君と僕の12ヶ月 4
「三橋はうちのエースだよ」
言い切る栄口の声を、そのとき、薄い扉越しに聞いていた阿部は知らず息を呑み込んでいた。
阿部が部室に戻ってきたのは、志賀に部誌を渡して帰ろうと校舎を出た時に部室の灯りが消えていないのを目に認めてしまったからだった。結局色々と話し込んでいた為に職員室を退出する頃には阿部が部室を出てからゆうに30分は経過していたというのに、未だ明るいままの室内が気になってしまったのである。 栄口は帰り支度を済ませていたし、1年たちも女ではないのだから着替えにそんなに時間がかかるとも思えない。副主将の片割れの性格からいって電気を消し忘れるなんてこともなさそうに思えたが、あれで栄口は時折妙に天然だったりするものだから、もしかしたらという可能性も無きにしも非ずで。
加えて明日からは合宿で、プール開きはまだ先だ。 敷地内の端にある野球部の部室の電気が灯っていることを気にする者が現れる可能性は低い。 もろもろの思考を巡らせた結果、面倒臭ェと思いながらも阿部の足はカーブしていた。その中には、栄口がまだいたらいたで、文句のひとつも言ってやればいいという考えもあったりするのだが。
去年発足したばかりの西浦高校硬式野球部の部室は実績とは裏腹にかなりおざなりな代物である。プール横の、旧い2階建ての建物が元は何に使われていたのかを阿部は知らない。 トタンの屋根は雨の日などは音がひどく響く。特に部室となっている2階は強い雨だと声も聞こえなくなるくらいだった。それでも野球部の面面は、それなりに広い面積を誇るその部屋に特に不満を抱いてはいなかった。練習前と練習後に雨露を凌いで準備できる場所さえあれば彼らにとっては十分だった。
近くに来てみてもやはり部屋の中は煌々と明かりが付いていて、阿部は脇の階段をゆっくり上っていった。早めに切り上げられたとはいえ野球部の練習はきつい。疲れた体に鞭打って駆け上がるほどに急いでもいない。 しばらくして上りきった小さな踊り場で一息つく。さて、というところでしかし、次の動作に移る前に彼の体の動きは止まった。
声が、聞こえたのだ。
聞き慣れた声とようやく聞き覚えたふたつの声は薄い扉を通して阿部の耳に比較的鮮明に届いた。言わずもがな、その内容も。すぐにドアを開けられなかったのは中身が中身だったからだ。 知らず肩にかけたスポーツバッグを持つ手に力が入っていた。阿部は息を潜めて、一歩扉に近づいた。盗み聞きをしているという意識はまるでなくて聞こえてくる声に耳を澄ませた。
だから、葛西が栄口に問うた内容も、阿部の耳に一言一句、しっかりと届いたのだった。
「………」
阿部は後輩の質問を至極冷静に聞いていた。それは正直、もっともだと思わざるを得ないものだった。
今日の投球練習を思い出す。 葛西を意識しまくって始終オドオドしている三橋の姿が頭に浮かぶ。つい苛々してしまっていつも以上に怒鳴ってしまい、半泣きにさせてしまったことまでもが脳裏に蘇って眉間にきつい皺が寄った。
(………くそ)
三橋に対して加減が出来なかった自分にまた苛々しそうになって、阿部は一度首を振った。 葛西はその場で一部始終を見ていた。そして彼自身の投球はいつもどおりの申し分のないものだった。
(葛西の言いたいことは分かる)
がしがしと乱暴に頭を掻く。葛西が入部してからこのかたの三橋の態度を思い起こすにつけ、阿部は頭が痛くなる思いがする。
三橋の球は遅い。そして、葛西は速球が速い。
速さだけが投手の価値ではない。 無論そんな当たり前のこと、阿部だって分かっている。けれど三橋は自分の速球の遅さに相当のコンプレックスを持っていて、尚且つ、確かにこの国では速い球を投げる投手ほど持ち上げられるのも事実だ。
三橋と葛西は全くタイプの違う投手で、だからこそ2人ともに価値があるのだと何度説明しても弱気なエースの反応はいまひとつで、今日もそのことで怒鳴り散らしてしまったのだった。栄口が仲裁に入ってくれなかったら下手したらどつくくらいはしていたかもしれない。阿部は頭から手を離してぐっと拳をつくって、そしてゆっくりと開いた。 助かったな、と今更ながら思う。後輩の前でそんなことをしたらそれこそ三橋の面子は丸つぶれだ。
(せっかくだいぶマシになってきてたのにな…)
思ったところでドア越しに栄口の、変声期を過ぎてもまだ少しばかり高めの声が聞こえてきて目の前のドアの向こう側に意識を無理やりに引き戻す。 彼は穏やかな声で、逆に後輩に聞き返していた。 阿部は2人のやりとりにじっと聞き入った。
―――その言葉は、さも当然といったていで紡ぎだされた。
「三橋はうちのエースだよ」 「!」
けれど阿部は一瞬、息を呑んだ。
栄口の声はどこまでも穏やかで耳に入ってくる分には気負いも何も感じられない。しかし、それとは裏腹の毅然とした物言いが耳に残った。自分に向けられているわけではないと分かっているのに、その言葉はダイレクトに内側に入りこんできて抉るように阿部の奥を衝いた。
阿部がそのとき感じたのは、一種の感動のようなものだったかもしれない。
確かに、三橋は西浦のエースだ。
そんな当たり前のことを。 けれどこの後輩の前でさらりと言ってのけることは決して、容易くはない。
ガチャリ、とそのときドアノブの回る音がして思考を遮られた阿部はハッと顔を上げる。うっすら開いた扉が目に入ったときには考えるより先に体が動いていて、咄嗟にこちら側のノブを掴んで思い切り引いていた。
「うわっ!」
当然ながら引かれた方の相手は思いも拠らない力に構えることも出来ずに外側に倒れてくる。
「何やってんだ」
それを素知らぬ振りで受け止めて、訝しげな視線を胸の辺りに埋まっている頭に向ける。勢い余って阿部の胸板に顔を激突させた栄口は片手で鼻をさすりながら顎を上向けた。
「ったた、あれ、阿部?帰ったんじゃなかったの?」 「電気点いてっから消し忘れかと思ったんだよ」 「ああ、それで戻ってきてくれたんだ?」
悪ィね、と言う栄口は阿部の腕を掴んで体勢を立て直した。それに手を貸しつつ阿部が彼の向こう側に目を遣ると、目が合った葛西は会釈を返してくる。
「うわ、もう真っ暗だなー」
阿部と葛西の真ん中で、きょろきょろ辺りを見回して無邪気に声をあげた栄口はくるりと後ろを向いて、少しばかり居心地が悪そうにしている後輩を手招いた。
「葛西、ヨシ結構待ってんじゃない?急いだほうがいいかもよ。ここはもういいから行ってやんな」 「……はい。じゃあ、すいません。お先失礼します」 「おう」 「おつかれっした!」 「気を付けて帰れよー」 「はい」
去り際にこちらを向いて礼をして、葛西はそのまま勢い良く靴音を響かせて階段を駆け下りて行く。その後姿が夜の闇に消えるまで阿部と栄口は突っ立ったまま見送った。
辺りは既に夜の色が濃くなってきていた。 やがて後輩の背中が見えなくなると、栄口は出入り口側のスイッチを押した。部屋の電気がパッと消えて一気に光が失われる。月の光くらいしか頼るものがなくなった暗闇の中でドアの閉まる音がする。続けて、ガチャリと鍵のかかる音。
施錠をする栄口を何とはなしに阿部は見遣った。 月明かりだけが照らす彼の横顔。
「………」
先ほどから夜の最中にいた阿部は、部屋の中、蛍光灯の下にいた栄口よりも外の暗さに慣れていて、だからそのときの栄口の表情も、ほとんどはっきりと目に認めることが出来た。
「…帰るぞ」 「え?」 「何ボーッとしてんだよ。さっさと閉めて帰ろうぜ」 「ああ、うん」
明らかに上の空だと分かる返事をして振り返る栄口。その顔にはいつもの笑みが浮かんでいて、一瞬のうちに切り替わった表情を阿部は無言で見つめる。やはりさっきのは、彼が暗闇に油断して無意識にのせてしまったものなのだと胸のうちで確認した。
ほとんど音を立てることなく2人は階段を下りはじめた。夜の学校は静かだった。ゆっくりとくだるふたつの足音がそれでも少しは響くほどに。 2人の間には珍しい、静寂の時間が流れる。栄口が口を開かないので阿部も何も言わなかった。
コツンコツン、とわずかな音ばかりがその場に沸きあがっては消えていく。
(ったく)
結局、見て見ぬふりが出来なくて下りきる少し前、阿部は足を止めた。 大きくため息をつくと、ようやく気づいたのか階段を下りきった栄口がこちらを振り向いた。普段は同じ目線にある相手の、少しつり気味のくせに柔らかい瞳を今は一直線に見下ろした。
「別に間違ったことは言ってねェんじゃねエの」 「!」
見上げる格好で彼は、大きく目をしばたかせた。パチパチと瞬く大きな瞳を阿部はじっと見つめる。
―――だからあんな顔すんじゃねェよ。
胸を突いた本音を口に出すことはしなかった。
「口開いてっぞ」
代わりに指摘すると栄口はばっと両手で口を覆って、驚きを隠そうともしないで手のひらの中で呟いた。
「……阿部、聞いてたんだ」 「お前らドアの前でしゃべってんだもん」 「どこから」 「覚えてねー」
もちろん本当はしっかりと覚えていたけれどそらっとぼけて止めていた足を動かす。止まったままの栄口をすぐに追い越して先を行けば、慌てたように追いかけてくる足音が聞こえた。
「待ってよ阿部!」
後ろからかかった声に足を止めはしなかったけれど、その声がいつもの彼の調子を取り戻している気がして知らず知らずほっとしている自分に阿部自身は気づいていなかった。
―――あんな、泣く一歩手前みてェな顔。
ちらりと過ぎるさっきの表情はそれでも阿部の脳裏に鮮明に焼きついて離れない。 栄口が、笑顔の代償として払っているものをはじめて思い知った心持ちがしていた。
追いついてきた栄口が肩を掴んでくる。 歩くの早いよと文句を言う。 でもありがと、と少しはにかむ。
はにかみながら向けられた彼の笑顔は今まで見たどんな表情とも違って見えて、つい目を逸らした。湧き上がってくる自分ではちょっと信じられない感情に混乱を覚える。他愛もない会話を交わすことに集中して阿部はそれから逃れようとした。
それでも、駐輪場に行って自転車に乗って、別れ道で帰る方向が変わって1人になるまで。上辺は平静を装いつつも、阿部はずっと、妙な焦燥感に駆られていた。
このとき彼は、疼きだした胸をまだ知らない振りでいられたけれど、芽生えたものが花開くのにそう時間はかからないことを、すぐに思い知ることになるのだった。 |