君と僕の12ヶ月 17

 

 ひゅおう、ひゅおう

 

 音を立てて巡る風がさすがに冷たい。

 けれど前にいる人物が構わずに抜けるような青の中を進んでいくので栄口もそれに従う。

 

 学校で今、一番高いところにいる。

 

 この辺りの大きな建物なんて今いる校舎くらいだから必然的に一番空の近くにいることになる。周りを見渡せば一面の青に時折薄い雲が混じった冬の空が遥か彼方にまで続いていた。

 

「栄口!ここ、ここ!」

 

満面の笑みでぶんぶんと手を振られたら寒いなんていっていられない。それに風さえ吹かなければ降り注ぐ陽光を遮るものなどないのだから、むしろ校舎の中より暖かかった。

 

「今、泉呼んだからもーすぐ来るぜっ」

「えっ、泉?」

 

パカリと持っていた携帯を閉じて見上げてくる真ん丸の瞳。いつも好奇心だとか期待だとかにキラキラ輝いている彼の瞳は、試合になるとまるで違う様相を帯びる。

 

 球を追う視線は鋭く、バッターボックスで投手と対峙するときには不敵に相手を射抜くその眼差しに、自分達は何度励まされ、そして助けられてきただろう。

 

「あれ、まずかった?」

 

けれどここは球場でもなければ今は試合中でもない。可愛く小首なんて傾げる動物っぽい動きに栄口の口元に笑みが浮かんだ。

 

「いや、まずくはないけど。授業中なのに悪いなって」

「だいじょーぶだろ!」

「田島もごめん、サボらせちゃったな」

「ぜんっぜん!!むしろカンゲイ!」

 

首をぶんぶん振る相手の本気度に、今度は笑い声もこぼれた。

 

 田島と栄口は、2人して屋上のフェンスに寄りかかってダランと足を伸ばす。少しだけ西に傾いた太陽にあますところなく、ジーンズを履いた足も、長袖の上にパーカーを着ただけの上半身も、体全部が照らされてやはり暖かくて、今日が風の強い日でなくてよかったと栄口は思う。なにせ外に出る予定なんてまるでなかったから上着は教室に置いたままになっている。

 

 ちらりと横を見た。

 

 隣の田島は気持ち良さそうに目を閉じて両腕を上に伸ばして伸びなんてしているけれど、その格好は栄口よりもずっと軽装だ。いつもの黒いズボンとワイシャツ。下に着ている薄い青はもしかしたらTシャツかもしれない。

 

 申し訳ないと思う気持ちが胸にむくむくと湧き上がってくる。田島だって、屋上に来る予定なんてなかったはずだ。

 

 でも同時にあの時、自分を見つけてくれたのが田島で良かったと栄口は心底思っていた。

 

『アレ、栄口何してんの』

『………田島』

 

自分がどんな顔をしているか想像する余裕もなかったあの時。けれど田島は一度、じ、とこちらを見ただけで、

 

『よっしゃー、サボるぞ次!』

 

ぐっと拳を高く揚げて、半ば強引にこの場所に連れて来てくれたのだ。

 

 ほとんど人の通らない、校舎の端っこにある階段の踊り場はとても静かでとても冷えていて、昼なのに薄暗くて。

 穏やかな日差しの中で冬の心地よい冷気を感じる今いる場所とは全然違った。

 

「あったけェなー」

「そうだね」

 

2人並んで日向ぼっこ。田島は何も聞かないし、何も知らない。あんな人気のないところで呆然と立ちすくんでいた自分をただ、陽の下へと連れ出して、何も言わずに隣に座っていてくれる。

 

 なんだよ田島、野球以外でもカッコいいじゃんなんてわざと考えて胸にツンと染みてくるものを誤魔化した。

 

「田島さー、告白されたことってある?」

「あるよ」

 

即答だ。そりゃそうだろう。聞いておきながら栄口も答えを分かっている問いだ。それでも話しながら整理したかった。今の栄口の頭の中と胸の中。あまりにごちゃごちゃし過ぎていて収拾が全くついていない。

 

「じゃあ告白したことは?」

「ある!」

 

これも間髪入れない返事で、そのてらいない潔さに、栄口はそっか、と笑う。

 

「好きだったの?」

「好きだった!」

「なんで?」

「なんで?!えー、なんでだろ。可愛かった?」

 

そこは疑問形なんだと心の中でツッコミを入れる。いつの話だろうかと憶測するが、今田島に彼女がいるという話は聞いたことがないから、おそらく中学時代なのだろうなと目安をつけた。もしかしたら、小学生という可能性だって或いは彼ならばあるけれど。

 

「田島ってやっぱモテた?」

「モテたなー」

「ぶはっ。自分で言っちゃうのかよ」

「今だってモテてるぞ!」

「ふっ、まあそうだねェ」

 

田島が言えばこんな台詞も嫌味にならない。田島はきっと生まれてからこのかた、モテ街道を驀進してきたに違いない。類稀な身体能力を存分に生かす野球への情熱。人懐っこい性格に、愛嬌のある顔。疑いようのないスター性。

 荒シーの田島悠一郎と言えばこの辺りの野球少年で知らない者はまずいなかった。部活で野球をやっていた奴だって名前を聞いたことがある者は多いはずだ。

 

(うちの中学の女子とかにも、時々騒がれてたもんなァ…)

 

「つうか、栄口もモテるだろ」

「えっ」

 

回想になんて浸っていたらとんでもないことを言われて、栄口はびっくりして隣の田島をまじまじと見つめる。思ったよりも近い位置で見返された田島の丸い目がじぃ、と一直線にこちらを見ていた。

 

「栄口はさ、好きな奴いねーの?」

「ええっ?!」

「さっき」

 

両の目で栄口を視止めたまま、きっぱりした口調で田島はいきなり核心をついてきた。

 

「なんか、そーゆー顔してた」

「………」

 

絶句した。田島はあの時、自分の表情から何を読み取ったというのだろう。栄口自身も判別がついていない何かが、彼の冴えた瞳には映っていたというのだろうか。

 

 誰かの目を怖いと栄口ははじめて思った。

 

 相手の目の黒い部分に自分の今の顔が映っている気がする。それを見るのが怖い。怖いのに、しっかりと捕まえられていて逸らすことが出来ないのだ。

 

 田島は、ちょっと考えるように眉間に皺を寄せた。きゅっと刻まれた眉と眉の間のいくつかの線。咄嗟に阿部を連想した。

 しかしすぐにそれを解いて、丸い瞳をぐりっと開いたまま、まるで挑むような表情がこちらに向かって来て。

 

(――――え)

 

疑問なんて抱く間もなかった。

 

(…阿部ッ!)

 

ちゅ、と小さな音を立てて触れるだけですぐ離れたものは、どんなに一瞬だったとしても、紛れもなく。

 

 しかし田島はその一瞬はまるでなかったかのように、至って普通の顔でツンと人差し指で栄口の目と目の間をつついた。

 

「栄口、皺寄ってる」

「………なッ!!」

 

腹の減っている金魚だってこんなにパクパクしないぜ、ってくらいに栄口は口をわなわなと震わせた。

 

 口と口の一瞬の触れ合い。

 目の前の田島の、満足そうな顔。

 その瞬間、頭に浮かんだ別の顔。

 

 手に負えない情報ばかりが頭の中を縦横無尽に走り回ってただ目を見開いて、口をパクパクして。

 そんなことしか出来やしない。

 

 なのに田島は、何もかもを分かったような顔をして、やっぱりなって彼らしい表情でニィ、と笑った。

 

「やだった?」

「は?」

「だから、さっきちゅーしたじゃん。やだった?」

「……や、よく、わかんない…」

 

あまりに唐突過ぎて。相手、田島だし。男だし。一瞬だったし。

 

 カタコトのまま言葉が頭の中を巡る。

 

「じゃーもっかいするか!」

「はァ?!やだよっ!」

 

田島がよろしくない笑顔でそんなことを言うので、さすがに間髪入れずに否定すると、

 

「なんで?」

 

これまたすぐさま聞き返されて栄口は狼狽する。

 

「え、だって…。キスとか、好き同士でするもん、だし…」

 

口に出したはいいものの、言っていることが夢見る少女染みている気がして最後の方は尻すぼみになってしまった。

 

「まーねーェ。じゃー栄口誰としたいんだよ」

「は?!」

「さっき栄口やじゃないっつってたけど、ちゅーしたときすげェダメ!って顔してた。ぎゅーってここ、寄ってたし」

 

ツンツン、とまたもや田島の指先が眉間を弾く。固い指だ。

 

「…?」

 

何が言いたいのか分からなくて、相手を見上げる。いつもは背の低い田島を見下ろすことの方が多いけれど、今は栄口はコンクリートに尻をついていて、一方田島は膝をついている。フェンスに片手だけ指をかけて片方の手は栄口の眉間をつついて。さっきキスされたくらいだから距離が近い。

 

 後ろはフェンス、左に田島。

 逃げ場は右にしかないのに動くことは敵わなくて。

 指先一本で栄口を押さえた田島は、試合中でもないのに、バッターボックスに立っているわけでもないのに、あの、見る者をゾクリとさせる不敵な笑みを湛えて、一言。

 

「それってちゅーしたい相手がいるってことだろ」

「!」

 

ドクン、と心臓が高く鳴ったのが分かった。同時に連鎖反応のように浮かび上がるひとつの像。さっき、無意識のうちに呼んだ名前。

 

(………うそ)

 

頭と心がひとつの線で結ばれそうになる。脳裏に蘇る見知った人物と田島の言葉が重なって、栄口はひどく動揺した。

 

「あ」

 

だから田島の声は耳を素通りしそうになったけれど、

 

「泉!」

 

続けて呼ばれた名前に栄口は我に返った。慌てて前を見遣ると、泉がこちらに向かって歩いてくるところだった。用意周到にコートを着込んだ小脇に、栄口のダウンジャケットを抱えている。

 

「何してんだおまえら」

 

呆れた表情を隠そうともしないで泉は栄口に上着を手渡した。つるつるした生地が温かい。

 

「泉ー、オレのコートはー?」

「知らね。他のクラスにまで取りに行けるかよ。今授業中だって分かってんのか?」

「ごめん…」

「栄口が謝ることじゃねーだろ」

「でも、」

「いーからいーから!」

 

田島をサボらせたのは自分だと進言しようとしたら当の田島に遮られてしまう。泉は、2人の様子を交互に見下ろして、盛大なため息をついて片眉を上げた。

 

「で?」

「?」

「だから、話は終わったわけ?なら帰るぞ寒ィから」

「あ、と、……うん、多分…」

「なんだよー、折角サボったんだからもーちょっとひなたぼっこしてこーぜー!」

「やりたいなら1人でやれ」

「泉つめてー!」

 

知るか、と田島の駄々を一蹴して泉は栄口に両手を差し出した。立ちあがらせてくれるつもりらしい。

 

「…ありがと」

 

衝撃の連続で力の抜けきった体がぐいんっと力強く引かれて足の裏がしっかりとコンクリートを踏み締める。固い。地に足を着いている感じがする。

 ジャケットを着込むと思いのほか温かくて、体が冷えていたことを知って反省した。風邪なんてひいていられない。シーズンオフの冬だって野球小僧がやるべきことはたくさんあるのだ。

 ふと自分よりも軽装である田島のことが気になって横を見た。四肢を大きく伸ばして軽いストレッチをしている。寒そうな様子は見えなくて栄口はほっと胸を撫でおろした。

 

「行こうぜ」

「おうっ」

 

踵を返した泉に田島が元気良く続く。栄口もその後ろから2人を追う。

 

 追いながら、先程掴みかけたものをもう一度思い起こした。泉と田島が一歩先で何事か話しているのが見える。1人にしてくれたのは、きっと故意なんだろうな泉のことだからと栄口は思って、ふわりと温かいものが胸に広がった。

 

 持って来てくれた黒のダウンジャケットが暖かく栄口を包み込む。陽の光が表面を反射してキラキラ光って眩しい。

 顔を上げた。

 先程とさほど変わらない位置にある太陽が見渡す限りの場所に満遍なく降り注いでいる。薄い青の中にひとつだけ存在感のある強烈な光の塊は直視するには眩しくて、栄口は目をつぶった。

 

 顔を正面に戻して目を開けたとき、栄口は、先程掴みかけた自分でもちょっと信じられない事実と向き合うために、凛と冷えた空気を大きく吸い込んだ。