君と僕の12ヶ月 13

 

 「おつかれさまです!」

 

すっかり日が落ちた西浦高校第2グラウンド。学校の敷地の内と外の区別もつかなくなるくらいに辺りが真っ暗になる頃、野球部のマネージャーである篠岡千代の明るい声が夜を割いて響き渡る。

 その頃にはヘトヘトになっている部員たちにそれは福音さながらの効果をもたらして、とぼとぼと下を向いて歩いていた多くの顔が途端に歓喜に溢れた。

 暗いグラウンドの中にぽっかりと灯るベンチの白熱灯の下でニコニコしている彼女の姿は手に持つ餌がなくても十分に神々しい。

 

 つまり、おにぎりの時間である。

 

 自分用の2つのおにぎりを手に取って篠岡に礼を言った栄口はふいと首を廻す。目的の人物はすぐに見つかった。人一倍嬉しそうに居並ぶ三角の群れを見つめている横顔にぶ、と破顔してしまう。目をキラキラさせていまかいまかと順番を待つさまはまるで小学生のようでそれがとても微笑ましかった。

 栄口は、自分と相手の分の麦茶を手にして篠岡を囲む1年の塊に近づいた。

 

「ヨシ、ちょっといい?」

「先輩?もちろんいいっスよ!」

 

手招きすると小松はお尻の後ろに尻尾が見えそうな笑顔を載せて近づいてきた。2人して集団から少しだけ離れた端っこに腰を据える。寒気に晒された土はユニフォーム越しでもひやりとした冷たさを伝えてくるけれど火照った体にむしろありがたい。

 

「今日の具は何スか?」

「シャケだよ」

「いいっスねー。オレ今日はシロっす…」

「あはは、昨日田島にそそのかされてたもんなー」

「げっ見てたんスか?!ヒデーんッスよ田島さん!オレを踏み台にしてちゃっかり1位ッスよ!!」

「まァ田島にだまされるのお前くらいだからなァ」

「エェッ?!」

 

小松の天真爛漫さを田島はいたく気に入っているようで、なにかにつけちょっかいを出されては被害を被っている小松なのだが、おいしそうに白米にぱくつく姿からは言うほどの悲嘆さは感じられない。まあ相手が相手なので気にかけてもらえるだけでも嬉しいと、彼でなくとも1年などは皆思うのだろう。

 

「で、何かあったンすか?」

 

ひとつ目をペロリとたいらげた小松は既に二つ目のシロに突入中だ。

 

「ヨシから見てさ、最近の阿部と葛西ってどう?」

 

周りから攻めても仕方がないので単刀直入に本題に入る。ゴクンと喉を鳴らして米を飲み下した小松はちょっと困ったように眉を寄せた。

 

「……どう、スか…。それってやっぱり先輩もなんか変だなって思ってるってことっすよね?」

「オレっていうより三橋がね」

「三橋さんですか?」

「そう。なんかピリピリしてるって。で、今日の練習でオレも注意して見てみたんだけど、よく分かんなくってさ」

 

だから同じポジションである小松に聞いたのだと話を振る。かじりかけのおにぎりを手に持ったまま、彼は上目に視線を巡らせた。

 

「あー…。なるほど。確かにピリピリしてるよーな感じも…」

 

ふうんと相槌を打ちながら栄口はこの後輩には珍しい歯切れの悪さが気にかかった。こちらが相手を見ているのに小松の目線が別の方向を向いているのにも違和感があった。

 

「………」

「まァでももともと武人と隆也さんはあんまり野球のこと以外しゃべんないっスからね。大丈夫だと思いますよ」

「そっか」

 

分かった、と栄口は努めてなんでもないように話を切り上げる。

 

「ならいーんだ。ちょっと気になっただけだから。ありがとな」

 

ポンと肩を叩くとハッとしたようにこちらを向いてぶんぶんと首を振る。それは明らかに何かを隠している素振りだったけれど、気づかない振りで立ちあがった。

 

 相手に言う気がないものを無理やり言わせるのはフェアじゃない。それに投手と捕手の間の事柄に対して内野手である自分が口を出していいものかどうかも実のところ判断がつかない。

 つかないけれど、わざわざ自分を頼ってきてくれた三橋の相談を栄口が無下に出来るはずもなかった。

 

「ま、ヨシもちょっと気を付けて見といてくれる?」

「分かりました」

「じゃあ行くかー。今日の氷オニは田島にひと泡吹かせてやれよっ!」

「えー!オレには無理ッス!!」

 

情けない声を出す後輩の背中をバシッと叩いてベンチ下に戻りながら、やっぱり本人に直接聞くしかないか、と栄口は腹をくくった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 「阿部さァ、葛西となんかあった?」

 

部活が終わって着替えも終えて、畳の上に胡坐を掻いて部誌と向き合っていた阿部はやわらかくかけられた言葉に視線をもたげた。

 奥の窓を閉め終えてちょうどこちらを向き直った発言者であるところの栄口が窓に背を預けて阿部を見ている。深い紺色のコートがすっかり暗くなった窓の外の夜とともすれば同化してしまいそうだ。

 気づけば部屋の中は静かになっていて、阿部と栄口以外の部員たちは皆帰ってしまったようだった。かち合う視線に先の言葉を反芻して、阿部はその静けさの理由を知る。

 

「なんかって?」

 

動揺はなかった。止まっていた手を動かしながら逆に聞き返す。栄口が返答に詰まるのが気配で分かった。言葉を選んでいるのだろう、場に沈黙が満ちる。紙面を上滑る文字の音がその隙間を埋めるように紡がれていく。

 

 埒があかないと思ったのか、畳の上を歩く音が近づいてきた。ロッカー群から少し離れたところに置いてある小さなちゃぶ台の向こう側。部誌に向かう阿部の視界の端にジーンズの裾が見えて、そのまま膝の後ろに隠れる。

 

「三橋がさ」

「三橋?」

 

思わぬ名前につい顔を上げたところにこちらを向く相手の顔にぶつかって一瞬たじろぐ阿部だが、無表情で遣り過ごして目で先を促す。

 

「阿部と葛西が最近ピリピリしてるって、オレに言いにきたんだよね」

「三橋が?」

「そうだよ」

 

さすがに目を瞠った。自分達の間にある明確な隔たりにけれどまさか、三橋が気づいているとは想像もしていなかった。小松ならばあるいはと思わないでもなかったが、それだってうまく曖昧に遣り過ごしてきていたつもりだったのだが。

 

「ついでにヨシも、何となくだけど感じ取ってるみたいだよ」

「………」

「阿部はさァ、自分が思ってるより隠し事出来ないタイプだと思う」

 

くしゃりと目の前の穏やかな目尻が下がる。咄嗟に反論しようと開けた口をしかしそのまま閉じてしまう。その笑い方は反則だ。

 

「別に言いたくないならいいんだけどさ。でもホラ、投手相手に阿部がぎこちないと、三橋が心配しちゃうじゃん」

 

分かるだろ、と水を向けられたら尚更言い訳出来なかった。人一倍周りの態度に敏感で、人一倍投手というものに執着する阿部の相方。

 

 少し考えれば三橋が気にすることくらい分かったはずだった。

 阿部も葛西も互いの気持ちを暗黙の了解済みで、だからこそ捕手と投手である時ですら事務的なやり取りしかしなかったし、それ以外では尚のこと関わりを持とうとしなかった。

 部の誰よりも自分達の近くにいる三橋がそれに気づかないと高を括るほど阿部は彼をみくびっていない。

 

「…悪かったよ」

 

それほどに自分には余裕がなかったのだと初めて思い至って阿部は少しばかり愕然とする。恥じる気持ちと三橋に詫びる気持ちが一緒くたになって出たぶっきらぼうな謝罪を、栄口は謝ることないけど、と受け流してくれた。

 

 あとほんの数行で終わる部誌を書き上げるために握り直したペンシルが手のひらにひどく冷たい。練習終了後には熱気すらあった部室の中に冴え冴えとした寒さが満ちて、汗の匂いも室内を包み込む冷気にいつのまにか呑み込まれていた。

 栄口がコートを羽織っていることに内心ほっとしながら阿部は自分もロッカー前の長机に置きっぱなしにしているダウンジャンパーを早いうちに着なければと考える。白のワイシャツの下に薄い長袖を着ているだけの格好では体が冷えるばかりだ。なにせ阿部は、高校の3年間風邪さえ引くわけにはいかないのだから。

 

 最後の一文字を書いてトンと芯を机に押し付けた。本日の仕事はこれで終わりなのだがハイサヨナラ、というわけにもいかない。栄口が、阿部の仕事が終わるのを待っていたのは先の謝罪に続くものがあると判断したためだろう。

 それは当たらずとも遠からずだ。

 しかし、正直阿部はどう切り出すべきか未だ図りかねていた。目の前で待つ男は微塵も想像していないのだろうけれど、彼のいう「なにか」のまさしく中心に栄口はいる。

 

 けれど黙すれば黙するだけただ待つのだろう相手を思うと腹を決めないわけにもいかなくて、パタンと大きく音を立てて冊子を閉じたのを合図にした。

 

「三橋が気にするようなことはなんもねェ」

「それは分かってる。三橋だって、自分のせいで2人の仲がこじれたなんて思ってないと思うよ。ただ不安なだけで」

 

1度言葉を切った栄口は、ちょっと考えるように斜め上を見上げた。

 

「オレも、2人の問題なんだろうから2人で解決すればいいと思ってるし」

 

暗に原因までを自分に告げる必要はないと彼は言う。

 

「まァでも、三橋がビビッちゃうのは阿部も本意じゃないだろうからケンカもほどほどにね」

「別にケンカじゃねェよ」

「そっか。阿部も葛西もなんつーか時々一途過ぎるからさァ」

「………」

「お互い譲歩したりとかしなそうだし。あ、でもそれは2人の長所でもあるよな」

「……お前、」

 

まずい、と阿部は思う。そんなに嬉しそうに自分と葛西を並列して語るなんて阿部にとっては思いもかけないことだった。その表情が向けられているのが自分なのかそれとも年下の投手なのか分からなくて、確かめたくてたまらなくなる。

 

「何であいつに名前呼ばせてるわけ」

「は?名前?」

 

何とか矛先を変えてはみたが、完全に離れることは出来なかった。唐突な問いに栄口は驚いたように目をパチパチと瞬かせる。

 

「なんでって、それは葛西が春の中間で」

「知ってる」

「……よね」

「だから何でそれを許してんの。しかもあいつだけ、なんつー余計な条件付きでよ」

「なにそれ。阿部だってヨシに名前で呼ばれてるじゃん」

「それこそバツゲームの延長だろ。第一オレは別に小松にだけ許してるわけじゃねェよ」

 

確かにその通りだった。ただ、阿部のことを名前呼び出来る猛者が今のところ小松しかいないというだけで。

 

「ちょ、待って、何でこんな話になってんの?」

「もうお前アイツに名前で呼ばせんな」

「はあ?」

 

理不尽な要求に栄口の形の良い眉が片方だけ上がる。広いおでこを圧迫するそれは栄口の内心を如実に表していた。

 

 まずいと阿部は思っている。

 さっきからずっと思っている。栄口を見つめながら、その混じりけのない瞳に見返されながら、流れ出てくる言葉を止められないのが何よりも拙かった。

 

「わかんねーのかよ」

「何の話だよ?!」

「アイツ、明らかにお前のこと好きだろ」

 

しまった、と思ってももう遅い。

 

 栄口の瞳が大きく見開かれた。ぽかん、と何を言おうとしてか開かれた口がそのままになっている。

 

 阿部は心底自分に舌打ちしてやりたかった。

 好き、という言葉を今、明らかな意図を含んで使ってしまった。だから栄口は聞き流すことが出来なかった。

 後輩が先輩を慕うという意味合いをそこに一切含めなかったから。

 

 栄口は鈍感じゃない。

 むしろ、他者の機微に非常に聡いタイプの人間だ。

 

 間近で言い放たれた告白を、彼は完全に正しく受け取ったのだと阿部は認めないわけにはいかなかった。

 栄口の視線が空を彷徨った。どこを見れば良いのか分からないといったていで右往左往に遊んで、やがて阿部で止まる。目と目が交錯したのはほんの僅かな間で、次の瞬間、堰を切ったように彼の頬が赤みを帯びていくのを無論阿部は見ているしかない。

 

「………」

「わり、オレ、先帰るね……」

 

よろよろと立ち上がる栄口の心がここにないのは明白だった。机に手をついて向こう側へ体を回すその腕を出来ることなら掴んでしまいたいと強く思うのに微動だに出来ない。

 

 向けられる紺色の背中。

 一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと畳の上を進んでいく痩身。

 途中、机の上に置いてあったスポーツバックをぎゅっと握って肩にかけると栄口は無言のまま入り口へと向かっていく。

 

 ガチャリと鳴ったのはしんとした室内に無情なほど響く開閉音。

 

 ようやく阿部の呪縛が解けたのは、栄口が何の挨拶もなく扉を閉めて夜の向こうに消えてしばらく経ってからだった。