君と僕の12ヶ月 9

 

 西浦高校の第一回中間考査が終わると同時に季節は梅雨に突入した。自転車置き場に閑古鳥が鳴き、校舎全体が雨の匂いに包まれる。廊下も室内も湿度が格段に上昇して蒸し暑い。

 外での練習が出来なくなることの多いこの時期は、雨の振り込まないあらゆる場所を探して練習の許可を取らなければならない。

 阿部は、特別教室等が入っている校舎の廊下と階段の使用許可を得るべく、職員室に向かっていた。こういった雑務は副主将である阿部と栄口が担っている。今週は阿部の番だった。

 

「失礼しました」

 

無事仕事を終えて職員室を出たところで阿部の足が思わず止まる。教室に帰ろうと進行方向に一歩踏み出したその先、廊下の向こう側に狙い済ましたかのようにあらわれた人物に一瞬のうちに視線を奪われたのだ。

 職員室はフロアの端にあり、今しがた曲がってきたのだろう彼との距離は随分あった。加えて休み時間の職員室は人の出入りが多く、従って前の廊下は多くの生徒が行き交う。

 しかし、そんなことなどお構いなしに惹きつけられた意識に当の阿部が一番驚いていた。

 

「………」

 

移動教室の途中なのか、隣の泉と顔と顔を向かい合わせながらこちらに向かってくる栄口はもちろん阿部には気づかない。彼の目に今映っているのは強気なベイビーフェイスが印象的な西浦野球部の頼れるセンターだ。

 

 そのことにじり、と苛立つ。

 胸の奥でチリチリと嫌な音がする。

 

 その理由を阿部は既に理解していた。正確に言えば、させられた。

 

 言われたときには正直、耳を疑った花井の衝撃的な言葉。

 疑ったけれど、何言ってんだコイツ、と一笑に付すことは出来なくてそんな自分に何より衝撃を受けた。

 

 あの日から幾度苛々を募らせたか数えればキリがなく。

 何人もの生徒がひしめき合うこんな場所でも容易く相手を見つけてしまうという、この現実。

 

 だからそういうことなのだと。

 認めたのはごく最近で、たっぷり数週間阿部は足掻いた。

 それでも日々募る感情は癪なことに阿部の理性を組み伏せてしまったのだから、観念するしかなかった。

 

 ふと、阿部の眉間の皺が解かれる。

 視線を感じたのかたまたまなのか、進行方向に顔を向けたらしい栄口の目がかっちりと阿部の目とかち合う。あ、という表情を浮かべて栄口はすぐに阿部、と口を動かして笑顔を浮かべた。

 すぐ隣の泉にはその声が聞こえたのか、彼もまたこちらに顔を向けてくる。

 阿部は、2人分の視線を受け止めて今気づいた、というような素振りで軽く手をあげた。

 

「もしかして使用許可取りに来た?」

 

すぐに駆けてきた栄口は、週交代でやっていることなのでピンと来たのだろう、阿部の用件を言い当てる。おう、と頷いて答えを示しているうちに追いついた泉も、やりとりで大体のあらましを把握したのか、

 

「今週ってどこだっけ?」

 

雨天時の練習場所を聞いてきたので特別棟、と短く答えた。

 

「そっちは?」

「次移動なんだよ。理科実験」

「ああ、多分スライム作らされるぞ」

「まじで?!」

「オレらも先週やった」

 

ホウ砂と洗濯のりと水をスプーンでこねくりまわした先週の自分を思い出しながら阿部は職員室前に置かれている用途不明の長机に手をついてよりかかった。あの時はクラス全体が大盛り上がりでみな異様にテンションが上がっていた。

 

「クソレはでけェの作ろうとして失敗してたけどな」

「水谷…」

「アホだな、あいつ」

 

阿部の発言に対する2人の反応は両極端だ。この2人は1年の頃から仲が良いけれど、性格はまるで違う。とは言え、栄口のようなタイプがそもそも珍しいのであって、泉はどちらかというと阿部寄りだ。未だに水谷を甘やかしてやる2年なんて彼くらいなのだから、水谷はとても栄口に懐いている。

 しかし、そんな栄口でさえ阿部の水谷へのクソレ呼ばわりには最早突っ込まない。年季が入り過ぎてそれが阿部なりの親しみであるのだろうと、彼だけでなく水谷以外の全員が納得している節があった。

 

「でもそれ聞いてちょっと楽しみになってきた」

「そーだな」

 

にししと笑い合う泉と栄口に、一度は収まった疼きが再びじりじりと迫ってくるがしかし、それさえも払拭してしまうほどの衝撃が直後、阿部を襲った。

 

「勇人さん!」

「?!」

 

不意打ちで文字通り耳に飛び込んできた名前に阿部は目を剥くほどに驚愕して、次の瞬間、声の方向をバッと振り返った。驚いたのは阿部だけではなく、栄口も泉も、耳慣れない、けれど心当たりはある呼び名を発するその源へと顔を向ける。

 阿部の後方、渡り廊下の出入り口からこちらへと駆けてくる2人組に、ああ、と一番に納得顔をしたのは泉だ。

 

「ハイハイなるほどね」

 

途端にまなじりが下がり、口元がだらける。ちらりと隣の栄口を見遣る泉の悪戯な視線に気づいた当人も既にからくりに思い当たったようで、走ってきた後輩たちを困ったような笑顔で出迎えた。

 

「職員室前を全速力で走らない!」

「すみません!」

 

キュ、と急ストップして、葛西と小松は先輩3人に礼儀正しく頭を下げてきた。

 

「ちす」

「ち、ちっす!」

 

小松の声が上擦っているのはすぐ側に阿部がいるからだ。小松にとって阿部は、部の先輩である上にポジションを同じくする、畏敬の念を抱かずにはいられない存在なのである。とは言え畏の部分は、プレイというよりは阿部の普段の態度に起因する度合いが多いけれど。

 その阿部が機嫌が良いとはとても言えない表情で自分たちを見ていることに内心冷や汗の小松と、一切その雰囲気を感じ取っていないらしい葛西は実に対称的で分かりやすい。しかし、今この場にその好対照を感じ取れる余裕のある者はひとりしかいなかった。

 

「ちーす。もしかしてもう結果出たのかよ」

「出たっす…」

 

そのひとりであるところの泉の問いかけに小松はこくこくと首を上下させた。

 

「早いなァ、1年。オレらまだだよね?」

「まだだな」

「………?」

 

目の前で進んでいく話に阿部の眉根が再び寄るが、それは苛々というよりは何の話をしているんだという疑問符の要素が強かった。阿部の様子にいちはやく気づいたのは栄口で、先ほど浮かべた複雑な微笑のままに実は一番の当事者である男に向き直る。

 

「え、と。小松と葛西がさ、中間の結果を賭けてて」

「へェ」

 

歯切れの悪い口調が気になるが、内容自体はたいしたことはなかった。おそらく小松が言い出したのだろうと思いながら阿部は続きを促すように頷くけれど、そこまで言っておきながら栄口は口を噤んでしまう。

 

「…で?」

 

まさか話がここで終わりということはないだろうと水を向けるが、栄口はヘラりと笑い、隣の泉はにやにやしている。ついでに言えば葛西はいつもどおりの涼しい顔で、小松は。…こちらを妙にちらちら見てくるのが気になった。

 

「?」

「結果は聞くまでもねー感じだけどな」

 

頭の中の疑問符が消えないまま、泉の声に意識が引きずられる。その言葉にあらわれたときからいつもの無駄な勢いの良さがなかった小松が、さらにうなだれた。

 

「ありえねーっすよ、コイツ」

「ドンマイ、ヨシ」

 

ポン、と下がった小松の、それでも彼よりは高い位置にある頭に栄口の手のひらが置かれる。阿部の目の前で。ぐ、と阿部は込み上げてきそうになるものを飲み込んだ。場所が場所だ。そして面子が面子だ。

 

 小松はしばらく栄口に撫でられていたが、その手が離れるとぐわっと勢い良く顔を上げて隣の同輩を指差した。指差した人差し指の隣からすぐににゅっと別の2本があらわれて、全部で3本になった指を今度は先輩に向けて突き出す。

 

「3位っスよ?!学年で!意味わかんねー!」

「指を差すな指を。でもすごいね」

「へー、すげェな」

 

素直に感心する先輩の視線を受けても葛西は涼しげな顔だ。さすがはクールと評されているだけのことはある。阿部はというと、自身が部の中では西広と並んで常に上位に食い込む程度のオツムは持っているのでさほどの感動はなかった。まァ、頭良さそうな面はしてんな、くらいのものである。

 

「たっ、隆也さんもやっぱり頭良いんスか?!」

 

突如、話を振られて思わず阿部は少し距離を置いた隣側にいる小松に顔を向ける。逆の、左手側にいる栄口と泉が空気を震わせたのを気配で感じるが特には気にせずにまじまじと相手を見返した。阿部よりも背の高い小松が怯える小動物のような目で必死に自分を見てくるのだけれど。

 

「……」

 

なにやら今、聞き慣れない呼び方で呼ばれた気がする。気のせいか?いや、違うよな、と内心でひとり漫才だ。阿部は少しの間、逡巡した。どう反応を返すべきか迷ったのである。

 そう言えばさっき栄口も名前で呼ばれていた。いつの間にか1年は2年を名前で呼ぶというルールでもつくられたのだろうか。

 

 なんだそういうことかと、面白くはないながらも一応納得はして阿部のフリーズが解ける。時間にすればたかだかコンマ3秒くらいだ。

 

「別に普通」

 

一言返した途端、ぶはっと、左側から内部の膨張に耐えられなかった風船が爆発でもしたかのような爆笑が吐きだされた。

 

「なんだよ」

 

驚いて振り返るが2人とも腹を抱え笑っていてとても話が出来るような状態ではない。あの葛西さえも、だ。

 ひとりそれどころではないらしい小松をもう一度見遣るけれど、こっちはこっちで阿部が見れば見るだけ、引く始末。こういうところが少しだけ、小松は三橋に似ていた。持ち前の明るさで誰にでも好かれるタイプの小松と持ち前の暗さで誰からも敬遠されそうな三橋は、実際には似ても似つかないのだが。

 

「っく、くる、し…はー、しっかり見届けたよ、ヨシ」

 

発作のような引きつけ笑いを起こしていた栄口はようやく回復したようだ。泉も折れ曲がっていた上半身を起こして大きく息を吐いた。

 

「はー、笑った笑った。にしても阿部、反応フツー過ぎ」

「はァ?!」

「いいっスから!もう!いいですから!!」

 

オレたちもう行きます!と宣誓のように右手を上げて高らかに宣言した小松は、まだ笑っている隣の葛西の腕をむんずと掴んでバッと最敬礼レベルまで頭を下げた。特に、阿部に向けて。

 

「おー、また部活でなァ」

 

先輩陣が手を振って見送ると、そそくさと去ろうとする小松に腕を引かれながら歩いていた葛西がひょいと顔だけで後ろを振り返る。

 

 その視線の先。

 

 彼は、相方に腕を取られながらも出来るだけ体ごと後ろを向いて、ただひとりをその先にロックした。

 その確認するまでもない明らかな熱視線の意味合いを完全に受け止めたのはきっと、向けられた彼ではなく阿部の方。

 

「勇人さん!約束守ってくださいよ!」

 

葛西の、切れ長の男過ぎない涼やかなまなじりがすっと細くなる。真っ直ぐに1人に向けて放たれた言葉は容易く相手の元へ届いた。栄口は分かったよという風に後輩に笑って見せている。その困ったような嬉しいような気恥ずかしいような、複雑な横顔。

 

「約束って?」

 

内心の動揺を隠してあくまで平静を装って尋ねた阿部に栄口が話してくれた内容に。

 

 ………にゃろう。

 

 往生際悪く数週間を浪費している場合ではなかったことを、阿部は痛いほどに思い知ったのだった。