぶことは出来なかった。すうっと伸びた阿部の手が栄口の胸元を弾いて、押し出されそうになった声を喉元で押しとどめるのに声帯が使われてしまったからだ。 栄口は信じられない思いで自分の体をまさぐりはじめたその手の持ち主である相手の顔を凝視する。阿部はとうに栄口を見ていて、いつになく近くにあるその黒い瞳からけれど何ひとつ窺い知ることは出来ない。
何を思って相手の手が自分の肌の上にあるのか、まるで分からなかった。驚嘆に支配されている栄口は抵抗するということにすら考えが及ばずにただ真正面にある阿部の顔を目を大きく見開いて見つめていた。
『な、に…』 『聞こえるぞ』 『!』
阿部の的確な一言は栄口の意識に現状の認識を余儀なくさせる。 途端、既に手が離れていた耳に女の感極まった声が立て続けに聞こえてきて、思わず固まった。
『あ、あん、アッ…い…いよォ…ッ』
広くはないシャワー室の中、あからさまに響き渡る嬌声に体中の熱が反応する。すぐに汗ばむほどに体が熱くなったのを感じ取って恥ずかしさに耐えられずに栄口はうつむいた。 それが合図だったかのように阿部は、ただでさえ密着していた体を相手に近づけて、上半身を戯れに撫でていた手のひらを今度は明らかな意思を持って下へと移動させた。
***
体が熱い。 今まで自分が知らなかった感覚が体中に蔓延して栄口の思考はショート寸前だった。あれほど耳に響いてきていた見知らぬ男女の交わす吐息も、睦言も、聞くに堪えない甘い声ももはや栄口の耳にはほとんど届かない。
目の前にいる阿部がもたらすぞっとするほどの気持ちよさだけが栄口が今感じ取ることのできる全てで、彼と自分の体以外認識なんて出来なくて、わずかばかり残った意識が声だけを殺させる。
「っあ……ァん」
それでも時折零れてしまう、自分のものだなんて信じられない甘い音はとてもか細くてきっと自分たちの行為に夢中な彼らには聞こえるはずもないのだけれど、音が漏れる度に羞恥心が煽られてなお刺激を強く感じ取ってしまう栄口の体は阿部の手の中で彼の思うままに高まっていく。
すでにシャツの前ボタンは全部はだけていて、下ろされたズボンの内側にあった下半身に若いけれど野球をしている者特有の固くて大きな手が触れる。栄口の、幼さの残る下肢の中心を緩く、そして激しく、撫でてゆくからもはやその快感を享受する以外に出来ることは彼にはなかった。
「スゲ…、濡れてる」 「……やぁッ」 「気持ちいーの?」
聞くまでもないくせにわざわざ口に出す阿部は本当に性格が悪いと栄口は切れ切れの思考の端で思う。けれどその阿部の声はなんでだか掠れていて、そして栄口の両手のひらが遮っていなければほとんど口がくっついてしまうだろうほどに近くにある彼の唇から言葉が落ちるたびに熱い吐息が手の甲に触れて。
だから栄口は何も言うことができない。
なんでこんなこと。
思うけれど全てが快感にさらわれてしまう。
触んないで。
なんてもう口に出せない。
自分のものを触ったことすら数えるほどしかない栄口に、他者の手のひらからもたらされる刺激はひどく強くて、その上巧みに緩急をつけて翻弄する阿部の手管はただただ快感を引き出すのだ。
(きもっ…ち、いい……ッ…)
声に出来ない言葉を頭の中で吐きだしてしまったら脳の中が快感一色になる。必死に手で口を押さえてあふれそうになる悦楽を栄口は飲みくだすけれど、それにも限度があった。
(も、抑え、られ、な…)
引き攣る喉が限界を訴える。ひゅっと変な風に喉が鳴った。
「栄口」
呼ばれてうっすらと目を開ける。いつの間にか閉じていたらしい。阿部は一旦栄口を梳く手を止めて、抱きとめていた方の手をゆっくりと外した。阿部の手が離れると栄口の背中にコンクリートのひやりとした固い質感が伝わってくる。
きつく口を塞いでいた両の手をやんわりと外されて栄口は不思議そうに阿部を見た。驚いたことに阿部は今までみたどの瞬間よりも優しげな目をしてこちらを見ていた。
「………」 「あいつら行ったぜ。声、我慢しなくていいから」
そう言われて耳を澄ます。確かに声どころか物音ひとつ聞こえない。
栄口は阿部を見た。阿部もまた栄口をじっと見ていた。阿部の黒目が勝った目が一心に自分に注がれていて、今更ながら栄口は顔に熱が集まるの感じる。 ほんの少し考えるように瞬きをした阿部が、す、とこちらに近づいて来る。どんどん大きくなる阿部の顔。目、眉、鼻、唇。それら全てを瞬きもせずに栄口は見ていた。
「―――――」
触れた唇は熱いというよりは生温くて、そして少しかさついていた。
ちゅくちゅくと音を立てて阿部が、自分のそれ、を咥える音を栄口は羞恥心と戦いながら聞いていた。自分の両足の間に座りこんでいる阿部を直視することは出来ない。けれど耳を塞ぐなと彼が言うから、消えてしまいたいくらい恥ずかしくても手は彼の癖の強い髪を握り締めて、強く握ることに使った。 髪を引っ張ってしまったら痛いだろうからなるべく力を入れないようにしたいのにぬるりと絡む阿部の舌の破壊力は凄まじくて、正直加減なんてほとんど出来ていないだろう。
「……はッ、アッ、ぁんッ」
我慢しなくて良いと言われた声は箍が外れたようにとめどなく吐きだされる。その声を遮る術も同時に栄口は失くすことになってしまって、あとはもう快感に全てを任せるしかなかった。
「あンっ、あ、あ、…あ、べェッ」 「イきそう?」 「ん、んっ、もっ…」 「いーよ、イけよ」 「でっ、も!」
いいからイけ、と栄口を口に含んだまま言った阿部は、咥えたまま両手で根元を挟んで口と手で激しく前後に揺さぶりをかけてくる。
「………!!」
途端に勢いを増した阿部の律動にほとんど最上まで昇り詰めていた栄口が我慢するなんていうのは到底無理な話で。声にならない声を上げてびくびくと痙攣した栄口は、生温かさに包まれたまま全てを解き放った。
阿部。 なんで?
なんでこんなことを?
最後まで栄口の頭の隅から離れなかった大きな疑問も、その圧倒的な渦の前に為すすべなく消え去って。 |