君と僕の12ヶ月 15

 

 

 手の中の紙切れが重い。

 正確に言えば紙切れというには上等すぎる、封筒だが。

 

 重い足取りで校舎の中を歩く栄口の手に握られているのは綺麗な水色の、モノトーンの封筒。至極シンプルなそのデザインは逆に、送り手の真剣な想いを伝えるのに何よりも相応であると言えるだろう。

 その表側、ちょうど中央に丁寧な筆跡で書かれた宛て先が栄口の足取りをこんなにも重くしていた。

 

 葛西武人様

 

 2度は見られなかったから受け取ったそれを裏にして傷を付けないように教科書の間に挟んでいた。

 送り主は、1年の頃から仲の良かった女子生徒で2年になってクラスが変わってからも擦れ違う度に言葉を交わしているし、試合の前日には激励のメールも送ってくれる。気が利いて、でもおしつけがましくは決してない、控えめに笑う頬に出来るえくぼが可愛い子で、本当のことを言えばちょっと気になる時期もあった。

 淡すぎる想いは練習練習、のせわしない日々に紛れて時の流れと共に完全に風化したけれど、それでも彼女が大切な友人であることに変わりはない。

 

 だから、えくぼの見えない緊張した面持ちで手渡されたものを拒否することがどうしても出来なかった。

 自分で渡した方が良いと思ったけれど、葛西と彼女に接点などあるはずもない。首の辺りまでうっすら赤く染めて、ただ気持ちを伝えたいだけなの、と手のひらにのせられた四角い薄紙を栄口は迂闊にも握ってしまったのだった。

 

 そしてそれは今まさに、栄口の右手を占領している。つるりとした紙の表面が、まるで存在を主張するかのように指に吸いつく。重く心にのしかかるその感触をしかし手放すことは出来ないのだ。

 

(…昨日あんなこと思った罰、とか)

 

そんな詮無いことを考えてしまう自分が嫌で仕方がない。葛西の気持ちが、阿部の勘違いならば良いと。そうではないだろうと半ば確信しながらも願ってしまった罰なのかと。

 必要以上に自分を責めてしまうほどに朝イチで背負わざるを得なくなった重荷は今までずっと、栄口の胸中を支配して離さない。

 

 窓から降り注ぐ太陽の光が眩しい。

 昨日の昼から降り始めた雨は夕方になる頃にはすっかり上がって、1日を経た今となってはここ数日の曇天が嘘のように再び上空は清清しい青を取り戻している。

 廊下越し、窓枠に切り取られた申し分のない青空と太陽。

 

 栄口は、自分の心と綺麗に反比例するその明るい光を羨ましげに見遣った。

 

 

 1年の教室は、どこか懐かしく栄口の目に映った。

 去年使っていた廊下も今ではほとんど通る機会などない。階全体が昼特有の喧騒に満ちていきいきと活気付いている。擦れ違う生徒の顔が、たったひとつしか違わないのに幼く見える気がするのはたかだか1年とはいえ自分がひとつ、学年が上がったことの証なのだろうか。

 

 目的の教室にたどり着いた栄口は、ちょうどクラスに入ろうとしていた下級生に声をかけて葛西を呼んでもらった。窓際で何人かと昼をとっていた彼はクラスメイトに声をかけられてこちらを向き、パッと顔を輝かせる。隣にいた小松が同じくこっちを見て少し驚いたような顔をしたのが目の端に映った。

 

「勇人さん!どうしたんですか?」

 

ガタガタと豪快に机にぶつかりながら出入り口へとやってきた葛西に栄口は曖昧に笑う。けれどすぐに笑みを引っ込めてきゅっと奥歯を噛み締めた。

 

「これ」

 

何と言って良いか分からなくてそっと封筒を差し出した。

 

 その瞬間、葛西の表情が180度変わるさまを、栄口は罰を受ける罪人のようにしかと見据えていた。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 「なんスかこれ?」

 

人気のない階段の踊り場で、2人きりになってから葛西はようやく口を開いた。あの後、雰囲気をガラリと変えた相手は何も言わずに栄口の腕を取って、問答無用で歩き出した。およそ後輩が先輩に対する態度ではないそれを栄口が咎めなかったのは無論後ろめたさのせいだ。

 

 葛西の視線の鋭さに入部してきた当時の彼を思い出す。切れ長の黒目がちな瞳が涼しげで、つい魅入ってしまう程に印象的だ。以前も彼の目を近くで見て、同じように思った覚えがある。

 

「ソレ、オレの気持ち知っててやってンですか?」

「!」

 

刷りかえられた質問にハッとした。ぐいと捉えられたままの右腕を葛西は見せしめのように栄口の顔の前に持ち上げた。

 

「知らねェ名前っスね。2年の人っスか」

「…1年の頃のクラスメイトだよ」

「そうですか」

「……葛西とは面識ないから、いきなり渡されても困るだろうからってオレに、」

「それ余計に迷惑です」

「………」

 

きっぱりと言い切られて栄口は返す言葉もない。手の中にある紙切れが鉛のようだ。目の前にある葛西の名前と、裏側にある彼女の名前が無言のうちに自分を責めている気さえしてくる。

 

「…もういいです」

 

しかしそれ以上は何も畳み掛けずに、スッと目の前の封筒が抜き取られる。腕は捕われたままだ。葛西の目が一瞬伏せられる。栄口は息を呑んだ。

 

(葛西……)

 

自分が彼に酷いことをしたのだと、そのとき。

 

 本当の意味で思い知った。

 

「でもその人、策士ッスよ。オレ、そういうのキリがないんで全部断ってるから」

 

しかし顔を上げた葛西は、愕然とする栄口に気がつかずにいっそ明るい口調で笑みさえ浮かべる。

 

「でも勇人さんから渡されたら、さすがに断れねーっスもん」

 

形の良い、彼の柳眉が少し寄る。無理に作られた笑顔はとても不自然で栄口は目の前の相手から目を逸らすことが出来なかった。ぎゅっと掴まれた腕が強く握られる。それでも痛いほどの力ではないのに、どうすることも出来ない痛みがそこからじわじわと広がってあっという間に全身にまわった。

 

「勇人さんはオレの気持ち知ってると思ってました」

「………」

「オレが告白しなかったのは、そういう風に見てもらえてないの知ってたからです。もっとオレのこと知ってもらってからのがいいと思って」

 

一拍置いて葛西の瞳に力がこもる。なけなしの笑顔を引っ込めた彼はつい先程までとはまるで別人の目をして栄口をロックする。

 

「だけどこういうことされンの我慢ならねーからはっきり言う」

 

睨むように見据えてくる強い眼差しに先刻のような不自然さはまるでなくて、栄口は、押し寄せてくる彼の想いに呑み込まれてしまいそうな感覚すら覚えた。

 

「オレ、勇人さんが好きです。2度とこういうことしないでくれますか」

 

一直線に投げられた直球。受け止めるには一途過ぎて、避けたところで逃げられない。

 

「…わかった」

 

そんな言葉しか返せない。栄口は愕然とした。こんなにも一途に向けられる視線に、自分が何も返してやれないことを、そのときはっきりと悟ってしまった。

 

「でも、オレは…」

 

言わなければと思う。今の気持ちを、彼が与えてくれた想いの分、自分もせめて正直に返さなければと栄口は必死に言葉を紡ごうとする。何を言えばいいかまるで見当がつかないけれど、それでもこのままにしておくわけにはいけない。それは余りに、相手の一途さに対して不誠実だ。

 

「オレ」

 

けれど言葉は、強い語調に遮られた。明らかに今までと違うトーン。怒ったような低い声に、栄口は葛西を見返す。しかし彼の目は既に自分を見てはいなかった。

 

「葛西?」

「オレ、負けねーっスから」

「え?」

 

握られた手首に強い力が宿ったかと思うと、パッと離される。唐突な行動に途惑う栄口に構わず、葛西はそのまま栄口の横を素通りする。

 

「葛西!」

 

思わず名前を呼んで振り返った先を見て、栄口は大きく目を見開いた。

 

 階段を下りていく後輩の後姿のその向こうに、こちらを見上げて直立している阿部がいた。