君と僕の12ヶ月 5

 

 2年目の合宿を滞りなく乗り切った部員たちの予定に次に組み込まれるのは、当然の如く去年と同じ、成果をためしがてらの練習試合だ。同じとはいっても相手は三星学園ではなかったが。

 1年目の夏に快挙と言っていいほどの戦績を残した西浦高校野球部はそれ以降の練習試合の相手には困らなかった。試合を申し込んで断られることはほとんどなく、他校からの要請も多くあった。本日試合を行なう高校も、後者のひとつである。

 

「じゃあスタメン発表すっぞ!」

 

五月晴れの清清しい朝の空気の中、花井の良く通る声が放たれる。グラウンドの整備を終えてベンチ前に集まった部員たちは一様に緊張した面持ちを見せていた。2年だとて例外ではない。試合可能人数ギリギリだった去年とは違って今年は部内だけでも2チームは作れるくらいの人数が揃っている。加えて、新入部員は殆どが経験者なのだ。

 

 花井梓主将はゆっくりとユニフォーム姿の一団を見回して大きく息を吸い込んだ。一度、手に持った紙に目を落とす。

 

「1番!」

 

腹から出された切れのいい声が次々とポジションと名前を読み上げていった。

 

 練習試合は大体、午前と午後の2回行なわれる。

 午前中は他校を招いて午後には出かけて行くときもあるし、その逆もある。他校をハシゴするときだってあるが、2試合とも西浦高校第2グラウンドを使うことが頻度としては一番高い。

 今日も午前と午後、別の学校と練習試合を組んでいたが2試合とも西浦で行なわれることになっていた。

 

 午前の試合が終わったら各自で昼を済ませて、次の試合の準備を行なう。相手が到着する頃には万端整って軽い打ち合わせのあとすぐに試合が行なえるようにスケジュールが調整されていた。時間に無駄がなければその分練習時間が増える。

 試合が終わったらハイおしまい、というわけにはいかないのが西浦高校野球部である。その日の試合の残像が焼きついているうちに反省点を洗いざらい確認しなおす練習時間が、実は試合そのものよりも重要視されているといっても良いくらいだ。

 

 よく手入れされた土の上に午後の日光がさんさんと降り注いでいる。朝から快晴である今日のグラウンドのコンディションは良好だ。既にトンボを持って整備に入っている1年生たち。午前の試合が快勝だったことが嬉しいのか、彼らの表情は明るい。

 我がことのように喜んでくれる1年生をベンチから嬉しそうに眺めていた栄口はふと横のブルペンに目を向けた。ブルペンでは阿部と葛西が投球練習をしている。

 

 午前中に行なわれた1試合目。

 先発したのは三橋で、西浦のエースは相手をたったの1点に押さえて完投した。

 申し分のない投球だったと、誰もが認める内容だった。

 内に外に投げ分けるコントロールは相変わらず素晴らしく、決め球のまっすぐで駄目押しするさまは圧巻と言えるほどで。

 はじめて試合での三橋を目の当たりにする1年は誰もが、声もないほどに感嘆しているようだった。

 

 栄口は、ただ、そんなエースが誇らしかった。

 練習でも三橋のコントロールは健在だけれど、阿部のリードの元で最大限に引き出されるこのバッテリーの凄さが光るのはやはり、実際の試合だと栄口は思っている。

 

 お昼を挟んだ午後の2試合目は当然ながら三橋はベンチだ。となると自ずと先発は1年生ピッチャーが担うことになる。

 

 ブルペンの葛西を栄口の目は捕らえた。

 いつもの無表情に見えるけれど、どこか硬い気がしてじっと彼の動作を追う。腕の振りにも力が入っている気がした。

 

(まあ、初陣だしなァ)

 

加えて午前中の三橋の完璧と言っていい程のピッチング。阿部が「出来すぎだ」と言っていたほどの。

 

 栄口は三橋の投球を見据える葛西を思い出していた。

 合宿前にあんな会話をしてしまったこともあって、三橋と葛西の様子を特別気にかけていた。合宿の間も、そしてさっきも。

 

 午前中。葛西の瞳はずっと、一心に投手に注がれていた。栄口が言うまでもなく彼は試合をする三橋をひとすじに見つめていた。

 その表情に、大きな変化はなかった。

 なかったけれど彼の胸のうちの変化を、栄口は手に取るように感じたのだ。

 

 眼差しが。

 三橋を見つめる眼差しが、隠しようのないほどに強かったから。

 

 彼の中に過ぎった感情を栄口は憶測することしか出来ない。

 けれどきっと葛西武人の中で、三橋廉という投手に対する評価は大きく変化したはずだった。

 

 視線の先にいる葛西が大きく振りかぶる。投げた。パアンと阿部のミットが音を立てる。いい音だ。

 

「は、は、…はやっ…」

「あ、三橋」

 

速いな、と思った瞬間に同じ感想が聞こえてきて栄口は一瞬だけぎょっとしたが、すぐにその声の主に思い当たった。いつの間にか隣に並んでいた三橋が同じようにブルペンに釘付けになっている。

 

「か、かさい、く、ん。球、はやい」

「そうだなー。阿部のグラブいい音してんね」

「オレ、じゃ…ああは、いかな、い…」

「そっか?三橋の時もきもちいー音してるよ?」

「それは…阿部くん、が…」

 

尻すぼみになる三橋の言葉に栄口は相手の肩をポン、と叩いた。他人のことを言えた義理ではないけれど、投手の割には華奢な上半身。叩かれた三橋は驚いたようにこちらを見た。目が合う。

 

(お、そらさない)

 

怯えた様子を隠すことは出来ないながらもかち合った視線は外されることはなくて、そんな些細な変化が栄口はとても嬉しい。自然と頬が緩んだ。

 

「ん、阿部はいいキャッチだよな」

 

うんうんと顔を上下に動かして同意を示した。確かに阿部は優秀な捕手だ。でもそれだけじゃないと思っている、その気持ちを三橋に伝えることを栄口は惜しまない。

 

「でも三橋もいいピッチャーだよ」

「ふへっ」

 

目に見えてわたわたとし始めた三橋の挙動不審っぷりに栄口は、今度は思わず噴き出した。

 

「ぶはっ。三橋、目と手が同じくらいキョロキョロしてるぞー」

「え、え」

 

パシィン

 

「………速い、球」

「ん?」

 

しかし聞こえてきた音に三橋の耳が反応して、やりとり途中でエースの意識は強引にプルペンに引き戻されたようだった。

 

「……スゴイ」

「………」

 

その声音に交ざるのは羨望だろうか。恐怖だろうか。

 

「葛西、くん。スゴイ投手、だ」

 

両方だろうな、と栄口は思う。葛西を見つめる三橋の瞳は震えている。けれど彼は逸らさないでじっと、ひとつ年下の自分よりも速い球を投げるピッチャーを見据えていた。

 

 その顔は、さっきの葛西ともしかしたら少しだけ似ているかもしれない。

 

「三橋もスゴイ投手だよ」

「?」

 

きょとんとこちらを向いた顔に、栄口は誇らしげに笑った。分からないなら何度だって言ってやればいい。

 

「三橋も、いいピッチャーだよ」

「……!!」

 

びくうっと三橋は体を震わせた。動物だったら毛が逆立っていたかもしれないというくらい。ふるふると小刻みに震えたまま、投球練習中のバッテリーと栄口の顔を何度も何度も交互に見る。黙って見守っていると彼はパクパクと口を動かした。

 

「で、で、でも…」

「三橋〜、栄口〜、集合だって」

「水谷」

「みずだに、くん」

 

しかしタイミング悪くかけられた水谷の声に遮られて三橋の言葉を最後まで聞くことは出来なかった。慌しくベンチを後にする後姿を栄口は少しだけ複雑な気持ちで見遣る。

 

「どうかした?」

「うん?いや、なんでもないよ〜」

 

水谷と一緒にマウンドに向かいながら一度ブルペンの方を振り返った。投球練習を終えたバッテリーが最終確認を行なっている。葛西の表情は先程とあまり変化していないように見受けられた。

 

(スゴイ投手か)

 

葛西は今日の試合を見た後で、三橋からのこの評価をどう受け止めるのだろう。そして彼の三橋への評価はどのように変化しただろうか。

 

 ベンチを出るとよく晴れた空が眩しくて栄口は目を細めた。今日は本当に、野球日和と言わんばかりのいい天気だ。無論西浦野球部員にとっては雨の日も風の日も毎日が野球日和と言えるかもしれないけれど。

 

「水谷ー!栄口!おっせーぞ!」

 

田島の元気のいい声が青空をつき抜けるようにグラウンドの中から上がってハタと声の方向を見れば、ほとんどの部員が既に集まっていた。

 

「やばっ、行こう、栄口!」

「ん」

 

勢いよく駆け出すふたつの影が土の上を走る。じわりと汗がにじむほどには気温の高い、5月の上旬。雲ひとつない青空。

 

 栄口の胸に落ちたひとしずくのざわつきとは無関係によく晴れた空の下、午後の2試合目が始まろうとしていた。