君と僕の12ヶ月 16
振り向いたどんぐりみたいな目が、一際大きく見開かれる。それを確認して視線をスライドすれば、対照的な切れ長の目が険しい色を湛えてこちらを見ていた。 睨む、と言い直したが適当だろう。
けれど持ち主は口を開かずに、きつい眼差しだけを残して阿部の真横を素通りする。触れたら静電気でも走りそうな緊張感がそのとき2人の間を駆け抜けたけれど、実際に弾けることはなかった。 きつく唇を引き結び、黒目をやや細めてこちらを見据えたまま通り過ぎた葛西をそれ以上追うこともせず顔を上げれば、背中を見せて去っていく後輩の姿を見つめる栄口の呆然とした顔が目に貼り付いた。
『負けねー』
明らかに自分に向けられた台詞が阿部の頭の中をまわる。勝率は五分だろうか。それとも自分の方が部が悪いだろうか。栄口の表情を見ただけでは判断がつかない。 けれども恐らく栄口は葛西を受け入れていない。それだけは感じ取ることが出来たから内心ほっとしていた。でなければ葛西はあんな厳しい視線を自分に向けなかっただろうし、栄口だってこんな悲壮な表情をしていないはずだ。
葛西の背中を見送る栄口の表情から読み取れるものは多くはないが、状況が阿部に事態のあらましをおおよそ伝えた。葛西が栄口を、何のためにこんな人通りの少ない場所に連れてきたかなんて明らか過ぎる。恐らく葛西は目的を達したのだろうがコトは良い方向には進まなかったと見て間違いなさそうだ。 そのことにほっとしていることに多少の嫌悪感を覚えた。弾みだったとはいえ、後ろめたさも正直、いくらかある。 それでも彼の想いが現時点で実らなかったことに阿部は安堵を感じないわけにはいかなかった。
「阿部…」
細い声で名前を呼ばれて意識を引き戻すといつの間にか階段の上の栄口が途方に暮れたようにこちらを見ていた。一歩一歩、覚束ない足取りでゆっくりとくだってくる細身が力をなくしている様子に顔をしかめる。良く見ると少し、痩せたかもしれない。その原因を思って、自分の軽率な行動に改めて阿部は拳を握り締めた。
最後の一段を降り切った栄口は一度、葛西の姿が消えていった方向に目を遣って阿部に向き直り、力なく笑う。
「阿部に言われたこと、ホントだったな…」
肩を落とす相手に阿部が言ってやれることなんて何もない。その資格が自分にはないとすら思う阿部はただ彼を見つめることしか出来なくて握り締めた拳に力が入る。短く切ってある爪が手のひらに食い込んだところで痛みを感じることさえ出来やしなかった。
「オレ」
伏せられた栄口の瞳に阿部は眉を潜めた。思いのほか睫毛が長いなんて今更思うのは彼がそんな仕草をするのは珍しいからだ。阿部の胸に、予感と呼ぶには明確すぎる予想が過ぎった。
「オレ、どうすればいいんだろ…」
過ぎったそのときには既に確信がもたらされて、
「オレに聞くな」
準備の足りなかった阿部は本音を偽ることが出来なかった。ぴくりと栄口の瞼が動いてすぐさま言ったことを後悔する。それでも、彼の口から葛西に関する相談を聞きたくなかった。
「そ、…だよね」
目を伏せたまま2、3度睫毛が重なる。水気こそ帯びていないけれど濃い陰影に覆われた目元。そんな顔をするなと思うのは阿部の我侭だ。けれども、何よりそれが葛西の所為だというのが我慢ならなくて、阿部はすぐ傍にあった手首を衝動的に引いた。
「っ」
引かれた栄口の目が見開かれていたけれど、阿部だって驚いていた。
互いを見合ったまま一歩も動けない。 ただでさえ静かな校舎の端に落ちる沈黙に孕むのは緊張感。 聞こえてくるのは隙間風くらいで、感じ取れるのは絡み合う視線の奥の戸惑いと、握った手首の冷たいのか熱いのかも分からない感触だけ。
長くも短くも感じられた一瞬。 破ったのは阿部だった。
「……悪ィ、お前、足元ふらふらしてっとこけるぞ」 「え、あ、うん」
ありがと、と慌てたように栄口は言ってパッと自らの手を引き抜く。ぎこちなく離された阿部の手の中には、人の肌の温もりが残っていた。
***
なんて顔してんだよ。
教室に戻った自分を迎えた花井の顔に書いてあることを正確に読み取った阿部は眉間の皺を隠そうともしないでその隣の席にドカリと座る。
「ちょっとぉ、阿部どこ行ってたんだよー」
その斜め前、椅子の背もたれに肘をつき、花井と向き合う形で座りながらデザートのシュークリームを貪っていた水谷がうっとおしく絡んでくるので、阿部は無視を決め込んだ。机の上で両腕を組み顔を埋めてしまえばいくら水谷と言えど阿部の意図を読み取るだろう。
「寝ちゃうのかよ!」 「阿部、メシは?」 「……後で食う」
花井の問いに短く答えると、後っていつだよ、という呆れ声とオレは無視かよ!と喚く声が教室の喧騒を縫って耳を掠めた。
「阿部疲れてんのかな」 「そうなんじゃね。放っておいてやれよ」 「分かってますー。じゃあ花井さっきの質問答えてよ」 「なんの話してたんだっけか?」 「だからーァ、自分の友達を好きになった彼女を許すか許さないかって話ですよー」 「アーはいはい」
またくだらねェ話してんな、と思いながらも耳を傾けたのはちっとも睡魔が襲ってこなかったからだ。水谷の言う通り疲労感は濃いのに、頭の中は冴えていて無駄にまわる。本当のことを言えば腹も減っていた。
「許すも許さねーもしょーがねェだろ」 「だよねェ」 「つーかお前彼女なんかいたっけ」 「いないよー、中学ン時の友達の話。なんかシュラバなんだって」
修羅場という穏やかでない言葉は、水谷の口から聞くとどうにも間の抜けた響きを帯びてその辺の床にぽとんと落ちる気がする。
「彼女にさ、友達紹介したらそっちを好きになっちゃったんだってさ。でも友達には別に彼女いんだって」 「めんどくせーな」 「でもその子、結局その友達に告白して付き合うことになったらしい」 「ありがちだな」 「まーねェ。オレの友達と、その相手の彼女はすげェ怒っててさー、絶交したって言ってたけど、なんかそんなの変じゃね?」 「何が?」 「オレがそいつだったら彼女の勇気に拍手喝采だよ」 「はァ?」
呆れ果てた花井の声がため息混じりに吐きだされる。おそらく眼鏡の奥の目を盛大に歪めて目の前の間の抜けた、けれどそれなりに整っている顔を見ていることだろう。
「振られンのが嬉しいってどういう感覚だよ」 「嬉しくはないけどさァ、なんかカッコいーじゃんその子」 「そうかァ?」 「だってさァ。相手彼女いンだよ?超リスキーでしょ。今のオトコも失くしちゃって新しいオトコも手に入らないかもしれなくてさ。しかもどう転んだってその子が悪者扱いされんの目に見えてンのに」
それでも好きって言えちゃうんだよ、と水谷の声が熱を帯びる。いつの間にか花井の反論は聞こえなくなっていた。
「いろんなことに遠慮して一番欲しーもの手に入れらんないのってカッコワリィよねエ」
だからその男気に拍手なわけよ。女の子だけど。
と、語る水谷の口調はいつもの吹けば飛ぶような軽いもので。
けれど花井はそれに軽口で応酬することはなかったし、腕で作られた暗闇の中で阿部は、思いがけず切り込んできたその言葉を生身で受け取めなければならなかった。
「…オレ、お前が女にモテる理由なんか分かったかもしんねェ」 「?」
花井の発言に賛同する気はさらさらないけれど、阿部もまた、締まりのない顔の裏側にある水谷の、阿部自身は決して持ち得ないだろう性質を今、垣間見て。 そしてそれが今の阿部の中に、ひとしずくの変化をもたらしたことを認めないわけにはいかなくて。
ため息をつく代わりにゆっくりと瞬いた瞼はまるで、決意の証のようだった。 |