君と僕の12ヶ月 6

 

 練習試合後の部室は勝っても負けても騒がしい。どちらにしろ試合が終わったら部活も終わりというわけにはいかないのがこの野球部で、夕方前に終了したとしても部員たちが部室に戻ってくる頃にはたっぷりと日が暮れている。それは季節に関係ない、西浦野球部の不文律だ。

 今日も彼らが部室に引き上げたのは暗くなってしばらく経った頃だったが部員たちの顔には疲労よりも充実感の方が多く滲んでいた。練習試合後の練習というのは得てして普段に輪をかけて身が入るものだ。

 

 外の暗闇とは対称的に部室内は蛍光灯の光と活気で溢れている。明るく騒がしいその喧騒の中を、けれど1人、そっと後にする者がいた。

 

 

 階段を下りて部室棟から離れてしまえば、部屋の中の喧騒はまるで届かなくなる。夜に沈んだ静かな学校の敷地内の中、プール横の野球部の部室から漏れる光。月の光に少しも劣らないその人工灯に背を向けて栄口は、早足で歩いていた。

 春というよりは冬の名残すら感じられる冷気も、動いている間はさほど気にならない。それでも彼はそうではないだろうと思って、栄口は薄い上着を2人分、小脇に抱えてキョロキョロと辺りを見回した。

 

 居場所の見当は、正直まるでつかなかった。

 

(あんまりおしゃべりなヤツじゃないしなァ…)

 

実は合宿前日の会話が栄口と葛西が交わした最長記録と言って良い。そう言えば彼と一番仲が良いらしい小松と笑い合っている姿を目にすることはあるけれど、その他の新入生と特別親しくしている様子はあまり見たことがない気がする。

 とは言え、まだ入学して1ヶ月ほどしか経っていない状況ではそれが普通なのかもしれないとも栄口は考える。現2年だって合宿前後の段階ではそれほどには打ち解けていなかった、ような。

 

(……そうでもないような)

 

合宿の時には既に風呂で大騒ぎをしたり枕投げをしたりするくらいには仲良くなっていた自分たちを思い出して栄口はぎこちなく頬を緩めた。

 

「…オレたちは先輩とかいなかったしなー」

 

加えて、三橋に田島と、個性的な面子も揃っていたこともひとつの要因だったのかもしれない。

 今の1年はどうなんだろうな、と思いながら第1グラウンドに沿っていた栄口の足はそこを抜け出て校舎の内側へと向かっていく。今度小松にそれとなく聞いてみようと決めて駆け足になった。

 

 栄口は葛西が好んで行くような居場所の見当はついていなかったけれど、今の彼の状況でどんな場所を好むだろうかということの大体の目安はつけていた。

 まず、部室の近くにはいないだろうと思った。そしてきっと、グラウンドにもいない。部員が通りがかってしまうような場所もないだろう。

 

 そうなると自ずと行き先は絞られてくる。

 栄口は中庭に向かって速度を上げた。葛西が部室に戻る姿を見ていない。おそらく、練習が終わったままの格好でいるはずだ。投手が肩を冷やすなんて阿部などに知れたら大変である。

 

 そういったことにいかにも頭が回りそうな後輩の、けれどそうではない現在の行動が彼の心理状態を物語っているのが分かるから、知らず足は速くなった。

 ハァ、と荒い息が口からこぼれた。2つの校舎の間をすり抜けた栄口はそこで一旦立ち止まる。

 

 ――――いた。

 

 建物に四方を囲まれた、西浦高校の名所、通称万葉の庭。

 一日を通して賑わう中庭にけれど今、昼の喧騒は存在しない。新緑が溢れだした木々の葉も夜の最中ではざわめきでしか感じ取れず、人工的な雑音がなにひとつない暗い庭に、ひとつの影がひっそりと在るのを栄口ははっきりと見つけた。

 

 ともすれば暗闇と同化してしまいそうな影が端にあるベンチに腰掛けている。

 

 目を凝らす。息をすこしひそめた。

 頭が下がって丸くなっている背中がぽっかりと宵闇に浮かんでいる。膝と膝の間で組まれた両手に頭をつけてじっとしている1年生ピッチャー。その隣に無造作に置かれた帽子。上がらない顔に胸を締めつけられる思いがする。

 栄口はゆっくりと歩みを開始した。

 

 すぐにたどり着いたベンチの、帽子を挟んだ隣に腰掛けるけれど葛西は顔を上げない。おそらく途中で人の気配に気づいたのだろうけれどその体はこれといった反応を見せなかった。

 ぱさりと、とりあえず背中の上から上着を羽織らせる。栄口の私服だ。着せるときに指に触れたユニフォームはひどく冷たくなっていて、思わず眉を潜めたけれど何も言わずにおく。上着をかけた瞬間にびくりと肩が震えたのを見てしまったからだ。

 自身はジャージに袖を通して、栄口は背中をベンチの背に預けた。遠い夜空には星がきらめいている。都会とはお世辞にも言えないこの辺りはまがりなりにも星空といえるものが見える地域だ。校舎の周りは畑が多いから車の通りも少ない。

 

 静かだった。

 お互いの呼吸が聞こえるくらいに、夜の静けさが彼らを覆っていた。

 

 上向けていた視線をずらして栄口は後輩の背中を見遣る。背が高くて引き締まった、恵まれた体格だ。練習中、セカンドの位置から彼の背中を見たことが何度もある。1年とは思えないくらい頼りがいを感じた彼の後姿。

 

 そう。

 ―――今日以外は。

 

 栄口は体を起こした。

 ポンと左手でその背中に手を載せる。

 

「三橋はうちのエースだったろ?」

 

けれどかけるのは慰めの言葉なんかじゃない。

 

 しかし、今までほとんど無反応だった葛西は明らかに反応を示した。彼の体に力が入るのが触れている手のひらを通して栄口にも伝わってくる。

 

 伝わってくるけれど、その胸の内をどんな感情が渦巻いているかを正確に把握することなどできるはずもない。彼の感情は彼のもので、彼の中の葛藤は彼だけのものだ。

 

 衝撃だったはずだ。

 今日の三橋は葛西にとって、自身の投球をその自信を、根こそぎ覆してしまうほどに衝撃的だったのだろう。あのとき三橋を「エース向きではない」と言い切った彼にとっては。

 

 3回で8点奪われたところでベンチに下げられた葛西の背中は打ちのめされたと言うよりは驚愕でいっぱいだったように栄口は思う。

 

…負けんな、葛西)

 

 背に載せた手に、相手に伝わらないように力を入れる。

 それでもそれを感じ取ったかのようなタイミングで葛西の体が大きく動いた。

 

「先輩」

 

膝に覆いかぶさる形で曲がっていた体を起こした葛西は顔だけで栄口を振り向いた。

 

「…結構きついんすね。いいひととか言われてんのに」

「あはは、お前こそ結構言うじゃん」

「こういうときは普通、慰めてくれるもんじゃないんスか?」

「オレいいひとじゃないからさー」

 

揚げ足を取るように言ってやったのは、葛西の表情が思ったよりも沈んでいなかったからだ。言葉の割に彼の顔には微笑すら浮かんでいることに内心ほっと胸を撫で下ろすけれど。

 でも、その笑顔が少し無理をしている気配があることに栄口は敏感にも気づいていた。

 

「三橋はさ、確かにうちのエースだよ」

「……」

 

一瞬、痛さを堪えるかのように細くなった葛西の目が、すぐに大きく見開かれる。

 

 でも、と続ける栄口の手のひらは帽子の載っていない後輩の頭をぽんぽん、とやさしく撫ぜていて、その子供をあやすような仕草に束の間見開かれた葛西の目尻ががきらりと光った。

 

 けれどその光から栄口は目を逸らさない。

 相手も魅入られたように視線を外そうとはしなかった。

 

「三橋だけで甲子園に行くのは難しい。だからさ、うちには葛西の力が必要なんだ」

 

 それ覚えといて。

 

 ふわりと目じりを下げる自分よりも小さな先輩を瞬きもせずに見つめていた彼は、やがて、はい、と小さく返事をした。かけられた栄口の上着の裾をぎゅっ、と握って。