君と僕の12ヶ月 8
「栄口先輩!」
耳慣れた声が、校舎を出てグラウンドに向かっていた栄口と泉を呼び止めたのは午後の授業がはじまる少し前で、ジャージにTシャツ姿の2人はそろって足を止めて声の方向を振り向いた。 振り返ったその先では部の後輩2人がこちらに向かって駆けて来る。俊足の部類に入る彼らは2、30メートルあった距離をすぐに縮めて先で待っていた先輩たちに追いついた。
「2人とも足速いなー。昼帰り?」
隣の泉ほどとは言わないが、一般的な高校生男子の中では十分に足が速いと言えるだろう2人のダッシュに感心しながら栄口が聞くと、
「そうっス!」 「先輩たちは次、体育ですか?」
小松が元気に返事をし、葛西がそれを受けて丁寧に尋ねてくる。テンポの良さが2人の仲の良さをあらわしていて、泉と栄口は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「お前らほんと仲良いなあー」 「先輩たちほどじゃないっスよ!」 「そっかぁ?」
泉が横目に視線を寄越してきたので栄口は小首を傾げながらも笑顔を見せた。
「まァ、悪くはないよね」 「そりゃな」 「泉さんと栄口さんもそうですけど、2年生はすげェ仲良いと思いますよ」
すげェ、の部分を強調する葛西の語調に多分に羨望が含まれているのを感じてしまうから、気恥ずかしい嬉しさと一緒に過ぎるのは共に過ごしはじめてからまだ3ヶ月も経っていない1年へのエールだ。 お互いの視線に同じ感情を読み取ったのだろう泉と栄口は一緒に後輩たちを振り返った。
「四六時中一緒に過ごしてっから、もう家族みたいになってんだよね」 「そーだな。お前らもすぐ、もーいいってくらい近くなっから。そのうち変なクセとか考えてることとかぜーんぶ筒抜けになるから覚悟しとけよ〜?」 「ええー!なんスか変なクセって!」 「はいはい、泉、あんまりヨシで遊ばないように」
じりじりと小松に詰め寄る泉の肩を押し戻して栄口はところで、と2人に向き直った。
「2人ともなんか用あったんじゃないの?」
あれだけ全速力で走って来たからには何か言いたいことがあったのだろうという栄口の考えは半分当たりで半分外れだ。確かに小松と葛西はこのとき、聞いて欲しいことがあった。けれどもたとえ何もなくても目の前の先輩2人がいれば彼らは迷わず駆け出していただろう。そのくらいには、後輩たちはいつの間にかこの頼りがいのある2年生に懐いてしまっていた。
「来週から中間始まるじゃないスか」
小松が、キラリと悪戯っ子の瞳を光らせる。
「ああ、そうだね」 「だなー」
頷く栄口と顔をしかめる泉。2人とも勉強が不得意というわけではないが、試験が好きという高校生はそうそういない。加えて試験週間は部活動禁止令が出されるため野球ができなくなる。良いことナシなのだ。
「それで、オレら賭けをすることにしたんス」 「賭け?」 「すげェ賭けっスよ。もう絶対に負けらんねェ!」 「なんだよ、もったいぶらないではやく言え!」
急かす泉をやけに熱意のこもった目で見返して、小松は拳を握り締めて高らかに宣言した。
「負けた方が阿部さんを下の名前で呼ぶんス!!」 「「………」」
ぽかん、と泉と栄口の口が開いたのは一瞬だ。
「「ぶはっ!!」」
すぐに彼の言わんとすることを理解して2人はほとんど同時に噴き出した。
「あ、阿部を…!おっまえらチャレンジャーだなー!」 「まさか隆也って呼ぶの?!そんなの2年でもやらないぞ〜」
ひいひいと腹を抱えて泉が苦しそうに笑えば、栄口も自分の両腕を手で抱き締めて体を震わせる。想像してぶるっときてしまったらしい。
「大体ヨシ、大丈夫なの?」 「……先輩、それはどういう意味っスか」 「そのまんま」 「………」
的を得た質問に憮然とした表情を見せるが、シニア時代さんざんに泣きついた覚えがある手前何も言えない小松である。代わりに葛西が勝負のルールを簡潔に説明してくれた。
「勝負するのは、お互いの得意教科一科目のみなんです。オレは英語、義孝は日本史です」 「へぇ」 「先輩方にはバツゲームの観客になってもらいたいんですけど、いいですか?」 「いいよ〜」 「つーかそんなおもしれーこと見逃せっていっても見逃さねーよ」
ありがとうございます、と頭を下げる葛西は変わらず礼儀正しいけれど以前よりもずっと雰囲気が柔らかく、気さくな印象を受けて、栄口は嬉しくなる。
「まぁ小松、骨は拾ってやるからさ」 「泉さんまで何でですか!」
思わず笑みがこぼれる栄口の横では、泉が早速小松をからかいにかかっていた。
「あ、それからこれは個人的なお願いなんですけど」 「?」
そんな2人を余所に葛西が一歩、栄口に近づいた。
「オレが校内で10位以内に入ったら、名前で呼んでいいッスか?」 「は?」
おもむろに腕を取られたかと思えば唐突にそんなことを言われて栄口は思わず目をむいて彼を見返すけれど、その眼差しは思いのほか真剣だ。
「勇人さんって呼んでもいいですか?」 「……いいけど」 「武人てめーっ!ふざけんな!オレだって呼んだことねェのに!」
抗議の声は栄口からではなく、当の葛西の隣から挙がる。小松が、栄口の腕を握る葛西の腕を両手でむんずと掴んで今しがたのお願いとやらに猛烈に反対するが。
「じゃあお前も参加すれば」 「てめ、オレの脳みそ見てから言えよな!」 「ヨシ……」
友人の容赦ない提案に何とも情けない返事を偉そうに返す後輩に、栄口はいささかうなだれた。大体、彼にしてみれば自分の名前を呼び捨てにすることがなぜ褒美のように扱われるのかさっぱり見当がつかない。阿部のような強烈な個性は持っていないからバツゲームには無論、なり得ないのだろうけれど。
「別に名前の方が呼びやすいなら呼んでいーのに」
困惑もあらわに言ってみるものの、
「それじゃ駄目っス。張り合い欲しいんす。だから他の奴に気安く呼ばせないでくださいよ」 「なんだそれ」
一刀両断されて謎は深まるばかりだ。以前よりも親しみやすくなった葛西だけれど、その根本は変わっていないらしい。基本的に押しの強い性質のようだ。
「栄口、そろそろ行かねーとやべェ」 「あ、そうだね。2人とも戻んないと遅れるぞ」 「うすっ」 「じゃーなー」 「はい」
最後には礼儀正しく頭を下げる後輩たちに手を振って、今度こそ校舎に完全に背を向ける。時間を食ってしまったので速度を上げた。幅の広い私道を横切って第1グラウンドへと走る経路は、いつも部室へと通う慣れた道。 並んで走っていると、泉がひょいと栄口との距離を詰めてくる。足の速い泉が栄口に合わせて走っているからこそ出来る芸当だ。なんだと思って隣を見れば、にやあ、と、時折彼がその見目の良い小顔に載せるお世辞にも格好良いとは言えない表情がこちらを向いていた。
「…なに、気持ち悪いよ泉」
眉根を寄せて放たれるのは栄口には珍しい辛辣な言葉だが、そんなものを気にする泉ではない。
「後輩から愛されんてんなー勇人先輩?」 「………目尻阿部並みに下がってるよ」 「げっ」
さすがに今度は顔を思い切りしかめて「阿部はやめろ!」などと阿部本人が聞いたら青筋を立てるどころじゃないことを言い捨てる泉に、一矢報いた栄口は多少の満足を感じてそのまま前を向いた。泉の速度に食らいつきたい栄口としては戯言に付き合っている暇はないのだ。
(どっちかっていうと、いいネタにされてるだけの気がすんなァ…)
なんてむしろ、自嘲的な考えが過ぎったりしていた栄口には、後輩の言葉が文字通りのものだと気づくことも、ましてやその光景を遠くから見ている者がいたことなんて、当然知る由もないのだった。 |