君と僕の12ヶ月 7

 

 「栄口先輩!」

 

聞き覚えのある名前が耳に入ってきたのは、阿部が教室棟の2階を移動していた時だった。昼休みが残り10分ほどで終わりを告げる時間帯の教室前の廊下は騒がしく、その声が耳に届いたのは、ほとんど奇跡に近い。

 というのは大袈裟だが、少なくとも足を止めた阿部に気づかずに並んで歩いていた花井は数歩分誰もいない隣に対して会話を続けるという恥ずかしい思いを強いられた。

 

「って阿部!何止まってんだよ!」

 

羞恥を大きな声を出すことで遣り過ごして、花井が進んでしまった何歩かを戻っている間も発信源を探して首を回していた阿部の顔が、窓の外に目を向けたところで停止する。

 その視線を追って花井もまた、開いている窓から体をひょいと外に出すと校舎から少し離れた地上にいる見慣れた人物を目に認めた。

 

「泉と栄口じゃねェか。次体育か?」

「みてーだな」

 

おざなりに返事を返して阿部は遠目に2人を見下ろす。ジャージにTシャツという出で立ちの彼らの次の授業は一目瞭然だ。グラウンドへ移動中だったのだろう彼らが立ち止まっている理由は、すぐに知れた。

 

「一緒にいんのは…葛西と小松か。最近あいつら仲良いな」

 

視線の先ではちょうど、後輩達が2人に追いついたところだった。大方教室に帰る途中に見つけた先輩を走って追ってきたのだろう。特にシニアが一緒だったという小松と栄口は仲がいい。思えばさっきの声も小松のものだったと阿部は思い返す。

 

 ちょうど、校舎と第1グラウンドを隔てる、正門から続く一本道の手前で集った4人は楽しそうに立ち話をしていた。

 小松と葛西が栄口に話しかけて、栄口はそれに頷いたり言葉を返したりしているようだ。泉がその隣でやけににやついているのが阿部は気になった。遠くで交わされる会話は無論、ここまでは聞こえてこない。阿部に向かってくるのは外から窓の中へと入り込んでくるぬるい風くらいだ。

 

「阿部?」

 

花井に呼ばれたけれど、阿部は立っている位置から正しく延長線上にいる4人組から目が離せなかった。

 

 嘘だ。

 本当は、4人じゃない。

 

花井の言う通り目の前の光景は最近よく見かけるようになったものだった。栄口と小松はもともと仲が良かったけれど葛西はそうではない。

 

 葛西はどちらかというと容易く人と馴れ合ったりはしないような雰囲気を持っていて、同じ中学出身の小松以外とは同輩ともさほど打ち解けているようには見えなかった。

 

 彼のその態度に変化があらわれたのは、先日行なわれた練習試合の後だと阿部は記憶している。

 

 あの日の葛西の投球は、受けている阿部も信じられないほどにぼろぼろだった。ストレートは速い代わりにちっとも中心に入らない。カーブは大きく反れ、頼みのスライダーは思ったところに落ちてこない。

 絶不調、と言わざるを得ないその内容は、午前中の三橋のピッチングが完璧だっただけに余計に際立った。

 

 4回から三橋がリリーフして0点に押さえ、打者陣が大活躍したおかげで結果的には逆転勝ちにこぎつけた。誰も彼を責めなかったし、むしろ劇的な展開に部内は長く興奮状態にあったけれど、葛西は、練習が終わった後も部室に戻ってこなかった。そして阿部がそれに気づいたときには、栄口の姿も消えていたのだった。

 

 彼らの間にどんな会話が交わされたのか阿部は知らない。

 けれどその次の日から、葛西は積極的に三橋に声をかけるようになった。先輩ピッチャーに学ぼうという姿勢が感じられた。

 合宿前のあの日、栄口に詰め寄っていた葛西の姿を思えば彼の中で何らかの変化があったことは明白だった。そしてそんな葛西を栄口が嬉しそうに見ている姿が阿部の脳裏に鮮明に蘇る。

 

 気がつけば2人はいつの間にか頻繁に笑い合うようになっていた。葛西と仲の良い小松と、栄口と仲の良い泉を加えた4人で輪になる構図はここ最近ではほとんど日常的な光景と言えるほどになっている。

 

 今、まさしく視線の先で交わされているそのやり取り。

 栄口の笑顔。明らかに近づいた彼らの距離。

 

「………」

 

それが、なぜこんなにも自分を苛立たせるのかが分からないから余計に胸の内をかけ巡るもやもやしたものを消化できずに、阿部の苛々は更に募った。

 

 何を話しているのか、葛西が身を乗り出して栄口に一歩近づく。おもむろに腕を掴んで言い募っている姿が阿部の目を刺して眉間に思い切り皺が寄った。

 その腕を解こうともしないで容易く許している栄口は、相手に相づちを打ちながら捕まれたままに葛西の肩をポンと叩く。

 

 その気安さ。

 窓枠を掴む手に知らず、激しい力が加わる。

 

「……阿部」

 

苛々がほとんど頂点に達しそうになっていた阿部は花井の呼びかけに気づかなかった。だから彼は、このとき花井がどんな顔で阿部のことを見ていたか知らない。正確には、阿部と阿部の視線の先にあるものを。

 

「阿部!」

「…なに」

 

再び大きな声で呼ばれて、さすがに今度は聴覚を刺激された。振り向くと花井が困ったような呆れたような、妙な表情でこちらを見ていて、これ以上深くなりようがないはずの阿部の眉間の皺が更に刻まれる。

 

 花井はそんな傍らの人物に、はあ、とあからさまにため息をついた。右手を首に持っていって意味もなく手のひらでさすった。

 

「…お前、今どんな顔してるか分かってるか?」

「は?」

「それとも自分で気づいてないのか?」

「何の話だよ」

「後者か…」

「はァ?」

 

坊主頭に手のひらを置いて天を仰ぐ花井の仕草はただでさえ苛立っている阿部のささくれだった胸の内を刺激した。要領を得ない相手の発言にその苛立ちを隠そうともせずに睨み付けた。

 

「そんなに睨むなよ、オレも言っていいもんか迷ってんだから」

「だから何の話だよ」

 

阿部は気が短い。特に今の阿部に、花井の遠まわしな表現を噛み砕く気持ちの余裕なんて欠片もなかった。花井もそれが分かるのか、先程阿部を呼んだ時に向けていた、至極複雑な眼差しを再び阿部に向ける。

 

 自分の到達した答えを認めたくはないが、認めざるを得なくて抗っているような、そんな瞳だ。

 花井はつかの間逡巡する。

 それは、主将として、今から自分が言うことが部に何らかの影響を与えるかもしれないという危惧に寄るものだったかもしれないし、友人として、阿部の内側を慮ったものなのかもしれなかった。

 

 けれど真っ直ぐに視線を向けてくる阿部があまりにも分かっていなさそうなので花井は覚悟を決める。彼に自覚させることが正しい選択なのかは正直、花井としても自信がなかったけれど。

 

「葛西と栄口が最近仲が良いのが嫌なんだろ」

「……は?」

「お前嫉妬してんだよ葛西に」

「!」

 

有無を言わさない間でもって、真面目な主将に大真面目な顔で言われたとんでもないことに対して、しかし阿部は、反論ひとつ出来ずに目を見開くしかなかった。