君と僕の12ヶ月 2

 

 「栄口」

 

練習後の部室の喧騒の中、隣でアンダーシャツを脱いでいた栄口に阿部は声をかけた。

 

「んー?」

 

頭を襟から通しながら相手は声だけで返事をする。

 

「さっきのシニアの後輩か?」

「よっと。ん?うん、そう」

 

すぽん、と頭を出してこちらを向いてくる栄口の短い髪が少し乱れている。腕に残ったアンダーを全部脱いでロッカーに投げ込んだ彼がその奥からワイシャツを引っ張り出して袖を通すまでのつかの間、引き締まった上半身が目の前に晒される。阿部は何となく視線をずらした。

 

「仲いーんだな」

「まぁね。ヨシとは結構つるんでたからねー」

 

後輩を愛称で呼ぶ栄口に彼らの間柄を感じ取ってなんとなく面白くない阿部だが、何が面白くないのかまでは分からなくて、うやむやな気持ちのまま自分もアンダーシャツを頭から脱いだ。

 

「あ、そういえば隣にいたあのカッコいい子、ピッチャー志望のサウスポーらしいよ?」

「……」

「え、なに?」

「カッコいーってなに」

「え、だってあの子カッコいくなかった?」

「あ、さっき見に来てた黒髪の方の子でしょー?モテそうな顔してたよねぇ〜」

 

栄口に同意を示したのは阿部ではなく、ひょこりと阿部の向こう側から顔を出してきた水谷だった。

 

「なー!ちょっと話したけどクールっていうかさァ」

「うわー、女子好きそー!」

「なァ!」

 

自分の背中越しに盛り上がる栄口と水谷に冷たい一瞥を送る阿部に気づきもしないで2人は更に盛り上がっていく。

 

「女ってホントクールってやつに弱いよねェ。男は優しさなのに!」

「あはは、水谷は別にクールじゃなくてもモテるだろ〜」

「そんなことないよ〜。オレ男友達以上になれないタイプだし!」

「あー。確かに。水谷くんいいひと〜って言われて終わりそうだよね」

「ヒドイ栄口!褒めるかけなすかどっちかにしてよ!」

「うぜぇ」

 

子犬がじゃれあっているかのごとく言い合っていた栄口と水谷は、真ん中から発された低い声に思わず口をつぐむ。ほとんど同時に声の方を振り仰げば、彼らが頼れる正捕手様がひどく醒めた目で2人を見下ろしていた。

 びくり、と肩を震わせる水谷。

 きょとん、と目を見開く栄口。

 二者二様に見つめてくる2人に注がれる阿部の視線は、まさしく、先程彼らが話題にしていた態度そのもので。

 

「水谷、これだよ」

「うん?」

 

栄口は、阿部と目を合わせたまま反対側にいる同士に呼びかけた。

 

「阿部ってまさしく、『阿部くんってちょっと怖いけど、でもそこが格好いいよね〜!』って言われてそーじゃない?」

 

女子の口真似をする栄口に、水谷はぶっ、と噴き出した。

 

「あぁ?!」

 

阿部はというと、クールを軽く一足飛びした形相で栄口を睨むけれど、向けられた本人はどこ吹く風であーあ、と体を戻してロッカーをパタンと閉めた。話に夢中になりながらもちゃっかり着替えは終えていたらしい。

 

「ホラ、阿部も水谷もさっさと着替えて。今日鍵閉めるのオレなんだからね?」

「ええ!栄口着替えンの早くない?!ちょっと待って!」

 

慌てる水谷を、急げ急げ〜と急かす栄口を目の端で見ながら阿部は盛大に息を吐きだした。

 

「………ほんとお前イイ性格してるよ」

「でないと阿部の隣は務まらないでしょ」

 

ため息混じりにつかれた言葉にすかさず、西浦の良心、頼れるストッパー栄口副主将はその肩書きに相応しい笑顔をにこりと返した。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 構えたミットに投げ込まれる速球。バシィンと響くいい音。ストレート、まずまず。グラブをアウトコースにずらす。大きく曲がる白い球。ミットを動かす。悪くない。

 す、と阿部は今度は腕をインコース側に動かした。軽い間があって振りかぶる相手。まっすぐに向かってきた速い球は、くん、とちょうどバッターボックスの直前で滑りながら横に落ちた。

 

「………」

 

ぱしぃんと音を立てたミットと、その直線上でこちらを向いて頭を下げる相手を一度、交互に見遣る。

 

 なるほどな、と阿部は思う。

 

 球種はストレート、カーブ、スライダー。十分だ。特に最後の、キレのあるスライダーは使える、と阿部は頭を回転させる。彼の頭の中ではすでに三橋と目の前の投手が試合ごとにローテーションされていた。

 

「オーケイ!じゃあサイン出すからその通り投げて。栄口!ちょっと打席立ってくんねェか!」

「はいよ〜」

 

立ちあがってメットを外して声を上げると、マウンド上の相手が頷いて構えの姿勢に入る。内野後方で球拾いをしていた栄口は手に持っていた硬球をバケツにゴロゴロと入れてからバッド片手にホームベースにやって来た。

 

(葛西武人、か)

 

中学時代のユニフォームを身に纏ってマウンドに立つ葛西は手足が長く、なかなかの雰囲気を持つ投手だった。伸びた背筋から伺える自信。感情を読ませない整った無表情。なるほど確かに顔が良いと呼ばれる部類なのだろうと阿部も認めた。

 

(ンなことはどうでもいい)

 

余計な感想を頭から追い出すように2、3度首を振ってバッターボックスに立つ栄口に耳打ちする。

 

「バントで構えてくれ。打てそうなら好きに打っていいから」

「りょーかい」

 

きゅ、とサインを受けたときのように栄口は帽子のツバを指で握った。

 

 4月も上旬を過ぎただろうかという時期の西浦高校第2グラウンド。徐々に延びている陽の入り際、暗い橙色に照らされた、一段高い土の上で1年生ピッチャーが振りかぶる。グラウンド練習の終わりが近づいた内外野ではほとんどの部員が整備に入っていて、彼らの姿も一様にオレンジに染まっている。

 端でトンボをかける者、外野に散ったいくつもの硬球を拾う者。皆手を動かしながら遠巻きにマウンドの方を眺めていた。その中に小柄なエースの姿がないことに、あるいは何人かは胸を撫で下ろしていたかもしれない。

 

 正式な入部期間はもう少し先ではあるが、部活紹介をつい先日終えた西浦高校の部活動は、どこの部も春らしい活気を見せていた。

 野球部も例外ではなく、既に十数名の1年生がいつもの面子の中に交ざって練習を行なったり、見学をしたりしている。

 

 今のところ入部を決意している新入生の中で投手経験があるのは先日栄口の後輩である小松と一緒に来ていた葛西だけで、阿部は、直々に彼の力量を判断しようとしているのだった。

 

 1打席ガチンコ勝負。

 

 ―――それは、結果的には栄口に軍配が挙がった。

 見逃しとファールでツーストライクツーボールにまで追い込んだけれど、最終的に甘く入ったストレートを見逃さなかった栄口が、野手がいたとしてもセイフティーになっただろうというサード側に綺麗に白球を転がしたのだった。

 

「っしゃ!」

 

嬉しそうにガッツポーズを決める栄口を阿部は横目で捉える。いつでも安定している栄口の技術の高さに半ば感嘆しながら腰を上げて葛西を呼んだ。すぐさまダッシュしてくるその姿さえ様になっている後輩は阿部と栄口の前まで来ると一礼して帽子を取り、再び形の良い頭に戻す。

 

「球種はストレート、カーブ、スライダーの3つでいいんだな?」

「…はい」

「分かった。じゃああとは小松とダウンしといて」

「はい。ありがとうございました!」

 

再び頭を下げて、葛西はベンチで後片付けをしている小松の元へと走っていく。小松は葛西とは対称的に唯一の捕手経験者で阿部は既に彼の実力をチェック済みだ。

 

「どうよ?」

 

去っていく後姿を見送っていると、栄口が阿部に声をかけてきた。西浦高校野球部の正捕手である阿部から見て、ピッチャー志望の1年生はどう評価されたのか気になるようだ。

 阿部は一度彼を振り返って再び葛西の背中を目で追った。小松と2人でブルペンに向かって行く後姿は1年にしては体格が良く、堂々としている。加えて礼儀正しく顔が良い。

 

「………」

 

またもやどうでもいいことに思考が飛びそうになって阿部は渋面を作った。幸いなことに、後ろにいた栄口には目の前の相手の癖の強い後ろ髪しか見えなかった。

 

「…1年のはじめであれなら上出来だな。速球は速いし、コントロールもまずまずだ。一番良いのはスライダー。あれは高速って言ってもいいくらいだな。キレがあって決め球として十分使える」

「ふぅん。阿部にそこまで言わせるなんて、本当に彼すごいんだね」

「まァな。あれだけ投げれりゃあスカウトも来たんじゃねーの」

 

なぜ敢えて西浦を選んだのか、という疑問が阿部を過ぎる。けれどそれは自分だって例外ではないし、田島という前例もあるのですぐに意識の外に流れた。

 

「まァでも、速さだけなら榛名のが速いし、コントロールは三橋が断然上だ」

 

付け加えて栄口を振り返ると、相手は阿部をじっと見返して、そして嬉しそうに笑った。

 

「そっか」

「三橋と葛西で今年の夏は勝ち上がれる」

「あとはキャッチ次第だね?」

 

口調に自信を滲ませたところに栄口の茶茶が入って、阿部は嫌そうに顔をしかめた。

 

「てめェ、ちっとは捕手を労えよ」

「はいはい、レガース外すの手伝ってあげるから大人しくしててよ」

「………」

 

目の前でしゃがみこむ小ぶりな頭のつむじ辺りをものすごい形相で睨んだところで、栄口にはもはやそんなものは通じない。阿部は諦めてあからさまにため息をつくに留めて、出会ったときと変わらない、彼の優しい色合いの短く刈られた髪をぼんやりと眺める。

 

「でもオレちょっと安心した」

「あ?」

「葛西って球速いし体格もいいしさ。実力もあるし。…三橋の反応が気になるっていうか、大丈夫かなって思ってたんだけど」

 

カチャカチャと阿部の足元で栄口は手際良く音を立てていく。彼の言わんとしていることを察した阿部は口を閉じる。足の重みがなくなった。 栄口が顔を上げた。

 

「阿部がそう思ってんなら心配ないよな」

「!」

 

ニカ、と向けられる満面の笑顔。

 

 ―――そのとき。

 大きなうねりを伴って湧き上がってきたものの名を。

 阿部が掴むのは、もう少しだけ先の話になる。