君と僕の12ヶ月 10

 

 やって来たときと同じように夏はあまりに早く過ぎていった。

 部活帰りに訪れた阿部の部屋で数式を解きながら栄口はぼんやりと外に目を向けてしまう。

 

 視覚だけで分かるほど顕著な変化があるわけではない。

 昼下がりの日差しはまだ明るく、窓の向こうで風に揺られて見え隠れする葉っぱの色は青いままだ。網戸越しに入り込んでくる風だって、まだ、熱さを含んでいる。

 

「栄口、手ェ止まってンぞ」

 

机の向こう側で古文文法の教科書とにらめっこをしていた阿部から声がかかって、あ、と再びノートに意識を戻す途中で脇に置かれた携帯のウィンドウが栄口の目を掠った。

 

 示す日付は夏休み最終日。

 事実上、高校生の夏は今日で終わりのようなものだ。

 とは言っても夏休み中ずっと、お盆を除いて部員達は西浦高校第2グラウンドに通い詰めていたから夏休みなどないに等しいものだった。

 最終日の今日が午後解散になったのだっておそらく、志賀のプレッシャーにモモカンが妥協せざるを得なかったからであって、そうでなければ8月31日だなんてことに関わりなく彼らは広々と使えるグラウンドを思い切り満喫していたことだろう。

 

 しかし志賀の判断は正しかった。

 夏休みの宿題に手を付けていない者も、中にはいたのだから。

 

「だから手、止まってる」

「あ、ごめん」

「なにボーっとしてんだよ」

「やー、なんか」

 

栄口は一度言葉を切って、つい息を吐いた。顔を上げると阿部がこちらを見ていて、目が合ってしまったから反射的にほんのすこし目尻が下がる。

 

「夏が終わるんだなーって」

「何言ってンだ今更」

「あはは、確かに今更」

 

はは、と口角は上がるけれど心はどこか遠くを漂っているかのような心地になって阿部の目を見る。阿部の目の黒は強い。黒目が勝った彼の眼にはとても強い、自分には持ち得ない力があると、随分と前から思っていて、そしてその強さが栄口は好きだった。

 ときに他者を怖がらせるほどの威力を秘めた闇色の光。

 それは彼の性を誤解させる要素になることも有るのだろうけれど、栄口にはどうしてかいつも眩しく映るのだ。

 

「ばぁか」

 

じっと、失礼なくらい見つめていると向こうも失礼なことを口走って教科書へと目を戻した。

 

「来年だ来年」

 

乱暴に投げ出された言葉に思わず口元が緩んでしまう。

 

「そうだね」

 

栄口も進んでいなかったノートの数字の続きを書くべく、ペンシルを握り直した。

 

 特に弱気になったときに阿部の目を見てしまうのは、その力強さだけではなくて彼が汲み取ってくれる何がしかに期待してしまうからなのかもしれない。

 バッターボックスに立ったときに思い出す瞑想の時間だとか。試験前に駆け込んでしまう便所だとか。

 もしかしたら自分にとっての阿部の目は、それに似た類のものなのかも、なんて思ったら含み笑いが声に出てしまった。

 

「っぷ、くくっ」

「何笑ってんだ気持ち悪ィ」

 

なんでもないよ、と首を振る。便所と同列に扱っただなんて阿部に知られたら大事だ。訝しげな表情で阿部はこちらを見てくるけれど、栄口は口を割らなかった。

 

 阿部は呆れたようにため息をついてペンシルをポイと机の上に投げておもむろに腰を上げた。そのまま机を横切って栄口の後ろにある自分のベッドにどしんと腰かけてゴロリと横に……

 

「って、寝るの?!」

「お前のせいで集中切れたんだよ。しばらくしたら起こして」

「えー」

 

振り向いた先では既に阿部が目を閉じている。栄口は仕方なくベッド横に置いてあるアナログ時計に目をやって、15分くらいしたら起こすかと目算して机に向き直った。あと1ページで数学の宿題は終了だ。阿部のおかげで随分と早く終わらせることが出来たから目覚ましくらいにはなってやろう。

 思いながら栄口がひょいとついでに向こう側のノートも見てみると。

 

「げっ、阿部全然進んでないし」

 

教科書相手ににらみ合いを繰り広げていたわりにはノートはほとんど真っ白状態である。理系と言えどこれはひどい。栄口は、阿部が起きたら今度は自分が教えてやろうと、決意を新たにフローリングに再び腰を下ろした。

 

 

 残りの宿題を自力で終わらせた栄口が再び振り返った時には時計の長針は6から10へと移動していた。

 

「20分かー。まァ上出来だよね」

 

自画自賛して、よ、と片手をついてベッド前に体を移動させる。阿部はぐっすりと寝ているようで、心なしか少しだけこちらに顔を向けて涼しい寝息を立てていた。阿部は寝ているときはとても静かだ。泉などは、合宿の雑魚寝時に寝入る阿部を見て「いつもこんだけ静かなら平和なのにな」と三橋に同意を求めて言われた相手をオロオロさせていた。

 

 でも、確かに寝ているときの阿部は静かで穏やかで、そして起きているときよりちょっとだけ可愛くなる。

 いつも寄っている眉間の皺がなくなり眉が下がり気味になるだけでひとの印象ってこんなに変わるんだなあと、改めて阿部の寝顔をまじまじと見つめながら栄口は思った。

 

 思いのほか睫毛が長い。

 日に焼けてはいるが結構肌、つるつるだ。

 

 寝ているのを良いことにつついた頬はなかなかに弾力があった。

 

 印象的な瞳が瞼の下に隠れている今の阿部はどこか幼い子供のように見えて、ふふ、と忍び笑いがもれる。三橋もきっと、今の阿部になら自分から近づくことが出来るんじゃないかなと栄口は弱気なエースの、阿部に対していつもびくびくしている姿を思い浮かべた。

 

「やっぱ目だなァ」

 

あの意志の強い、自己主張の強すぎる眼差しが彼の印象を9割がた決めてしまうのではないだろうか。

 

「まァでも、それでこその阿部か」

 

あれがなくなってしまったら阿部じゃない。良くも悪くも。結論付けて栄口は、まさしくその閉じられたものを開けようとして、ぐ、とベットに片手をつく。もう片方の手で彼の肩を揺すろうと、名を呼んだ。

 

「起きろー、阿、っ」

 

しかし、伸ばした手をにゅっと逆に伸びてきた手に掴まれる。

 

「わ、びっくりした。起きてンなら言ってよ」

 

驚いて退こうとするが手首を掴まれているのでくんと反動で体が戻る。阿部は寝ぼけているのかじぃ、とこちらを見てきた。先程あれほど不躾に見つめたくせに、いざ目の前の黒いまなこに真っ直ぐに見つめられると妙に居心地の悪さを感じる。

 

「寝ぼけてんの?」

「……今何時」

「えー、と。もうすぐ4時」

 

何気ない会話なのに何だか胸がざわついて気づけばしっとりと手のひらに汗の湿り気を感じる。ぴくんと動いた自分の指の先が平に当たってそこがいつの間にか冷えていることに気づいた。

 

 突如訪れた違和感に栄口は困惑するが、突き詰める前に阿部の手が前触れなくパッと離れた。

 

「さっさと終わらせて分析はじめねェとな」

 

ミシリと音を立ててベッドから降りた阿部は席に戻る道すがら、栄口のノートを見つけたらしく、

 

「げ、お前もう終わってんじゃん」

 

顔をしかめる。先ほど綺麗になっていた眉間にまたもや、もはや彼のトレードマークとでも言えそうな皺が刻まれた。

 

「阿部が寝てるうちにね。つーか全然進んでないのに寝るなよなァ」

「うっせー。そっちが変なカオすっからだろーが」

「へっ…!おっまえなァ!折角古典教えてやろーと思ったのに!」

「ンなのさっきオレが数学教えたんだからあたりめーだ」

「………」

 

栄口は諦めた。と言うよりも、いつものやりとりに安堵すら感じていたと言ってもいいかもしれない。先程のよく分からない違和感は阿部の傲慢な態度の前に霧散して2人の間にはいつもの気兼ねない雰囲気が戻っていた。

 

「ハイハイ、じゃあ早いトコ古典終わらせよう。花井いないから2人でやんなきゃだしね」

「ったく、あいつら宿題くらい時間見つけてやっとけっつーんだよ。最終日まで手付かずとかありえねェ」

 

あいつらとはもちろん、我らがエースに不動の4番様。

 

「大体お前、後輩の指導くらいしとけよ」

「阿部にとっても後輩じゃん」

 

そして、新米正捕手候補。花井はモモカンと志賀から彼らのお世話係を直々に言い渡されたため、本来3人で行なうはずの主将会議は、本日は副主将のみで執り行われることになった。ついでに、宿題の残りの片付けも。

 

「隆也さんって呼ばれてるくらい仲良いくせに」

 

自分で言っておいて栄口はぶ、と噴き出してしまう。先のバツゲームのことを思い出したのだ。なんとあの日から、小松は阿部のことを下の名前で呼ぶようになっていた。本人曰く、1度呼んでみたら踏ん切りがついて、もう1度呼んだときも怒られなかったから許可されたと受け取ったらしい。

 

(ヨシはビビりのくせに変なとこで大胆なんだよなー)

 

ちなみにそのおかげで小松は同輩どころか2年からも一目置かれていることを本人だけが知らない。

 付き合いの長い後輩の大物ぶりを垣間見れて栄口としては嬉しい限りだ。

 

「お前こそ」

「ん?」

 

1人にやにやしていたところに声がかかって彼を見るが、阿部は教科書とノートを交互に見ながらスラスラとペンシルを走らせていた。

 

「勇人さんって呼ばれてんだろ」

「ああ、葛西のこと?」

 

一瞬何のことだか分からずきょとんとした栄口だが、すぐに思い当たった。時を同じくして栄口も1人の後輩から名前呼びされていた。

 

「1年入ってもう結構経つんだなあ」

 

しみじみとした栄口の声に阿部の文字を書く音が止まる。

 

「なんかこんな風にしてさ、仲良くなっていけるといいよな。去年のオレらみたいに」

「………」

「1年同士もそうだし、1年とオレらもさ」

 

自分の言ったことが面映いのかくすぐったそうに笑う栄口を阿部はぽかんと見遣った。そうして呆れたように脱力したあと、

 

「そうだな」

 

短く返事をして、再び夏の課題に戻っていった。

 

 ミィンミィン、と夏の盛りの勢いを失って鳴く蝉の声と共に、彼らの2年目の夏は過ぎてゆく。