君と僕の12ヶ月 12

 

 

 三橋が思いも寄らない相談を栄口に持ちかけてきたのは、時折、思いついたように木枯らしが瑞々しい色を失った葉っぱを散らすようになった頃だった。

 

 いくつかの大きな大会を終えた野球部はこの1年の反省を洗いざらい見直して、来るべき時のための練習に打ち込んでいた。すなわち、打撃及び守備の強化、そしてその基盤となる基礎体力の向上である。

 季節が移り変わって、グラウンドの周りが青々とした緑から寒々しい枯れ枝へと趣を変えても野球部の一日は変わらない。ただし、夏の間中朝5時開始だった練習時間は1時間ずらされた。

 

 その日は冬のはじめにしてはまだ暖かく、とても天気が良かった。昼食を終えて眠りに入っていた泉と机を半分分け合ってクラス日誌を書いていた栄口は、ぴょこぴょこ、と覚えのある髪型がドアの辺りで見え隠れしているのに気づいた。あちこちはねた茶の強い髪、あれは。

 

「……?」

 

不思議に思って入り口を見ると、次の瞬間、あまりにも見慣れた顔が教室の引き戸からひょこりと顔を出した。

 

「三橋?!」

 

思わず大きな声を上げてしまう。とはいえ昼休みの教室なんていうものが静かなわけはなくて、その声は喧騒に掻き消された。が、栄口が自分を見ていることに気づいたのか、三橋は視線をあちらこちらへと遊ばせながらもちらちらとこちらを見てくる。

 

「…三橋?何キョロキョロしてんだあいつ」

「あ、泉。ゴメン、起こした?」

「いンや、ちょうど目ェ覚めたとこだった」

 

机の上で組んだ両腕に顔を乗せたまま、泉は三橋を振り返って大きなあくびをする。しばらくドアの前で挙動不審にわたわたしている相手を見つめてから、栄口に向き直った。

 

「栄口、呼ばれてる」

「え、オレ?」

「ん、多分」

 

行ってこいよと言い置いて再び口を大きく開けた泉はすぐに腕の中に顔を埋めてしまった。眠り足りないらしい。

 

 栄口は半信半疑のまま席を立って教室後方の出口へと向かった。

 

「三橋ー、どーした?」

「おお、オレ、栄口、くん、いい?」

「うん、いいよー。なに、何か相談?」

「んん、ん」

 

どうやら泉の言っていたことは当たりだったようだ。栄口は教室を出がてら窓際後方を振り返る。昼の日差しが泉の丸まった背中と長めの黒髪に反射して暖かそうだった。

 

「栄口、くん、うれしそう?」

「うん?」

「笑ってる…」

「あ、オレ笑ってた?」

 

こくんと頷く三橋に、そっか、と栄口は笑顔で返した。

 三橋の通訳といえば田島、というのが西浦の常識のようになっているけれど、泉もまた去年彼らと同じクラスで、三橋の側に居たんだということを思い出したのだ。泉に降り注いでいた暖かい太陽の日差しが自分の胸までもを照らしてくれるかのように、栄口はあたたかい思いに駆られる。

 

「いこっか、三橋」

 

嬉しさを隠さないまま促すと、つられて三橋も笑顔を見せた。

 

 

 西浦高校野球部の部室の管理は副主将に一任されており、鍵当番は交代制になっている。今日が栄口の番だったのは幸運だった。阿部が担当日である場合、阿部に鍵を借りに行くか他に場所を探すかしなければならない。

 わざわざ三橋が栄口の元にまで来るのだから相当重要な相談事だろうと栄口は推測していた。少なくとも、三橋にとっては。だったら話を聞く場所として部室は最適で、且つ、三橋の相談とくれば阿部関連である確立が高い。

 

 栄口はいつものように鍵を開けて、三橋と共に部室に入った。誰も部屋の中にいるはずはないのだが念のためキョロキョロと室内を見回す。

 

「うん。誰もいないな」

「さかえぐち、くん、ごめんね」

「ん?」

「わざわざ…」

「ああ、いいよ〜。今日オレが鍵当番で良かったよ。わざわざ昼休みにうちのクラスまで来たってことは、あんまり人に聞かれたくない話なんだろ?」

 

ニカっと笑って栄口が聞くと、三橋は困ったようにあちこちに視線をやってそれから、こくんと小さく頷いた。

 

「それにそーゆーのオレに相談してくれるの、嬉しいし」

 

バッと三橋の目が栄口を直視する。真ん丸の瞳に浮かぶのは驚きと戸惑いと、じわりと滲む嬉しさだ。すぐに逸らされたその眼差しはそれでも確かに栄口の心に刻まれた。

 

「とりあえずその辺座ろっか」

 

窓をひとつだけ開け放して栄口は畳に腰を下ろす。冷たい風が入り込んでくるけれど、午前中に陽の光をいっぱいに受けた部屋の中は暖かく、窓ひとつ分程度の風ならば心地良いくらいだった。

 目の前で行儀よく正座している三橋と胡坐を掻いて向き合って、栄口は、「それで?」とゆるやかに切り出した。

 

「え、と、オレ、…」

「うん」

 

恐る恐る話しはじめる三橋の目は黒ズボンの上に置かれた両手の甲に注がれている。その手がきつく握られているから、続きをせかすような真似はしない。

 待っていると、三橋がちらちらとこちらを見てきたので栄口はいつも彼にするように目をちょっと見開いてみせた。

 

「気に、なることが、あって…」

「気になること?」

「うん。…え、と。阿部くん、と、か…葛西くんの、ことで…」

「阿部と葛西?」

 

思わず聞き返してしまう。驚いたように声を高めた栄口に、しかし三橋は怖がる様子は見せないでこくこくと頷いた。

 

「さい、きん、ちょっと、変…?」

「変?」

「よく…わかんない、けど…。ピリピリ、してる気、が…」

「え、喧嘩?」

 

つい口を挟んでしまった栄口に、三橋はふるふると首を振った。喧嘩というわけではないらしい。

 

「怒ったりとかは、してない、と、思う。でも、なんか、あん、まり笑わない…し…。話して、るとき、も…、ちょっと………、…」

「……ぎこちない感じ?」

 

言葉に詰まった三橋の言葉尻をニュアンスで拾いあげてみると、どうやら的を外れてはいなかったらしい。三橋はゆっくり、顔を上下に動かした。

 

「阿部と葛西かー」

 

栄口は2人の様子を思い浮かべる。思えば彼らの接点は投手と捕手という点くらいのもので、普段親しくしている素振りはなかった。葛西はともかく阿部はもともと、仲が良い後輩と呼べるのはおそらく小松くらいのものだろうが。それだって大体は小松からのアプローチであることが多い。

 

 新人戦も秋季大会も、阿部のリードの元、葛西は良いピッチングをしていた。バッテリーとしての彼らは特に問題ないように思えたのだが、2人の距離感までは気にしていなかったなと栄口は思い返す。

 阿部も葛西もマイペースというか、我を通すところがあるからそこで衝突している可能性は十分にある、か。

 

(…そこまで見えてなかったのかも)

 

栄口は反省する。阿部も葛西もしっかりしてそうに見えるからと油断していた面があるかもしれない。彼らともっとも近いポジションである三橋には感じ取れる何かが起こっていたのかもしれなかった。

 早速今日の練習からはブルペンの様子なんかもちゃんとチェックしとこうと心に決めたところに、

 

「ああ、あの!オレ…」

 

三橋が大きな声で話しかけて来た。彼にしては珍しく、こちら側に身を乗り出してなにやら必死の形相である。

 

「オレ、オレ…なにか、悪いこと…」

「……」

「2人とも、お、おこっ」

「違うよ」

 

みなまで言わせないで栄口は三橋の言葉をきっぱりと遮る。彼が言おうとしていることが分かったから、最後まで言わせたくはなかった。

 

「違うよ、三橋」

 

もう一度、栄口は三橋の目を真っ直ぐに見つめて繰り返した。必死の形相でこちらを見ていた三橋の、涙さえ浮かびそうな双眸がハッと瞬かれる。八の字に寄る眉に、笑いかけて安心させてやりたい気持ちを押しとどめて代わりにずず、と畳を擦って三橋に近づく。

 

 ぎゅ、と、三橋の、膝の上に置かれた手に手を重ねた。手のひらに当たる指の先が冷たい。近づいた距離とのせられた手に驚いたのか、三橋の体がビクリと震えた。

 それでも栄口は真剣な顔で三橋と向き合う。

 

「三橋、阿部と葛西が怒るようなことをした覚えがある?」

「………な、い、…と、思っ…」

「うん、じゃあ違うよ。阿部と葛西がおかしいなら、それは2人の間の問題で、三橋のせいなんかじゃない。…わかるよな?」

 

確認するように、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を繋げる。大きく見開かれた三橋の目は、けれどちゃんと栄口を見返してきていて、彼が栄口の言葉を一生懸命理解しようとしていることがよく伝わってきた。

 

 三橋の過去は、三橋にとって大きすぎて、1、2年やそこらでそれを払拭するにはあまりに根深いことを栄口は改めて思い知らされる。

 

 阿部と葛西の間の諍いを自分と関連付けてしまう三橋が栄口は悲しかった。

 阿部が三橋のためにどれだけ心を砕いているか、西浦野球部で知らない者はない。部員みんなが、努力を惜しまぬエースを盛り立てて行きたいと願っているけれど、特に阿部は別格だ。

 怒鳴ったり、キツイことを言ったり、つい大きな声で三橋をビビらせてしまう不器用な男は、けれど誰より自分の投手のことを思いやっている。

 

 それが伝わらないもどかしさ。

 過去、三橋が三星の部員たちに何をして、何をされたのか。栄口は想像することしか出来ないけれど、それを超えられたらと思う。そしてそれを越えて欲しいと。

 過去でなく、今、西浦で野球をしている自分自身を三橋に認めて欲しいと栄口は願うのだ。

 

 オレらのエース。

 

 自分たちが何度そう言っても、彼はどうしたってそれを完全に受け取ることが出来ないのだろう。

 

 ――オレでいいの?

 

 いつだって瞳はそう言っている。

 

(だからオレらは、お前がいいんだって何度だって言うよ)

 

ぎゅう、と栄口は三橋の手を強く握った。じ、と放心したように向けられていた小動物のようなまるい目に何かが過ぎった気がした。

 

「オレ…、ゴメン」

「そこで謝っちゃうかァ」

 

わは、と。三橋があまりに三橋なので栄口は笑ってしまう。

 

「そ、じゃなくて!や、そう…?」

「ははっ、いーよ。なんか伝わった。オレの言いたいこと分かってくれたのが、伝わったから」

「………」

「阿部と葛西のことはさ、オレも注意して見てみるよ」

「……あり、がとう」

 

目に見えてほっとする三橋の表情に自然と頬が緩む。

 

「こっちこそありがとな。オレに話してくれてさ」

 

ひひ、と笑うと、ウヒ、と三橋も笑い返してくる。部室の隅で、しばらく2人して笑い合ってしまった。男同士がふたりきりで手を握り合って笑っているなんて傍から見たら相当、奇異に映るだろう。しかし幸いなことに、部屋の中には栄口と三橋しかいない。

 

「あ、予鈴だ」

 

規則正しく刻まれる聞き慣れた音が校舎の方から聞こえてきたのを合図に栄口は立ち上がる。

 

「よし!行くかー」

「う、うんっ」

 

続いて立ちあがった三橋の顔に浮かんでいるのが笑顔であることが、栄口は嬉しかった。