君と僕の１２ヶ月　３

　慌しい４月が過ぎて新緑の５月を迎えれば、西浦野球部はＧＷ合宿に入る。去年と同じ合宿所を百恵は今年も押さえたようで野球部の黄金週間は再びボランティアと野球三昧に始終することに決定した。去年と違うことと言えば、人数が２倍以上になったことだろうか。

　結局、正式な入部期間を経て部員となった１年生は１６人。

　２年と合わせると２６人になるから、部としてはそれなりの規模であるだろう。去年の夏の大会の結果を考えれば少ないと言えるかも知れないが、野球部の時間的拘束の大きさを考えれば妥当な数字である。

　なにしろ西浦高校野球部の練習時間の長さは有名だ。朝の５時から夜の９時まで、３年間野球三昧の生活を送ろうという覚悟のある者のみが最終的に残ったのだと考えると、多いと言ってもいいくらいだった。

　５月に入ったばかりの連休前日、太陽が沈んでしばらく経った頃、プール横の野球部の部室は既に灯りが灯っていた。いつもならばまだ部室に誰一人戻ってきていない時間帯なのだが、合宿前ということで早めに練習が切り上げられたのである。

「じゃあ頼んだ、悪ィな栄口」

「いいよ〜。おつかれさん」

「っつかれっした！」

一足先に帰り支度を終えた２年生は部室にはほとんど残っていない。居るのは主将である花井と副主将である阿部と栄口くらいで、本日の鍵当番である栄口が戸締り等の責任を持つと言って花井を先に帰らせたところだった。

　１年生の声があちらこちらから響く中、花井は部室を後にした。カンカンカン、と階段を降りる音がすぐに室内の喧騒に紛れて聞こえなくなる。

「阿部、部誌終わった？」

「おう」

戸締り確認をはじめていた栄口が、机に向かって鉛筆を走らせていた阿部が席を立ったのを目の端に認めて声をかける。

「じゃあ阿部も出して帰っちゃっていいよ」

「わかった」

「あ、オレ！出してきます！」

部誌を手に、椅子の下に置いていたスポーツバッグを肩にかけようとした阿部に後輩の声がかかる。阿部は自分よりも背の高い愛嬌のある顔にちょっと目をやって、引いた椅子を机の下に戻した。

「いいよ、報告しなきゃなんねェこともあるし」

短く言い残して背を向ける先輩に、相手は「は、はい！」とひっくり返りそうな声で一礼した。

「じゃあオレ行くわ。鍵頼んだ」

阿部がドアとは反対側の窓の前に立っている栄口を振り仰ぐ。栄口が振り返って、

「うん。おつかれー！」

と笑顔で返すと、それが合図だったかのように後輩陣から次々に声が上がった。いつの間にか静かになっていた部屋の中に、幼さの残る短い声がいくつも飛び交う。向けられた阿部は一言、労いの言葉を残して花井と同じようにドアを開けて階段を下りていった。

　カン、カン。

　ゆっくりと聞こえていた足音が聞こえなくなるまで、部室内は今度は妙な静寂に包まれたままだった。

「……ホラ１年、手が止まってるぞー。あと１０分で鍵閉めて帰るよ、オレ」

「ええ？！」

しかし、栄口の一声で途端に部室の中は先ほどの喧騒を取り戻す。取り残されては堪らないと皆一様に着替えや帰り支度のペースを早めた。その光景を苦笑半分に見遣って、最後の窓の確認を終えて自分のロッカーに荷物を取りに戻る道すがら、栄口はポンと目線よりも少し下にある後輩の、肩を叩いた。猫背ではない彼の背中がそれのように曲がってしまっている。

「…先輩」

ハッとしたようにこちらを向く小松義孝の顔を見て栄口は開こうとしていた口を閉じた。

「……オレ、阿部さんに嫌われてるンすかね…」

「ぶはっ！」

が、あまりに悲壮なその風情に堪え切れず吹き出してしまう。

「なっ！笑い事じゃないっスよ！」

「あっはは、ごめんごめん」

拗ねたように口を尖らせるひとつ年下の自分よりも大きな少年を、栄口は可愛いなあなんて思いながら見上げた。

「それはないよ。阿部は誰にだってあんな感じ。なァ？」

同意を求めるように近くにいた別の後輩に顔を向けると、急に話を振られて驚いたのか、彼は一瞬目を見開いてけれどすぐにこくこくと顔を上下する。

「阿部さんって、ちょっと怖いっす」

「だよな！！」

ついでに本音をぽろりと漏らす同級生に、小松は俄然我が意を得たとばかりに彼に同意を求める。怯えるように体を縮こまらせながら共感し合う２人を周りにいる下級生のほとんどが遠巻きに見ているが、誰も彼らの主張に異存はないようだ。

　栄口は、吐息をひとつ吐きだした。

「まァ阿部は確かに言葉乱暴だし、無愛想だよね。でも根は良いヤツだよ」

「…栄口さん、そう言えば仲良いっスよね、すげェ」

「もうオレらは１年付き合ってきてるから、阿部のあーいう態度に慣れてんだよね」

「でも今日三橋さん泣かせてましたよ？！」

振り向いた小松の、肩を掴まんばかりの勢いに栄口は苦笑を隠せない。

「ああ…。アレはまァ、あれで一種のスキンシップだからなあ…」

「スキンシップ、ですか…」

その顔には、あれで？という気持ちがありありと浮かんでいたけれど、栄口はそれ以上は何も言わないで明るい声で切り上げた。

「そう。大丈夫、ヨシたちもそのうち慣れるよ。話してみるといーんじゃないかな。言えば分かってくれるヤツだし、阿部は」

にっこりと、人を安心させる、彼独特の笑い方で栄口は笑う。どことなく緊張感をはらんでいた室内の雰囲気が緩和したことにその場にいる誰も気づかなかったけれど、先輩の言葉に反旗を翻す者もいなかった。

　栄口はというと、壁にかかっている時計に目を向けて殊更大きな声を出した。

「もう５分経ったよ。急いだ急いだ！」

副主将の急き立てに入ったばかりの１年坊主たちは再び慌てて手を動かし始めたのだった。

＊＊＊

　１０分を過ぎたからといって栄口が本気で鍵を閉めて帰ってしまうということはなかったけれど、ほとんどの１年生が大慌てで準備を終えて結局、１０分を過ぎる前にほぼ全員が部室を後にしていた。

　帰り支度をとっくに終えていた栄口はスポーツバッグを部屋の真ん中に置かれている長机の上に置き、畳の上に無造作に置かれている細長いクッションに腰掛けていた。

　ぼんやりしていると疲れがどっと襲ってきて、ついでに眠気までもが襲ってきてごろんと横に倒れてしまいそうになる。その誘惑になんとか打ち勝って後ろの壁に背中を押し付ける。こつんと頭の後ろから音がして、そこが窓であることを思い出した。首を反らして窓の外を見るけれど、暗くて何も見えなかった。

　このまま寝たらさぞかし気持ちよく寝れるだろう、と栄口の目がもう少しで閉じそうになったときそれを遮るかのようにふっと影が差した。

「栄口さん」

名前を呼ばれて目をしばたかせる。パチパチと何度か瞬いたあと、栄口は一度ぎゅ、と目をつぶって見開いた。

「すみません、遅くなって」

「おー、葛西」

影の正体は背の高い後輩だった。うーん、と両手を上に上げて大きく伸びをする。

「葛西で最後か？」

「はい」

「あれ、ヨシは？」

「先に駐輪場に行ってます」

「そっか。じゃあ出るか〜」

よっと体を起こそうとすると、葛西が手を差し伸べてくれたので厚意に甘えることにする。その手を掴んだのはほんの短い間だったけれど、硬くて、ところどころにマメのようなしこりのある彼の手は努力に努力を重ねている者の手だと栄口にもすぐに分かった。

　栄口を立たせると彼は手を離した。斜め上にある後輩の顔をつい見遣った栄口は、そこで彼も自分を見ていることに気づく。

「？」

それは、たまたま目が合ったという眼差しではなかったから栄口は首を傾げて相手を見返す。葛西はその反応に気づいたようで一瞬妙な顔をして口を開いて、けれどすぐにつぐんでしまう。

「どうかした？」

黙っていても拉致があかないので聞いてみるが、彼は言い淀んだ風を隠そうともしない代わりに声を出そうともしなかった。

　葛西の黒目がかったまなこは明らかに何かを問いたそうな色をしている。少し目にかかる真っ黒な前髪。その清潔な黒髪の奥にある瞳を目の当たりにした栄口は、そのとき、彼のクールな印象はきっとこの目のせいなのだなと何とはなしに思う。黒い中心と切れ長のまなじりが、彼の顔全体をシャープに見せているのだ。

　葛西はやはり何も言わない。

　このまま黙って見つめ合っているのも変な話だと思って栄口は彼を出口へと促した。

「とりあえず出ようか、明日も早いし。ヨシも待ってんだよね？」

「はい」

彼の返事ににこりと頷いて机の上のスポーツバッグをひょいと抱え上げる。一度周りを見回して最終確認を済ませた栄口がいよいよ部室のドアに手をかけたときだった。

「質問があるんですけど」

唐突にかけられた声に栄口は驚く。まさかこのタイミングで、と。思ってぐりんと勢い良く振り向くと、葛西はその数歩先に、堂々と、姿勢を正して立っていた。

　思い詰めたような顔でも、困ったような顔でもない。

　軽く頷いて先を促した。彼の口から出てきたのは、栄口にとっては意外なものだった。

「西浦って、三橋さん以外に投手はいないんですか？」

「投手？」

思わず聞き返していた。そしてすぐに目の前の後輩もまた投手であることを思い起こす。それと同時に栄口は内心で少しだけ身構えた。

「花井と沖のこと、阿部から聞いてない？」

「それは聞きました」

葛西は即答して、そしてすぐに口を開こうとして一瞬ためらう。栄口は居住まいを正して彼と正面から向き合った。

　そのまま何も言わないでいる先輩の無言の催促に答えるように、彼は再び意を決したように口を開く。

「オレが聞きたいのは、他に投手がいないから、三橋さんがエースをしているのかってことです」

「………」

栄口が即答を避けたのは相手の言いたいのだろうことを彼が的確に読み取っていたからだ。

　葛西武人は良い投手だ。

　阿部も彼の実力を認めていたし、実際に、先日彼と対峙した栄口もそう思う。実際の試合での投球を見たことはないけれど、小松の話を聞く限り実践でも申し分のない結果を残すことができるのだろう。

　葛西は目を逸らさずに栄口を見てくる。強い意志を持った眼差しだ。

それは自分に自信を持っていて、自分の力を信じているからこそ出来る類のものだ。

　それは、三橋の持つことの出来なかったもの。

「葛西はどう思ってる？」

「オレは…、三橋さんは、エース向きじゃないと思います」

きっぱりと彼は言った。そこに一切の感情を滲ませないようにしているかのように、きっぱりと。ただ彼の中の事実を言ったのだということが栄口にも良く分かった。

「自分の方がエース向きだと思う？」

意地の悪い質問だと理解しながらそれでも栄口は問う。

「………」

さすがに答えに窮する彼に、意地悪を自覚していた栄口は質問の矛先を変えた。

「君は、西浦の試合見たことある？」

「ないっスけど…」

「そっか」

栄口は微笑んだ。意識していたわけではなかった。気づかぬうちに口の端が上がっていた。

「じゃあきっとすぐ分かるよ。三橋がマウンドでどれだけ頼りになる男か」

「………」

一瞬、目を瞠ったエース志望の１年生に、栄口は今度は、意識してにこりと笑みを形作った。

「三橋はうちのエースだよ」