君と僕の12ヶ月 14

 

 野球部の後輩が自分のことを好きなのだと聞いた。

 しかも人づてに。

 

 図ったかのようにここしばらくの晴天が一変して、数日前から空の上は怪しい雲行きになっていた。雨こそ降っていないものの灰色の雲が一面に立ち込めてただでさえ低く感じる冬の空がより一層重い。どうせならばひと雨でもふた雨でも来てくれた方がまだマシな気さえする嫌な天気だ。

 栄口の心模様は空模様に比例するかのように急降下中で、窓際の席というのは快晴の時はこの上なく気持ち良いけれど一転して曇り空となると圧迫感に押しつぶされそうになる。人知れず何度目か知れないため息がまた、口をついて出た。

 

 壇上の教師の声が右から左へ抜けていく。

 黒板の数式と自分のノートの間にいつの間にか大きな差が出来ていることにハタと気づいて栄口はひとり慌てた。

 数学は苦手なのに、ぼうっとしている場合ではない。2年になって担当が志賀でなくなってから更に苦手意識が強くなってしまった身に余所見は禁物だ。

 国立志望の栄口にとって数学を捨てるという選択肢はなるべく避けたい道だった。

 

(また阿部に聞かなきゃいけなくなるな…)

 

ふと思って、思考にずんと重りがかさ増しする。ひとつ躓くと芋づる式に解答が迷宮入りになってしまうので、分からない部分がある度に数学と言えば阿部、と頼みにしてきたチームメイト。

 しかしあの日以来、なんとなく阿部と顔を合わすのも気まずいと思ってしまう自分がいる。

 

『アイツ、明らかにお前のこと好きだろ』

 

正面切って挑むように放たれた言葉をあのとき、呆れるほど無防備に受け止めてしまった栄口は受け止めたはいいがまるで消化できなくて、そこに含まれた意味の重さが数日間ずっと体の内側に溜まっていく一方だった。

 

(葛西が、オレのことを…)

(それを、何で阿部が?)

(阿部、なんでか怒ってたよな…)

(つか、何でオレ?)

 

疑問符をいくつ並べても答えなどひとつも出て来ない。ぐるぐると頭の中を廻り続ける阿部の言葉と彼自身の表情に葛西本人の姿が絡みに絡んでいつの間にか数字も教師の顔も教室に居並ぶクラスメイトたちの後姿も、栄口の目の前から消えていた。

 

 そうして意識を再び授業へと戻す頃には黒板とノートとの間には更に大きな隔たりが生まれているのだ。

 何度もその非生産的ループを繰り返していた栄口の頭の中は、2時間目の授業が終わる頃にはヘトヘトに疲れていた。昼休みまではあともう2時間もある。

 ぐったり、と道のりの遠さを思って思わず机に突っ伏したその頭に、ポンと載せられたのは。

 

「…泉?」

「ひでー顔」

 

顔を上げると載ってきた手にくしゃりと髪をぞんざいに掴まれた。何とも失礼な言葉を向けてくる泉の可愛い顔は、呆れと不機嫌が半分づつくらいの割合で交ざっている。

 

「行くぞ」

「イタッ」

 

挙句の果てにでこピンまでされて、痛くて両の手で額を押さえたところを泉の手に掴まれる。

 

 え?え?え?

 

 口どころか目までパクパクしそうな栄口の動揺など意にも介さず泉は問答無用で教室を出た。扉近くのクラスメイトに「よろしく」などと言っている辺り首尾は既に整えているらしい。

 そのまま泉に引っ張られて休み時間の騒がしい廊下の人波を縫って、どんどん教室から遠ざかっていく。取られた左手首はしっかりと捕まれてはいたけれど少しも痛くはなくて、栄口はむしろどこか安堵を感じていた。

 

 

 「で?」

 

連れてこられたのは予想に違わず野球部の部室だった。栄口の持つ鍵で部室の中へと入った2人は、泉の誘導で部屋の奥にあるちゃぶ台に差し向かいに座る。

 壁を背にして胡坐を掻く泉がかの日の阿部とだぶって、全く似てない2人なのに既視感に襲われそうになるのを、腹に力を入れて栄口は押し留めなければならなかった。

 あの日のことを鮮明に思い出すのは少し息苦しい。

 

『アイツ、明らかにお前のこと好きだろ』

 

もう何度脳裏を過ぎったか知れない阿部の言葉が再び容赦なく頭をもたげて栄口をあの日に引き戻す。

 

 皆が帰った後の2人きりの部室。

 緊張をはらんだ静寂。

 怒気の潜んだ真剣な目。

 信じられない言葉。

 

 責めるような阿部の声色にこもった妙な熱が彼の声を通して葛西を浮かび上がらせ、その言葉の真意を思うたび体の奥底に熱が灯る気がして栄口は途惑う。

 

 だいたい阿部だって、あんなに本気な眼差しで他人の告白なんてしなくてもいいのになんて八つ当たり以外の何者でもないけれど、分かってはいてもなじってやりたい気持ちにだってなる。

 

 あの目とあの言葉が頭から離れてくれなくて葛西はもちろん阿部とすらうまく接することが出来ていない気がして栄口は怖かった。

 

 ちゃぶ台の向こう側に座ってこちらを見たまま固まっている栄口を泉はしばらく待っていたが、その表情の変遷を見て待機態勢を解除する。短い、けれど有無を言わせない潔い泉の声が静かな部室に響き渡ると栄口はハッと大袈裟に顔を強張らせて声の主にようやく焦点を合わせた。

 

 何か言いたげに一度は開いた口だが、か細く震えただけで結局何も言わないうちに閉じてしまう。伏せられた睫毛が頼りなく数度、瞬いた。

 

 ハァ、というため息は泉のもので、それには胸のわだかまりを吐きだすというよりは覚悟を決めたような潔さがあった。

 

「葛西だな」

「!」

「見てりゃ分かる、そんくらいは。告白でもされた?」

 

あまりの驚きにただ目を見開くことしか出来ない栄口を見遣って、泉はちょっと笑った。

 

「バレバレだろ」

「……ウソ」

「つってもまァ、それが恋だって気づいてるのはオレと花井と阿部くらいだな」

 

 恋。

 

 当然のように、ごく、自然な形で滑り出てきた単語に栄口の心臓は鷲づかまれる。

 

「恋…」

 

思わず舌に乗せたところでまるで味が分からない。

 

「意外だった?」

 

顔を上げると泉が真っ直ぐにこちらを見ていて、栄口は素直にこくんと頷いた。そりゃそうかと途端に相好を崩す端整な表情がやさしい。やさしくて、栄口は、胸のなかで渦を巻いていたとぐろがブツリと音を立てて切れたのを止めることが出来なかった。

 

「いずみー」

「おー」

 

ゴツンと机がおでこを打つのにも構わず台の上に突っ伏す。すぐにくしゃくしゃと思いのほか大きな手のひらがあやすように髪を掻き分けて頭皮をくすぐった。体が火照っているのか、冷えた机の感触が肌に心地良い。古びてかさついた木の匂いがする。

 

 これらのあらゆる要素が栄口を少しだけ落ち着かせてくれた。

 

「……葛西が、オレを好きだって、阿部が」

「阿部?」

 

さすがに阿部の口から聞いたとまでは予想していなかったのか、ピタリと手の動きが止まる。栄口がぼそぼそと先日、今まさしく自分たちが座っているこの場所で交わされたやりとりをかいつまむと、「阿部ねェ」と感慨深げに泉は呟いた。

 

「葛西に告られたわけじゃねーんだ?」

「ん」

「…葛西も災難だな。まァでもオレも、葛西は栄口のこと好きだと思うけど」

「………」

 

押された太鼓判は泉印なのがまた重い。

 

「……オレ」

「オレに聞くなよ」

 

紡ごうとした泣き言は先手で刺された。口調とは裏腹にポンポンと頭の上で緩くはねる手はずっとやさしいから栄口は口を噤んだ。

 

 どうするべきかは、自分で決めるしかない。

 

「付き合うにしろ振るにしろ、栄口が出した答えなら満足なんじゃねェの相手は。ってまだ本人からは告白もされてねーのか」

 

泉がもっともなことを言ってややこしいなと悪態をつく。栄口はすっかり見落としていたその事実に思わず顔を上げた。

 

「そうだよな…。これで阿部の勘違いだったらオレなんかバカみてーかも」

「だな」

 

真顔で即答されてなぜだか笑いが込み上げてくる。これだけ振り回された阿部の言葉それ自体が間違いだったら、ここ数日の自分は本当にバカみたいだと栄口は思うが、同時にそうだったらいいのに、とも思わずにいられなかった。

 

 それが相手に対してどんなに薄情な願望か分かっている。

 それでも葛西と顔を合わせる度に彼の想いの片鱗を自分で見つけてしまうことを栄口は恐れていた。

 

 パラパラと、とうとう灰色の空から雨粒が落ちてきてトタン屋根が時折音を立てた。部室の大きな窓のあちらこちらにぽつぽつと雨水がぶつかってはガラスを下へと伝っていく。

 

「あー、とうとう」

「降ってきたね」

「まァこれくらいなら部活までには止むんじゃね」

「…そうだね」

 

願っていたひと雨がようやく訪れてもやはり、栄口の胸を重くする空模様は簡単にそのひと雨と共に流れていってくれそうにはなかった。