君と僕の12ヶ月 18

 

 日差しが優しい。

 朝の静かな、透き通った空気が街を包み込んでいる。

 昇ったばかりの朝日。住宅街の屋根並木がその淡い光に反射する。夜が明けたばかりの街に人の姿は見受けられない。休日ともなればなおのこと。

 

 時折冷たい風がひりひりと肌を刺すけれど、それさえ心地良いと感じるくらい栄口の内側は熱を帯びていた。コートの両ポケットに入れていた手を出して頬にあてると指先だけがひどく冷えていることに気づく。

 

 緊張してんのかな、と苦笑い。

 

 すぐさま再びズボッと服の中に手をつっこみ、やや前傾姿勢で栄口はゆっくりと歩道を進んでいく。

 

 今日は朝から練習試合で、現地集合と決まっている。余裕を持って家を出たから遅めに歩いても集合時間の20分前に着く電車に乗れるだろう。はぁと息を吐きだしても白いもやがあらわれるほどには冬はまだ到来していなかった。

 

 昨日からずっと考えていることがあって、本当はちょっと寝不足だ。でもその代わりに分かったことがあって、そのせいで眠くはない。むしろ少し興奮しているかもしれない。興奮と言うか、緊張と言うか。栄口は顔を上げた。陽の光が眩しいけれど暖かい。今日は試合日和になりそうだと思うと足が急く。でも本当はそれだけが理由じゃない。

 

 駅に近づくごとに阿部との距離が近づく。

 待ち合わせなんてしていないけれど、阿部は時間ギリギリになんて絶対来ない。それは自分も同じだけれど。

 

 踏み締める地面がもどかしい。

 でも蹴ってしまうには踏ん切りが付かない。

 

 一歩一歩、車の通らない道路を横切り、民家の石壁の角を曲がって栄口は早足で駅を目指す。

 

(会いたい)

 

無性に。それが答えだって、田島なら歯を見せて笑うのだろう。

 

(これってやっぱりそういうこと、なのか…?)

 

それでも未だに疑問形なのは仕方がない。何せ自覚したのがつい昨日なのだから。

 相手も自分も男、という問いは半日間さんざんしたのでもういいだろう。どちらかと言うと未だに疑問なのは。

 

(なんで阿部?)

 

もちろんもともと嫌いじゃないし、ぶっきらぼうなだけでいい奴だということも知ってる。顔だって男前の部類だ。

 

 そうこうしているうちに駅が見えてきて、近くの踏み切りがカンカンと音を立てるの聞いて思わず走り出す。この電車に乗らなくても集合時間には十分に間に合うのだけれど、あの急かしてでもいるかのようなリズムが栄口の足を動かした。

 

 ピピッと人っ子一人いない改札を駆け抜けると同時に電車が駅内に入ってくる音がして階段を駆け上がる。朝日が反射してきらめく車体がキィィ、と大袈裟な音を立てて止まったところで栄口もホームにたどり着いた。一段抜かしで上ったために少し息切れだ。阿部なんかに見られたら絶対、バカにされる。

 

 体力ねェなって。

 

「!」

 

想像して噴き出しそうになった顔は一瞬のうちに別の形に彩られる。自分の目がみるみる見開かれていくのを栄口は感じた。

 

 だって。

 だって目の前に。

 

「なに驚いてンの」

 

トゥルルルル

 

鳴り響く発車の合図が耳を素通りした。

 

「…や、早いね、阿部」

「お前こそ」

 

言いながら阿部は階段を上ってすぐのところで立ちつくす栄口のもとにゆっくりと近づいてきた。妙に遅いその行動をまじまじと見つめる栄口は、どくんと胸を打つ音を他人事のように聞きながら、じぃっとこちらを見つめてくる阿部の目を信じられない思いで見つめていた。

 

 何て言えばいいのか見当もつかない。

 視線に縫いつけられでもしたかのようにその場を動けない。

 

 阿部は、いつもこんな目で自分を見ていただろうかと、ただ栄口は自問することしか出来なかった。

 

 こんな目で。

 見られていることが居たたまれなくなるような、そんな。

 そんなまるで、マウンドに向けるみたいな熱の篭った目で?

 

 その間にもユニフォームの上に黒いダウンジャケットを着込んで、スポーツバッグを斜めに掛けた阿部の汚れたスニーカーが近づいてくる。

 

「一本逃したじゃねェか」

「や、それ、オレのせいじゃ」

「おまえのせいだよ」

「なんで」

 

言ってから栄口ははっとする。予感がした。

 

「ああ、阿部ッ」

「なに」

 

慌てて名前を呼んで呼び止めた。律儀に立ち止まる阿部に、栄口は大きく息を吸い込んで向き合う。遮るもののない駅のホームを冷たい風が駆け抜けて阿部の髪が横になびいた。無精をしたのか、珍しく少し伸び気味の前髪の奥からこちらに向けられる眼差し。

 

「………」

 

胸の奥が、すごくすごく熱くなって、たまらない衝動に駆られて。

 

 先程逃げるように呼んだ名前を栄口はもう一度口にした。

 今度は逃げるためじゃない。覚悟を決めるためだ。

 

 その瞳の向こう側にあるものを知りたい。

 そして、知って欲しい。

 

「……いっこ気づいたことあんだよね、オレ」

 

ぴくりと阿部の片眉が上がった。

 

「オレ」

「待て」

 

しかし続けようとした言葉は阿部の有無を言わさぬ声に遮られる。

 

「なんで!」

「おっまえ、こっちはなァ、もうずっと前からそうだったんだよ。それを後から出てきて掻っ攫おうとすんじゃねェよ!」

「なにそれ。時間なんて関係ないじゃん!」

「お前が好きだよ」

「………!!」

 

キッ、と睨む上目遣いに被さるようにもたらされた言葉に栄口は文字通り固まった。

 

「……卑怯者」

「なんとでも言え」

「ずるくねー?!オレ結構覚悟決めてきたのにさ!」

「だからオレの方がもうずっと前から信じらんねーくらいいろいろ我慢してきてンだよ!!」

「そんなの知らないよ!」

「あぁ?!」

 

『間もなく、電車がまいります』

 

一触即発状態の2人の間にあくまで穏やかなアナウンスが流れる。見ればさっきの電車が去った方向から新たな車体がホームに向かって走って来るのが遠くに見えた。

 

「………」

「………」

 

気勢を削がれてしまったら後は気恥ずかしさが募るばかりだ。徐々に近づいてくる電車の音のうるささを有り難く感じた。ガタゴト音を立てて駅に吸い込まれる大きな車体を横に、2人は何も言わずにしばらく見詰め合う。時間が時間だからか、開いたドアから降りて来る者は一人もいなかった。

 

 やがてプシュウと外を遮断して電車は反対方向へ走り去った。

 

「…次のは乗らないと」

「だな」

 

沈黙に耐えられなくて独り言のように呟くと、阿部は頷いて一歩栄口に近づいた。栄口は固まったままそれを待った。もはや観念するしかない。だって結局、自分も相手も同じなのだと知ってしまったのだから。

 

 誰もいない駅のホームでぎゅ、と抱き締められる。

 恥ずかしい。恥ずかしいけれどそれに勝る言い様のない幸福感が腹の底から沸いてきて、栄口はどうしていいか分からずに阿部の肩口に額をくっつけた。

 

「好きなんだけど」

「うん」

「…お前も?」

「うん」

 

そのまま阿部が黙るので、栄口も何も言わない。阿部の腕の中は温かくてずっとこうしていたい気持ちに駆られる。とくんとくんと動く相手の心臓の音が胸から直に伝わってくる。きっと自分の音も相手に伝わっているだろう。

 

 我慢をしていた、と阿部は言った。

 もうずっと前からと。

 

 いつからだとか、どうしてだとか、聞きたいことはたくさんあったけれど今は言葉に出来ない。

 幸福感と共に胸に落ちるひとしずくの影ももちろん忘れていない。ひとりの後輩の形をしているそれはけれど、栄口自身の問題だから今この場に持ち出す気など毛頭なかった。それは栄口が自分でケリをつけなければいけないことだ。

 阿部の腕の中でひとり決意を固める栄口の体をきつめに抱き締めてくる阿部は、或いはもしかしたら彼の胸のうちをある程度憶測しているかも知れなかったけれど。

 

 突如、電車の到来を告げるアナウンスが響く。

 ぴくりと互いの体が反応して、つかの間の抱擁がどちらからともなく外される。

 

「…行くか」

「うん」

 

ちらりと線路の向こうを見遣った阿部はひょいと栄口の腕を引いた。

 

「!」

 

勢い傾く体を阿部のもう片方の手が支えて、ほんの一瞬、ふわりと柔らかなものが風と一緒に額を過ぎる。すぐに離れたその感触はけれど栄口の顔を真っ赤にするのに十分過ぎた。それを見た阿部が、お前なァと呆れた口調でわざとらしくため息なんかつく。

 

「こっちが照れンだけど」

「………!!」

 

ゴオオオオ、と流れ込んできた車体がホームを揺らして、声を上げるタイミングを逸してしまった栄口は口をパクパクさせるが、阿部は素知らぬ顔で手を取って、そのまま回れ右をして停車したばかりの電車に向かって歩き出した。

 

 なんて奴だ、と憎まれ口のひとつでも叩いてやろうと口をあけた栄口だけれど、そのとき、気づいて。

 

 阿部のごつごつした固い手がひどく冷たいことに気づいてしまって。

 栄口の方はむしろ熱いくらいだから、その冷たさが余計に感じられて驚いたように顔を上げた。

 後姿の阿部の表情を見ることは出来なかった。だけども自分の手を握る冷たい手がぐんぐん前へ進んでいくのを見るだけで、もう、胸がいっぱいになってしまったから。

 

 相手への文句を引っ込めて代わりに栄口は、冷たく汗ばんだ阿部の手を、答えを返すようにきゅうっと、握り返した。

 

 

 

 

FIN